飼い猫の特権



キョンという呼称で呼ばれている私の主人は、いつもより早い時間に、どうにも浮かない顔で帰ってきた。
私が彼の不在の間に部屋に入り込み、しかも彼のベッドを占拠していたことを咎めもせず、彼は乱暴に荷物を放り出す。
そうしてべたりと床に座り、ベッドに上体を伏せた。
眉間には、いつにも増して深い皺が刻まれ、何やら懊悩としていることが伺える。
彼は決して単純な人間でもないが、深く思い悩むことの多い性質でもないはずだ。
その彼が何を悩んでいるのかと、いささか下世話な好奇心が疼き、私は彼に顔を近づけた。
悩ましげにため息を吐いた彼は、やっと私に気がついたというように目を合わせてきた後、ややあって、小さく呟いた。
「…お前、もう喋らんだろうな?」
「私はいつでも話している。ただ、君たちがそれを理解出来ないだけに過ぎない」
と私としては答えたつもりなのだが、彼にはやはり理解出来なかったようだ。
人間というのはどうにも鈍く出来ているのが残念だ。
彼と会話をするのはなかなか面白く、貴重な経験だっただけに惜しまれる。
「…大丈夫……だよ…な…?」
迷うように呟いた彼は、どうやら誰か愚痴を聞いてくれるものを求めていたらしい。
それならば私は打ってつけだろう。
たとえ人語を話せたところで主人の打ち明け話を言いふらすほど軽佻なものではないからな。
彼はもう一度ため息を吐いたかと思うと、
「…長門に、告白された……らしいんだ」
らしい、とはまた曖昧だ。
主語も抜けているので誰が彼女に告白されたのかが不明確だ。
しかし、この様子から察するに、彼が告白されたということなのだろう。
違うとしたら、告白された相手は彼の思い人だろうか。
そんなものがいるとは少しも気がつかなかったが、この風情からするといても不思議ではなかろう。
それほどまでに今日の彼は悩ましい。
「…俺は、長門が俺のことを好きだなんて、考えてみたこともなかったんだ」
と彼が続けて呟き、主語は彼であったということが確定した。
さてその続きは、というと、彼は非常に言い辛そうにしながら言った。
「こう言うと悪いけどな。……長門が、そんな感情を持ってると、思わなかったんだ。統合思念体なんかのことを考えると、長門にそんなもんが芽生えた時点で消されるんじゃないかとも思ってたしな」
難しいものだ。
確かに彼女は普通らしからぬところもあったが、普通の女性らしいところも存分に持っていた。
しかし彼には気がつけなかったということなのだろうか。
あるいは彼女がそうと悟らせなかったか。
…おそらくは彼に非があったのだろう。
無意識的に、恋愛沙汰というものから離れたところに身を置こうとする性質を、どうやら持っているようだからな。
厄介なことに。
「それに、俺としては…長門が俺を好きだとしても、それは家族みたいなもんだと思ってた。俺が……そうだから…」
これは想像に難くない。
彼のことだ。
彼女のことをもう一人の妹や、あるいは娘のように思っていたに違いない。
それゆえに優しくし、結果彼女は彼にそれ以上の好意を持ったということだろうか。
「しかし、それで悩んでいるようには見えないのだが…」
私の呟きが聞こえたわけではないだろうに、彼はため息を吐き、悩みの種を明かした。
「何で俺は……長門に告白されたってのに、長門のことを考えてないんだろうな」
自嘲するように、彼は笑った。
悲しくなるような笑いだ。
「長門に好きだって言われて、実感が湧かなかったからかも知れんが、驚くばかりだった。それ以上のものはなくて……嬉しいとも、思わなかったんだ。薄情だよな……」
君はまだ若くて経験も少ない。
そういうこともあるだろう。
特に、実感出来なかったと言うならば。
「…代わりに、何でだか分からんが、古泉のことばかりがちらつくんだ。……あいつが、失恋したって言ってたからだろうな」
そう言って目を伏せた彼は、
「…あいつも……あんな風に誰かに告白したのかね…」
とかすかに呟いて黙り込んだ。
もしかして彼は……。
「なるほど、そういうことかね」
と私は笑みを零した。
酷く鈍く出来ているからこの先一体どうなるものかと案じていたが、どうやら杞憂であったらしい。
彼にも、やはり恋愛感情というものは萌芽し、それゆえに彼は戸惑っていると見える。
そのきっかけが長門有希というあの少女の告白だと考えると、彼女には非常に残念だとしか言いようがないのだが、彼にそのような人並みの感情が芽生えたことは喜ばしいと言ってもいいだろう。
あるいは、人並み外れて聡明な彼女のことだ。
彼に発破を掛けるために、あえて勝機のないまま、そのようなことをしたのかもしれない。
それならば礼の一つも言わなければなるまい。
そんなことを考えながら、私は彼に声を掛ける。
通じないとは分かっていたが、それくらいはするべきだろう。
日頃世話にもなっていることだからな。
「それほど気になるのであれば、やはりかの少年のことが好きだということに他ならないのではないのかね? 彼が失恋したと聞いた時にも、随分と落ち込んで帰ったではなかったのか?」
「あいつは……誰に告白したんだろうな…」
ぽつりと彼が呟く。
その耳に、届かないと知りながら言葉を囁く。
「おそらく、告白などしていないのだろう。彼が好きなのが君であることはまず間違いないはずだ」
それくらいのことは、短期間しか彼に会ったことのない私にも分かった。
加えて、先日、涼宮ハルヒという少女が来た際の様子からしても、それは間違いのないことだろう。
「失恋したということが直接、告白を断られたということを意味するとは限るまい。恋愛感情を抱いた対象に他に想い人がいた場合、それを理由に諦めればそれもまた失恋と言える。おそらく彼は、君に他に好きな対象がいると勘違いしたのではないのかね?」
そうであっても不思議でないくらい、思い込みの激しそうなタイプに見えた。
「君がそれを願うのであれば、彼は簡単に振り向くだろう。その前に、君が自分の感情に気づいた方が早いのではないのかね?」
「あいつが好きな相手か……。………思いつかん」
そう唸った主人はまだ必死にぶつぶつと何やら呟いている。
「あいつが親しくしてるのなんてSOS団以外に思いつかん。もしかして学校関係者ですらないのか? 超能力者関係の知り合いなら俺には全然分からんぞ。……というか、俺は、あいつのことを本当に知らないんだよな…」
その眉が苦しげに寄せられる。
「そこまで考えられるのに、どうして自分の感情には気が付かないのかね?」
それともわざとなのかね。
いっそその方が話も分かりやすいくらいではないだろうか。
「もう付き合いも長いのに……。あいつの家に行ったこともないし、あいつをここに呼ぶのも成功してない。…やっぱり、あいつにとって俺は……友人ですら、ねえのか…」
そう呟いて、悲しげに顔を歪める。
「俺はもっと……あいつを、知りたいのに…そう考えるのも、だめなのかよ……」
「もう、気付いているのではないのかね? 自分の感情に」
「…………待てよ、」
と主人が声を上げた。
その頬が、耳が、見る間に赤く染まっていく。
「何で…俺は、こんな、必死になって、あいつのこと…考えて……」
やっと気がついたのかね?
それならば、人と比べると鈍いものの、まだ人並みであると及第点をあげたいところだが。
「…そうだ、今考えるべきは長門にどう返事をするかであってあいつのことじゃない」
そう言って思考を無理矢理打ち切った主人に、私は呆れるしかない。
何かトラウマでも抱えているのかね?
まだ若いんだ。
何もそこまで恋愛沙汰を避けなくてもいいと思うのだが。
しかし……、
「…もう少し、なのだろうね」
呟いて、私は主人の顔に口を近づけると、ざらりとその唇を舐めた。
「シャミ?」
首を傾げる彼に、もう一度。
「こら、くすぐったいぞ」
と笑う笑顔にもう一度。
主人が誰かのものになるのは少々寂しいが仕方あるまい。
祝福の意味も込めて、もう一度舐める。

これくらい、飼い猫の特権として認められても良いだろう?