心の在り処



もう終ってしまう。
あるいは、決まってしまう。
そのことが、私には分かった。
…それでいいのかも知れない。
そもそも、私のこの感情は、本来抱くべきではなかったはずだから。
私の役目は、涼宮ハルヒの観察。
観察対象が彼女を取り巻く環境に広がっても、私の役目はあくまでも観察、あるいは観測であり続けた。
私が今のように積極的に関わるのは、本来ならあってはならないことのはずだった。
それが許されたのは、情報統合思念体の気まぐれに過ぎないのだろう。
許されたことを喜ぶべきなのか、それとも恨むべきなのかも私には分からない。
こんな感情を知りたくなかったという気持ちと、これを知ることが出来たこと、また、涼宮ハルヒなどと近しい関係を築けたことを喜びたい気持ちとが入り乱れ、制御しきれなくなりそうになる。
私の気持ちはもはや彼に迷いを生じさせるだけだと分かっている。
伝えないままでいた方が彼とぎこちなくならなくて済むということも、予想は出来る。
それでも私は、彼に伝えたいと思った。
私をあの優しい人達に近づけさせてくれた彼に。
私のことを、私が望むような形とは少し違うけれど、大切に思ってくれている彼に。
この気持ちだけでも、私がそんな感情を抱けるようになったということだけでも、伝えたかった。
私は手紙を書こうとして机に向かい、ずっと考えていた。
それでも、指がうまく動かない。
何から書けばいいのか分からない。
整理がつかない。
言葉を操るというのはとても難しいことだと、これまで以上に強く感じた。
仕方なく、私は簡単な文だけを記す。
『放課後、体育館裏で』
真っ白い便箋にそれだけ書いて、白い封筒に仕舞う。
こういう時の手紙には、ハートのシールを使うというセオリーがあるようだった。
でも、私には出来ない。
これが、恥ずかしいという気持ち?
……よく分からない。
分からないけれど、私はそっと封をし、簡単に〆のマークを書いた。
これを明日彼の靴箱に入れよう。
そう考えるだけで胸の中が熱くなるような、締め付けられるような、よく分からない感覚がした。
眠れるだろうか。
布団に潜りこみ、目を閉じる。
頭の中は不思議と冴え渡っていて、睡眠の欲求もない。
それでも、と眠ろうとする私が思い描くのは、彼の姿だけだった。
こんなに……好き…なのに。
きっと彼には届かない。
届けられない。
彼は、解ってくれない。
それが、彼と親しくなりすぎたためだとしたら、私はどうするべきだったんだろうか。
彼と親しくならなければ、彼を好きだと思う気持ちも生まれなかった。
でも、彼と親しくなりすぎたからこそ、彼は私を恋愛対象として見てくれない。
「……難しい」
呟きは暗闇の中に溶けていった。

翌朝、まだ早いうちに登校した私は彼の靴箱の中に手紙をいれ、部室に向かった。
いつもの場所に座り、本を読む。
英語で書かれたそれは、所謂恋愛小説と言われる物で、初めてそれに気がついたのは朝比奈みくるだった。
あの大きな目を更に大きく見開いて、
「な、長門さん…それって……」
と言うものだから私は、
「……おかしい?」
と問い返してしまったのだけれど、それはよく考えるととても失礼なことだったかも知れない。
同時に、私自身が、そんなものを読むことをおかしいと感じているようでもあった。
朝比奈みくるはふるふると小動物めいた動きで首を振って、
「おかしくなんてないです!」
そう否定してくれた後になって、
「そっか…。長門さんも、そういうの読むんですね…」
とどうしてか、とても嬉しそうに言ってくれた。
幸せそうに微笑んで。
次に気がついたのは涼宮ハルヒ。
私が読んでいるもののタイトルを覗き見て、驚いた様子を見せていたけれど、すぐに楽しげに微笑んだ。
何も言われなかった。
私も何も言わなかった。
けれど、何かが通じたように感じられた。
古泉一樹も気がついた。
タイトルを見て、
「…へぇ……」
と感心したように呟いた後、いつものあの笑顔で、
「そのジャンルで面白い作品があったら、僕にも貸していただけますか? 参考になるかは分かりませんが、読んでみたいと思っていたところなんです」
「…分かった」
「お願いします」
と笑った顔は、人懐っこい犬みたいだと思った。
古泉一樹が校内で女生徒を中心に人気を得ていることにも納得が出来た。
それでも古泉一樹は彼を選ぶ。
彼だけを好きでいる。
他の誰にもなびかず、ただ真っ直ぐに。
ある意味では、私達の中で一番純粋なのは古泉一樹だと思う。
一番、傷つけてはいけない気がする。
それなのに、私は――。
「おはようございます」
ドアを開けて、にこやかにそう言ったのは古泉一樹だった。
「今日もお早いですね」
こうして古泉一樹と始業前にここで顔を合わせるのは、珍しいことではない。
自分のクラスで余計な時間を過ごしたくないと感じているのは、私達二人の共通事項だから。
「…これ」
と私は薄い本を差し出す。
絵本のような薄さだけれど、英語で書かれたそれに、とっつき易さを感じるかどうかは人それぞれだろう。
古泉一樹は軽く首を傾げながら本を受け取った。
「これは……」
「…前に言っていた本」
「……ああ、」
声に喜色を乗せて、古泉一樹は微笑んだ。
「ありがとうございます。覚えていてくださったんですね」
「出来る限り早く返して」
私がそう注文を付けると、古泉一樹は意外そうな顔をしていたけれど、そのまま頷いた。
そうして椅子に座り、本を読み始める。
私は少し早いけれど、古泉一樹を残して部室を出た。
どんな顔をするだろうかと思いながら。
やがて、放課後はやってくる。
来て欲しくなかったように思いながら体育館裏に向かうと、少しして彼がやってきた。
…来なくてもよかったのに。
「長門、何かあったのか?」
私の字だけで私からの手紙だと解ってはくれたようだった。
でも、靴箱に手紙、体育館裏に呼び出しと、それらしい要素を散りばめても、彼はまだ、私の抱いている感情になど気が付いてもくれない。
「長門?」
心配そうな彼の顔が見える。
でも、彼が心配しているのは何だろう。
私?
それとも涼宮ハルヒ?
世界?
あるいは……。
胸が苦しくなる。
彼の顔を見ていられなくなる。
だから私は黙ったまま、何も言えないまま、彼に抱きついた。
「長門!?」
驚く彼の声が聞こえる。
これで伝わってしまうことを期待するくらい、私の心臓は高鳴っているのに。
「どうしたんだ?」
彼は、戸惑うだけ。
苦しい。
悔しい。
悲しい。
どうしたらいいのか分からない。
まだ通じないことに絶望さえ覚えた。
あなたと出会って、私はどれだけ多くのことを知っただろう。
あなたを好きになって、どれだけ多くの感情を得ただろう。
そのことを喜びながら、嘆く。
知りたくなかった。
知らずにいたかった。
そんなものまで、あなたは私にくれた。
「…私は、あなたが、好き」
彼の逃げ場を塞ぐようにはっきりと言ったのに、彼は一瞬心臓が止まったような顔をした。
「……えぇと……それは…」
まだ逃げ場を探している。
でも、私はそれを与えない。
与えられるだけの余裕が、私にはない。
だから、彼を困らせるだけだと分かっていながら言い添える。
「…恋愛感情というのだと、学習した」
「……」
彼は困った様子で黙り込んだ。
私もこれ以上何も言わない。
どうあっても、私の望む答えはもらえないと分かっていたから。
なぜなら、彼は気がついてもくれなかったから。
私が読んでいる本が恋愛小説に変わったことにさえ。
私が彼を見つめていたことにさえ。
……古泉一樹の変化だったなら、微細なものであっても気がついたのに。
つまりは、そういうこと。
「……それだけ、伝えておきたかった」
私がそう言って体を放すと、彼は赤味を帯びるどころか青褪めた顔で私を見つめ返していた。
「伝えておきたかったって……」
「心配要らない。……いなくなったりするわけじゃない」
ただ、彼の心が完全に決まってしまう前に伝えたかった。
あるいは、彼の心を決めてしまうために。
私は黙ったまま彼を残してその場を離れた。
……もう一人の「彼」は、私の意図を理解しただろうか。
理解しなかったかもしれない。
あるいは、私が本に潜ませたメモに気がつかなかったかもしれない。
ただ、そこまで親切にしないことくらい、許してもらいたい。

私にだって、心はあるのだから。