部室に入ってすぐにそれに気がつかなかったのは、それが廊下側ではなく窓側に出来ていたからだ。 古泉の頬の目立つ湿布に、古泉の正面に座ってやっと気がついた俺は目を丸くした。 「お前、どうしたんだ? それ」 おそらく今日だけで何度も繰り返されたんだろう質問に、古泉は苦笑を浮かべた。 昨日俺がハルヒに用事を押し付けられて帰った後に、閉鎖空間が発生したとかじゃないだろうな? 「少々トラブルがありまして…。でも、大したことはないんですよ」 と笑った古泉に、俺は顔をしかめる。 また俺には言えないってのか。 「そう怖い顔をしないでください」 困ったように、古泉は言った。 「本当に、大したことではないんです。普通のトラブルですよ。極普通に、高校生活を送っていれば誰にだってありえるような、ね」 「…俺はいまだかつて頬に湿布を貼るような破目に陥ったことはないがな」 「それは幸運ですね」 「で? その下はどうなってんだ?」 好奇心を隠しもせずに言うと、古泉は苦笑して、 「……見ますか?」 「いいのか?」 「そろそろ湿布を変える時間でしたから、構いません」 そう言って古泉は頬に貼っていた湿布をぺりりと剥がした。 現れたのはくっきりとした手形で、俺はドラマでも滅多に見られないほど見事なそれにしばし目を奪われた。 そんなものを頬に残すシチュエーションが十といわず脳裏を駆け巡る。 ――お前、そんな、高校生のくせに…。 いやいや、そうと決まったわけじゃない。 とりあえず申し開きをさせてやったっていいじゃないか。 なんで俺が申し開きを要求せねばならんのか分からんが。 やっと我に返った俺は呆れ混じりに、 「…何やったんだ? 色男」 と言った。 しかし古泉は堪えた風もなくへらりと笑い、 「いやぁ、あなたが想像されるような色っぽい事柄ならまだいいんですけどね。実際にはそういうわけじゃないんです。…僕が煮え切らないものだから、友人に喝を入れられた、とまあ、そういうことなんですよ」 分かるような分からんような説明だが、思い切り平手打ちを食らわされたことに間違いはないらしい。 「ついでだ。湿布貼ってやるよ」 以前の反省も忘れてついつい首を突っ込んじまったことと、反射的に下世話な妄想をしてしまったこととを、改めて反省しながら、古泉がカバンから取り出した湿布の袋を取り上げると、 「自分で出来ますよ?」 「鏡もないのにか?」 「それは…」 「いいから、湿布貼るくらい任せろって」 言いながら、笑っちまったのはあれだ。 古泉の態度がなんとなく、出来もしないのに自分で出来ると言い張る妹のそれと重なったからだ。 可愛いな、なんて思っちまった。 開封済みの袋の口を開き、一枚だけひんやりとした湿布を取り出す。 薄いフィルムを剥がして、白い面をあらわにしたそれを顔に近づけてやると、古泉が目を閉じた。 緊張しているような顔なのに、なんだか無防備に見えて、からかってやりたくなった。 つっと指先で平手痕を撫でると、 「痛…っ!」 と古泉が顔を歪めて声を上げた。 「何、するんですか…!」 「すまん、ここに貼ったんでいいのか見当を付けたかっただけなんだ」 そう答えながら、妙な胸のざわめきを封じる努力を要したのは多分、古泉のその表情が、あまりにも意外で、これまでに見たことのないものだったからだろう。 だから戸惑った。 古泉が俺にも、それこそ、本当に心を許してくれているかのように、素直に感情を示したことが驚きで、同時になんでだか妙に嬉しくて。 古泉に、そんな風に心を動かされることが、おかしなことのように思え、違和感を覚えた。 「あなたにからかわれるのにももう慣れましたけど、流石に痛いことは勘弁してください」 表情だけはいつも通りの苦笑顔で、しかし口調はどこか拗ねた子供のような言い方に、何かが揺らぎそうになった。 なんだろうな、この感覚は。 「悪かったな」 自分の思考を吹っ切りたくて、わざとぶっきらぼうに言い、乱雑に湿布を貼ってやると、痛そうに顔を歪めながらも、 「ありがとうございました」 と礼を言う古泉に何か言いたくなったのだが、それを口にするより早く、 「やっほー!」 とハルヒがなにやら上機嫌に登場した。 昨日人に用事を押し付けてくれたからか、今日は一日上機嫌だったが、一体なんだったんだ、昨日のあれは。 ハルヒに代わって校内パトロールの上、帰り道もしっかり見回れなどとわけの分からないことを言われ、しかも部室には近づきもするなと念を押された。 正直、怪しいことこの上ない。 それなのに素直に従ったのはハルヒが妙に真剣だったのに加え、 「親友の頼みなんだから聞きなさいよ、それくらい!」 と言われたのに負けたのだ。 …親友、なんてのは、いきなり自称されたのを除けば、俺には一度もいなかったからな。 当分これでハルヒのいいように扱き使われるんだろう。 ハルヒは機嫌よく室内を見回し、古泉を見つけるとはっとしたように表情を曇らせた。 そうして、俺を押し退けるようにして古泉に駆け寄ると、 「ごめんね、古泉くん。大丈夫…じゃ、なかったのよね?」 「ああ、いえ。大したことはありませんから」 「でも、その袋、病院に行って湿布もらったってことでしょ? 治療費はあたしにちゃんと請求していいから」 「大丈夫ですよ」 と古泉は笑って請負い、 「知り合いのところで湿布をもらっただけなんです。袋はちゃんとしてますけど、実費しか払ってません。大した金額ではありません」 「それでも、払ったんでしょ? それなら、あたしにちゃんと請求して。そうじゃないと、気分が悪いわ。…分かるでしょ?」 古泉は困ったように考え込んでいたが、やがて諦めたように小さく息を吐くと、 「分かりました。それでは、後日ちゃんと領収書を切ってもらってきますので」 「絶対よ」 ハルヒはそれでほっとした様子だったが、俺には訳が分からん。 分かったのは、ハルヒが古泉を平手打ちしたらしいということだけだ。 「ハルヒにやられたのか?」 戸惑いを隠しもせずに聞くと、古泉は苦笑しながら小さく頷いた。 「何があったんだ?」 同じSOS団員なんだ。 それくらい聞く権利はあるだろうと思いながら問えば、古泉は、 「…ちょっとしたトラブル、ですよ」 と繰り返した。 「俺には関係ないってのか?」 「……直接的には、関係がありません。勿論、あなたが気に掛けてくださるのは分かりますし、光栄でもありますが、詳細に説明することであなたを余計に困らせてしまうかと思うと、説明し辛いものがありまして。…それに……」 古泉はおどけるように笑い、 「…たまには、あなたに秘密、というのも楽しいと思いまして」 「なんだよそりゃ」 俺が不貞腐れると、古泉はかすかに声を立てて笑い、 「すみません」 とだけ言った。 本気で言うつもりがないらしい。 面白くない、と思っていると、ハルヒがすまなそうな顔で、 「本当に、ちょっとした行き違いってやつよ。だから、別にあんたが心配しなくてもいいんだけど」 「行き違い?」 「そう。…大したことじゃないの。あたしが、ちょっと勘違いしちゃって、勢い任せに叩いちゃっただけで」 そう言ったハルヒは本気で反省しているようだった。 それが分かっているからだろう。 古泉は柔らかな微笑と共に、 「誤解の原因を作ってしまったのは僕ですし、一応解決したことです。謝罪の言葉も十分過ぎるほどいただきましたし、これ以上あなたが心を痛める必要はありませんよ」 と優しく言った。 「…ありがとね、古泉くん」 「いいえ」 かすかに微笑を交わす二人に、なんとなく胸が痛んだ気がしたのは、疎外感のせいだろうか。 いつのまにここまで仲良くなってたんだろうかとか、俺がいてもいなくても構わないような空気だなとか、思うほどに胸が痛む。 別に、ハルヒと古泉が仲良くなってたっていいはずだ。 むしろそれは喜ぶべきことだろう。 俺がいてもいなくてもいいというのも、当然のことだ。 俺にそんなに意味などないはずだからな。 それなのに、そんな風に感じるってことは、気付かない間に自意識過剰に陥ってたのかね、と嫌悪感と共に胸の内で呟いた。 自己分析したところで、面白くないものは面白くなく、だから俺は、帰る途中になって、まるで因縁でもつけるように言っちまったのだ。 「お前、ハルヒと付き合ってんのか?」 と。 言われた古泉は軽く眉を上げて驚きを表現した後、静かな声で言った。 「……だとしたら、どうします?」 底が見えない静けさは声ばかりでなくその瞳にも伺え、今日一日のうちで最も強く胸が痛んだ。 いつもなら何かしら笑みだの情けない表情だのを浮かべているはずの顔が、何の感情も伺えないような無表情になっていた。 あるいはこれが、こいつの真顔なんだろうか。 元が綺麗なだけに、異常なほど人形めいて見えた。 冴え冴えとした空気をまとっているようにさえ。 痛む胸を反射的に押さえた俺が、戸惑っているまま何も言えずにいると、古泉はくすっと笑った。 そうして、いつものように優しい、温かみのある声で言う。 「言ってみただけですよ。驚かせてしまってすみません。彼女と付き合っている、なんてことはありません。ですからどうぞ、」 そこで一瞬言葉を切ったのは強調のためだろうか。 それとも、躊躇いだったのか? 「…安心してください」 安心ってのはなんだよ、とも言えないまま、俺は得体の知れないものを見るように古泉を見つめ続けた。 手で胸を掴んだまま。 正体不明の不安と痛みが、古泉のそんな態度以上に不気味に思えた。 |