幸せでなくとも嬉しい



「あいつは俺のことを友人だと思ってないのか?」
独り言のように彼が呟く。
私と彼の二人しかいない以上、その言葉は私に向かってのものだったはず。
けれどそれは私がいなくてもよかったのかもしれない。
今も彼は私を見ていて、見ていない。
彼の頭を占めているのは、昨日睡眠不足で昏倒した古泉一樹のことばかり。
「なんであいつは頼って来なかったんだ? そもそも、無理して出てくる必要なんかなかっただろ」
古泉一樹が昨日登校したのは、そうしなければ涼宮ハルヒの機嫌を損ねる可能性があると判断したため。
何より、あなたに会いたかったから――とは言わなかった。
そこまで親切にすることはないと思うから。
私と古泉一樹は曲がりなりにもライバルで、恋敵。
それなら、この思考も態度も当然のこと。
「…俺はそんなに頼りにならんか?」
そんなことはない、と私は首をかすかに振る。
最小限の動きでも、彼は理解してくれる。
だから、……好き。
私のこの感情は、本来ならきっと必要のないバグとして消去されるべきはずのものだと、理解している。
それでも捨てられない。
それが恋愛感情というものなのかと古泉一樹と朝比奈みくるに聞いてみたら、
「僕にもよく分かりませんけど…きっとそうだと思います」
「あたしも、そうだと思います。だから、そんなつらそうな顔しなくっていいんですよ?」
と二人がかりで慰められてしまった。
……古泉一樹にしろ、朝比奈みくるにしろ、涼宮ハルヒにしろ、とても優しい人たちだと思う。
変わった人だとも。
恋敵であるなら、親切にしなくてもいいと思うのに、私のことも考えてくれている。
優しくて、同時に危なっかしい。
「あーあ」
ため息を吐くように伸びをした彼が、天井を見上げて呟く。
「結局あいつは、俺のことを友人だとも思ってないのかね」
寂しそうに、悲しそうに呟くものだから、私の胸はずきりと痛んだ。
彼は古泉一樹との距離を埋めたがっている。
その動機が友情に起因するものなのか、それとも違うのかは私には分からないし、知りたくもない。
思うのは、たとえば私が彼と距離を取ったとして、彼はそのことについて何か思ってくれるのか、ということ。
今のように悲しがってくれるのか。
それとも、私はそんなものだと思ってしまうのか。
私にも、人を好きになる程度の感情はあるのだと、彼は気付いているのだろうか。
私に心があるのかは私にも分からない。
思考をめぐらせることは出来る。
胸が痛むこともある。
羨んだり、妬いたりすることもある。
でも、これが心と言われるものなのかは、私にもよく分からない。
「……あなたは、古泉一樹の友人になりたい?」
私が尋ねると、彼は軽く眉を寄せて、
「とっくにそうなってるはずだろ。なのに、一方通行みたいになってんのが嫌なんだ」
子供みたいに言った。
可愛い、と思うと同時に、彼のそんな表情を引き出せる古泉一樹を羨み、私は言葉を紡ぐ。
「特別になりたい?」
と。
「……特別?」
なんだそりゃ、とますます顔をしかめる彼に私は言う。
「古泉一樹はあなたのことを友人であると思いこもうとしている。しかし、本当は、あなたの特別な存在になりたいという願望を抱いている」
それは私も同じ。
誰にでも等しく優しい彼の、特別な存在になりたい。
特別優しくして欲しい。
ほかの人なんて見ないで欲しい。
私だけの彼が欲しい。
私だけに特別な表情を見せて欲しい。
苦しいほどの欲求が恋愛感情なら、とても浅ましくて厭らしい。
彼はこんなに綺麗で優しいのに。
全てを吐き出すことも、表情に滲ませることも出来ず、私は黙って待っている彼のために、言葉を続ける。
「あなたのイラつきの原因は、彼とあなたの希望がずれていること
によると推測される」
「…特別ってなんだよ」
分からない、と呟く彼に、私はこう言うしかなかった。
「……見ていれば分かる」
と。
「見ていれば?」
「もう少しすれば古泉一樹が到着する」
私の言葉から約43秒後、
「遅くなりました」
と古泉一樹が到着した。
「ああ」
まだ不機嫌なまま、そう言葉を返す彼。
怒りの鎮静にはまだ至っていないようだ。
私はポケットから飴玉を取り出した。
昨日朝比奈みくるにもらってから、入れたままになっていたものだ。
そうして立ち上がり、古泉一樹に近づく。
彼が古泉一樹をからかう時のように、顔を至近距離まで近づけて、
「……食べる?」
と聞く。
古泉一樹は私が普段ならしないような行動を取っているからか、戸惑う表情を見せながらも、顔色までは変えず、
「え、ええ、いただきます…」
と答えた。
表情で判断するなら、彼の方がよっぽど驚いて、慌てているように見えた。
私は飴玉の包み紙を解くと、丸いそれを指で摘み、古泉一樹の口元に差し出した。
「あーん…」
「……彼の真似ですか?」
そう小さく、余裕ぶった笑いを浮かべた古泉一樹は、それでも、
「あーん」
と口を開けた。
私は摘んだ飴玉を自分の口に入れた。
予想していたのだろう古泉一樹はくすくすと楽しげに笑って、
「美味しいですか?」
と私に聞いてくる。
だから私は小さく頷いて、
「……食べたい?」
舌先に載せた飴玉を見せるように口を開いた。
一瞬彼らが息を飲むのが聞こえ、何かを成し遂げたような気持ちになりながら口を閉じる。
古泉一樹は呆れたような顔をして、
「……あなたが教えたんですか?」
と彼に聞いたけれど、
「違う」
彼が否定し、私も首を振った。
「どこで覚えたのか知りませんが、そういうことは軽々しくしない方がいいですよ。不埒者は多いですからね」
私が何ものか分かっていてそう忠告してくれる古泉一樹も、お人好しに分類して構わないだろう。
こくりと頷きながら、私は彼に視線で問う。
分かった? と。
彼は少し考え込んだ後、
「……なあ、古泉」
「はい? なんでしょうか」
「お前、なんで俺がああいうことしたら真っ赤になるんだ? 長門だったら全然平気なくせに。普通、女子相手の方が恥ずかしいもんじゃないのか?」
「っ…!?」
古泉一樹の顔が赤くなる。
羞恥に、あるいは、自らの失態に気付いた様子で。
――そう。
彼への恋愛感情を隠すつもりなら、彼の前でも表情を一定に保つこと、あるいは私に対しても彼に対するのと同じようにうろたえる必要があった。
それに気がつかなかったのは古泉一樹の失敗。
そうして、私がそんな風に仕向けたのは、少しばかりのお節介と私が他の男性と接触過多に陥った場合の彼の反応の観察がしたかったから。
現在の懸案事項のせいか、彼は少しも古泉一樹に妬いてはくれなかったようだけれど。
答えられないでいる古泉一樹に、彼は更に問う。
「…俺だけ特別だから、なのか?」
「……そう、ですよ」
観念したように古泉一樹は言った。
おそらく、彼に気持ち悪がれたりする覚悟を決めたのだろう。
しかし、それに対する彼の答えは、
「……ふぅん」
という呟き、ただそれだけで。
「あの……それだけ、ですか?」
「ん? 何か言うべきなのか?」
軽く首を傾げて聞き返す彼に、更に押していくような勇気など、古泉一樹にあるはずもなく、
「……もういいです…」
と引き下がった。
……情けない。
「とりあえず、友人またはそれより上に思ってくれてるんだよな?」
そう確認を求める彼に、一縷の望みを持ったのか、
「え、ええ、もちろんです」
少しばかり表情を明るくして言った古泉一樹に、彼も満足気に微笑み、
「ならいい。…今度からは、ちゃんと頼って来いよ」
「…あの……」
「今度は何だ」
「…もしかして、それで怒ってらしたんですか…?」
どうやら、古泉一樹はそのことにさえ気がついていなかったらしい。
彼も鈍いけれど、古泉一樹も同じくらい鈍い。
「俺だけそう思ってるなんてのはしゃくだからな」
噛みつくように言った彼も可愛い。
でも、そう思ったのは私だけじゃなかったらしい。
「ありがとうございます」
すっかり元気を取り戻した古泉一樹がそう言うと、彼は不機嫌そうに、
「何に対する礼だ」
「僕のために怒ってくださったことに対してです。…あなたに怒っていただけて、嬉しいですよ」
「……変なやつ」
彼らのこの微細な変化は事態を好転させるきっかけとなるのだろうか。
私にとってもそうなり得るのだろうか。
分からない。
けれど。

彼の嬉しそうな笑顔が、私には何よりも幸せを感じさせてくれる。