恋の病は疲労と紙一重



教室の窓辺に立ち、見るともなしにグラウンドを見ていた。
見るものなんて、本当はどうでもいい。
空を見ようと木を見ようと、関係ない。
どうしたって、彼のことばかり考えてしまうんだから。
そっとため息を吐いたところで、背後でざわめきが起こるのは何なんですか。
人の不幸が面白いんですか。
いえ、不幸と言うには余りにも恵まれた状況だとは思いますよ。
思いますけど、正直、僕は本当に涼宮さんの娯楽のために存在しているんじゃないかと思いもするんです。
閉鎖空間も発生していないのに、僕がこんなにも疲労困憊している理由は単純だ。
何が面白いのか、彼が僕にちょっかいを掛けてくるからで間違いない。
本当に、あの人は何を考えてるんだろう。
人のことを糠喜びさせては谷底に突き落とすくせに、最近はそれが僕に対して集中砲火状態だ。
「一体何を面白がってるんですか」
ため息を吐きつつ問えば、彼はこれまでならなかなか見せてはくれなかったはずの満面の笑みを安売りしながら、
「お前が赤くなったりどもったりするのが面白い」
ばっさりでした。
何の躊躇いもありませんでした。
あれです、無邪気な子供そのものです。
こっちの動揺なんておかまいなしで、むしろその動揺している様を面白がってる姿なんて、小さい子供が虫を解剖して遊んでるのと同じようにしか見えないくらいだ。
それも彼の可愛らしいところではあるけれども、正直、勘弁願いたい。
…部室……行きたくないなぁ…。
このままここにいると掃除当番の方々の迷惑になると分かっていても、離れ難い。
掃除当番を代わりましょうか、と声を掛けてみたんだけど、断られてしまったので余計にい辛くもあるんだけれど。
どうしようかな、なんてもうひとつため息を吐いたところで、
「古泉」
と声を掛けられ、反射的に竦みあがったのは、その声の主がまずもってこのクラスにやってくることなんてない彼であり、その彼のことをずっと考えていたせいだ。
ぎぎぎぎぎ、とぎこちなく振り返り、
「ど、どうしたんですか」
「部室に行くついでに誘って行ってやろうかと思ってな」
普段そんなことを考えもしないくせに何でこういう時ばっかり…。
「珍しいですね、あなたがそんなことをするなんて」
「あー…まあ、そうだな」
「どうなさったんです? 何か気になることでも?」
「いや。ただ、」
ただ?
「お前が逃げそうな気がしたから」
あなたいつから超能力者になったんですか。
いえ、前々から察しのいい人だとは思ってましたし、それもまた好ましいところだと思ってましたけど、それにしたってどうしてそこまで察せられるくせに、自分に向けられる好意には全く気付かないんですか。
流石に口には出せず、その代わりに絶句した僕に向かって、彼は悪戯っぽく笑うと、
「当たったみたいだな」
「え、いえ…その……」
「ほら、さっさと荷物を持て。早く行かんとハルヒに怒鳴られるぞ」
僕なんかが彼に勝てるはずもなく、
「はい…」
と答え、僕は仕方なく彼と共に部室に向かったのだった。
気分はドナドナだ。
彼の方は非常に機嫌よく僕を連れて行き、
「よう、古泉も連れてきたぞ」
なんて誇らしげに涼宮さんに報告している。
涼宮さんはにやにや笑いながら、
「あら、ご苦労様。キョンにしては気が利くわね。それにしても古泉くん、」
と僕に少しならず意地悪な笑みを向けて、
「同伴出勤なんてやるじゃない」
「なっ、何言い出すんですか!」
驚いて思わずそう叫んだところで涼宮さんに堪えるはずもなく、
「冗談よ冗談」
と笑い飛ばされてしまったけど。
今ので疲労度も一割増しだ。
ぐったりしながら椅子に座ったところで彼がカバンの中からごそごそと何かを取り出した。
取り出されたのはどこででも売っているようなチョコレート菓子で、
「ハルヒ、食べるか?」
そう聞かれた涼宮さんは楽しげな笑みと共に、
「勿論よ」
と頷いた。
「ほらよ」
と投げ寄越された個包装のそれを受け取った涼宮さんは嬉しそうで、なんとなく、吹っ切れているようにも見えた。
彼と友達でいるということを選んだからだろうか。
凄く晴れやかで、そのことを楽しんでいるように思える。
そうして吹っ切れることを僕が羨ましく思っている間に、彼は朝比奈さんと長門さんにもそれを渡し終えた後、いつもの席であるところの僕の真正面の席に戻り、
「お前も食べるか?」
「はい」
と頷けるくらいには、僕も彼に慣れてきたんだよな、と内心でしみじみ思っているのを見透かされたんだろうか。
彼はいつものあの、僕をからかう時に見せる笑みを見せて、
「じゃあ、口を開けろ」
と言った。
「……はい?」
今なんと仰いましたか、なんて問い返す暇も与えず、彼は指に摘み上げたチョコレートを見せ、
「ほれ、あーん」
「あ、あーん…?」
戸惑いながら、つい口を開けてしまったのは、あまりのショックに思考能力が低下していたからに違いない。
僕の反応に気をよくした彼は、ぱくりとそれを自分で食べてしまった後、
「間抜け面」
と僕を笑った。
それでどっと疲れて、思わず机に突っ伏したところで、とんとん、と指先で肩を叩かれた。
「ほら、今度はちゃんとやるから」
口開けろ、と言われ、僕はそろそろと口を開いた。
そこに投げ落とされたチョコレートは甘くて苦くて、なんだか彼みたいだなと思った後、自分の少女マンガ染みた思考に泣きたくなった。
その後、少しして彼は帰って行ってしまった。
涼宮さんが用事を言いつけたからだ。
いつもなら渋る彼も、そのまま帰っていいと言われたら意外とすんなり行ってしまった。
部室で過ごすことを楽しんでもいるくせに、早く帰れるとなると嬉しく感じるらしい。
そうして始まったのは、もはや定例と化した僕たちの反省会及び報告会で、今回は涼宮さんの、
「古泉くん、キョンと付き合いだしたの?」
なんて爆弾発言で始まった。
「違いますよ…!」
そんなことあるわけないでしょう。
それだったらどんなにいいか…。
「なんだ、つまんないわね」
本気でそう言っているのだろう彼女は、
「でも、思ったよりいい感じじゃないの?」
「そうでもありませんよ。…彼は単純に、僕のことを面白がってるだけですからね」
「そう? だけど、それも珍しいんじゃないの? キョンって、自分のテリトリーに入れた人間じゃなかったらあんな風にからかったりしないタイプでしょ。少なくとも、同じクラスの連中なんかには、あんな風にしないわよ。谷口のことは割とあっさりシカトしたりするし、国木田とはそもそもふざけたりしてるのも見ないくらいだから」
涼宮さんの言葉を肯定するように、長門さんが言った。
「…好感度は確実に上がってきている」
「…嘘でしょう…?」
「……事実」
そう言って提示されたグラフももはやおなじみのものだ。
青色で示されている彼側の好感度はともかく、ピンク色で表された自分の方から彼に寄せる好意の数値化というのは、妙に気恥ずかしく思える。
日数を重ねたせいで、最初は単純な棒グラフだけだったそれも、気がつけば折れ線グラフによる推移記録まで付けられているし。
しかし、あれで好感度が上がってるとしたら彼はどんだけSなんですか。
物凄く優しい人だと見せかけておいてドSって酷くありません?
「考えてみたら、」
と言ったのは涼宮さんだ。
「キョンってみくるちゃんみたいなのがタイプなのよね? ドジっ子好きなのかしら」
「ドジっ子って…酷いですぅ…」
という朝比奈さんの泣きだしそうな声を軽く無視して、涼宮さんは僕に、
「とりあえず、もっとドジっ子アピールしてみたら?」
アドバイザーならではの無責任な言葉をくれた。

ひとりで帰りながら、僕は考える。
本当に、どうしたらいいんだろうか。
このまま頑張ってしまっていいのか?
本当に彼を好きでいていいんだろうか。
彼は僕の思っていた通りの人じゃない。
僕が思っていたよりもずっと意地悪なところもあるし、思っていたより遥かに鈍くて、残酷なところのある人だ。
だから、――と思っても、僕はまだ彼のことを好きでいる。
嫌いになどなれない。
幻滅すら出来ないのは、あばたもえくぼという奴なんだろうか。
…本当は、このままじゃいけないと分かっている。
僕は諦めるべきだ。
他にも彼を好きな人はいて、その中には朝比奈さんや長門さんのように魅力的で、彼だって好きになりそうな人がいる。
僕は彼と同じ男で、彼の好みからはずっと遠い。
彼が僕を、僕と同じ意味で好きになってくれる可能性なんてほとんどゼロに近いだろう。
ゼロだと言い切れないのは僕がまだ期待を抱いているせいだ。
実際にはゼロと言っていいだろうということくらい、分かってる。
それなら僕は、せめて彼と友達とか、出来るなら親友と呼べる間柄になることを目指すべきなんじゃないだろうか。
でも、僕は…。
答えの出せない考え事は家に帰っても止められず、僕は結局寝不足で翌朝登校する破目になった。
そういう日に限って登校中にかち合ってしまうのはどうしてだろう、と思いながら僕は努めて笑顔を作りながら、
「おはようございます。今日はお早いですね」
「俺だってたまには早く起きる日もある」
軽く噛みつくように言った彼は、それからふっと表情を曇らせると、
「古泉、お前体調でも悪いのか?」
「いえ、そんなことはありませんが…」
どうしましたか、と何食わぬ顔で問い返す。
彼の優しさを嬉しく思いながら、彼に心配をかけたくなくて僕は彼を誤魔化す。
それがいけないことだなんて、思いもしないで。
「大丈夫ならいいけどな」
まだ釈然としない様子で彼は言い、
「…調子が悪いなら無理すんなよ」
「はい、分かってます」
「……そういう時は『はい』だけでいいんだよ」
と僕の頭を軽く小突いた。
それに、
「はい」
と笑顔で答えた時には、本当に大丈夫だと思っていたのだけれど、やっぱり無理だったのだろう。
四時間目の途中で意識が途切れ、気がつくと僕は保健室に担ぎ込まれていた。
おまけに、ベッドの側には怖い顔をした彼が座っていて、
「…何か言うことは」
と低い声で唸るように言った。
「す……すみませんでした」
反射的にそう答えながらも、僕はどうして彼がそこまで怒っているのかが理解出来なかった。
彼に嘘を吐いたからだろうか。
それとも、心配をかけてしまったから?
どちらにせよ、僕なんかのために彼の心を痛めてしまったかと思うと、申し訳なかった。
「お前な…」
と何か言いさして、彼はやめた。
「…いや、病人に説教はやめといてやる」
「お気遣いありがとうございます」
ただの寝不足だとは言わない方がよさそうだ。
「いいから、お前はもう少し寝ろ。酷い顔色だぞ」
そう言って彼は優しく布団を整えてくれた。
それがくすぐったくて笑うと、
「笑うな」
と叱られてしまったけれど。
彼はため息を吐き、椅子に座りなおすと、小さな声で何かを呟いたけれど、僕の耳にはよく聞こえなかった。
「何と仰ったんですか?」
「何でもねぇよ」
ぶっきらぼうに言って、彼はそっぽを向いてしまったけれど、そこからいなくなろうとはしなかった。