その日俺が部室に行くと、珍しく長門が部室のパソコンを操作していた。 部室では珍しいな。 コンピ研の部室ではよくいじってるんだろうが。 それも、俺にはよく分からないプログラムを組み立てているのではなく、表計算ソフトを扱っているようだった。 覗き見たグラフには縦軸に数値が、横軸には何故か「朝比奈みくる」、「古泉一樹」、「長門有希」、「他」とだけ書いてある。 一応棒グラフであるらしいそれには、それぞれの横軸の項目に対して、ピンクと青の棒が突っ立っている。 高さはまちまちで、青い方は特に突出して高いものもなければ低いものもない。 …というか、青いのは全体的に低めだな。 ピンクの方は朝比奈さんが青色と同じくらい低く、古泉と長門のは青色の倍くらいの高さがある。 他、というのもピンクの方が青より遥かに高い。 青いのが低すぎるのかもしれないが。 ちなみにピンクの中で一番高いのは古泉、青で一番高いのは僅差で長門である。 それにしても、 「…一体何のグラフだ?」 首を捻りながら俺が問うと、長門は一瞬迷うような表情を見せた後、いつも通り無機質に告げた。 「……好感度」 「…えぇと、何かのゲームか?」 長門がそんなゲームをするとは思えないのだが、他の可能性を見出せずにそう聞くと、軽く首を振られた。 「…もしくは、進捗状況」 なあ、長門、俺の気のせいかもしれないんだが、今もしかしてため息を吐かなかったか? 「……気のせい」 と答えた声もどこか疲れているように感じられた。 「それならいいんだが……長門、」 俺は長門を自分の方へ向かせ、ガラス玉みたいに澄んだ瞳を覗き込みながら言った。 「疲れてるならそう言ったらいいし、何か言いたいことがあるなら言ってくれ。俺なんかに言ってもどうしようもないかも知れないし、お前にどうにも出来ないことで俺には出来るなんてことなんざまずないんだろうが、それでも俺は、お前の力になれるもんならなりたいと思ってるんだからな」 いつも世話になっているからとかでなく、同じSOS団の仲間として。 「……そう」 喜んでいるのかどうかさえ分からない顔で、長門は頷いた。 そうして、かすかに俺から目をそらし、 「…ありがとう」 ひっそりと呟いた。 これ以上言えることはないだろう、とそれなりに図々しく空気の読めない俺でも分かった。 だから俺は大人しく自分の席に座り直した。 ……長門にも、俺に言えることと言えないことくらいあるだろうさ。 少しばかり気が滅入るのは、俺が長門を気に入っているからなんだろうな。 長門の信頼もある程度は勝ち得ていると思っていたのだが。 しかし、それをいったところで仕方があるまい。 人は所詮、それぞれひとりであり、完全に理解しあえることも信頼しあえるということもおそらくないんだろうからな、うむ。 哲学めいたロジックもどきで自分を誤魔化していると、コンコン、とドアをノックする音が響いた。 朝比奈さんもハルヒも不在、となれば返事をするのは当然俺だ。 「どーぞ」 と適当に声を掛けると、一瞬、躊躇うような間があった後、ドアが開いた。 「こんにちは」 と顔を出したのは古泉で、なんでこいつが躊躇いながら来なきゃならんのだ、と思いながら俺は、 「よう。遅かったな」 「え、ええ…ちょっと……」 こいつにしては歯切れが悪い、と俺が眉を上げたからだろうか。 「…すみません」 とやけに小さな声で謝られた。 訳が分からん。 最近、こいつもおかしい気がする。 積極的にゲームに誘ってくることもなくなったし、話す時に無駄に顔を近づけてくることもなくなっている。 俺と話す回数も減ってきて、たまに話していても、突然押し黙ったり、上の空だったりする。 何か気になることでもあるのかね、と思っていると、 「あ、の……」 言い辛そうな声がした。 「ん?」 どうかしたか? 「僕の顔に、何か付いてるんですか?」 「……」 俺はそんなにこいつの顔を見てたんだろうか。 考え事に熱中すると自分でもどこを見ているんだか分からなくなる時があるが、どうやらまたやらかしてしまったらしい。 「いや、別に」 「それならいいんですが……」 「ただ、」 俺は古泉の顔を軽く睨みながら言った。 「お前も長門も、ついでに言うと朝比奈さんも、この頃少しおかしくないか?」 「そうですか?」 おキレイな作り笑顔で古泉は言った。 「そんなことはないと思いますが」 あるんだろうが。 そうじゃなかったらお前がそんな作り笑いで誤魔化そうとするか。 「……困りましたね」 小さく声を立てて笑った古泉は、 「僕はそんなに分かりやすいでしょうか」 「さあな。少なくとも俺には分かりやすいと思えるぞ。というかだな、今更そんな作り笑いが通用すると思うのか? むしろ変に思うに決まってるだろうが。俺がどんだけお前のことを見てきたと思ってるんだ?」 「え……」 えってのはなんだよ。 そんなに見てないと思ったのか? 「もう一年以上の付き合いになるんだぞ。当然だろうが」 「…ああ、そう、ですよね……。ええ、そうだとは思いました」 何故か目に見えて落ち込んだ古泉は、ほぅっとため息を吐いた。 「…男のくせに悩ましげなため息を吐くな気色悪い」 「え、あ、…すみません」 八つ当たりのように口にしてしまった言葉に対してそうも本気で謝られると気が引けるな。 こっちとしては、一瞬とはいえどきりとさせられて思わず言っちまっただけなんだが。 古泉はそのまま黙り込み、なにやら思案に耽っているようだった。 美形というのは実に得なもので、そうしているだけで絵になる。 写真部の奴なんかに教えてやったらせっせと写真を撮るんじゃなかろうか。 芸術目的であってもかなりのものになりそうだし、販売目的なら朝比奈さんの写真と同じくらい売れるんじゃなかろうか。 美術部ならモデルにしたがるかも知れん。 その前に、こいつがこうやって考え込んでいるだけで十分美術品みたいで、腹が立ったり羨ましくなる前に見とれちまいそうだ。 危ない危ない。 しかし、実際これだけ綺麗だったらかなりモテるんだろうな。 この前朝比奈さんと話している時にも思ったが、彼女くらいいるんだろうか。 健全・不健全を問わず、男女交際といわれるものがよく似合いそうだよな、俺とは違って。 ああ、こうやって見てるともしかしてとか思っちまうな。 好きな子でも出来て、それで物思いに沈んでるんじゃないか、とか。 実際にはこいつの考えていることといえばハルヒのことだの世界のことだの重苦しいことか、あるいは意外と所帯染みた、今日の夕食はどうしようかとかそういうことなんだろうが、見てる側が想像するのは勝手だろう。 美少年が悩むなら、今時の物価高よりは恋愛の悩みの方がお似合いだ。 そこまで考えたところで、古泉はまたぞろため息を吐き、かすかに唇を動かした。 何かを呟いたんだろうが、よく聞き取れなかった。 「なんか言ったか?」 と聞いてやると、 「え? いえ、なんでもありません」 とだけ、苦笑混じりに言われた。 なんとなく、面白くないと思ったからだろうか。 俺はつい、考えていたことを口に出しちまった。 「お前、好きな子でも出来たのか?」 「ええっ!?」 当たりかよ。 自分から聞いておいて、驚かされた。 古泉のことだから、野菜が値上がりしてただでさえ不足しがちな野菜が更に不足した食卓をどうするかとか、そういうことを考えてるんだろうと思ったのに。 加えて、古泉がそんな風に声を上げたことにも驚いた。 分かりやすいリアクションを寄越すことなんて滅多にないくせに。 それくらい、図星を刺されたってことなんだろうか。 俺が唖然としている間に、古泉の方はいよいようろたえて、 「あ…いえ、その…ですね……」 なんてよく分からないことを言いながら、目に見えて顔を赤く染めていく。 余りにもらしくない、結果として素の古泉が透けて見える反応に、俺は自分の驚きも放り出し、ニヤリと笑って聞いていた。 「どんな子なんだ? 同じ学年か? それとも後輩か先輩か?」 学外かもしれないな。 こいつならどこでどんな出会いをしているか分からん。 それに、なんとなくだが、ずっと年上の女性なんかの方がこいつには似合いそうだと勝手ながら思った。 「や、やめてください…」 くしゃりと顔を歪めた古泉が、なんでだか泣きそうな顔に見えて、俺は一瞬虚をつかれた。 「こいず…」 「そんな風に、好奇心だけで人の心に踏み込まないでください。あなたはなんとも思ってないのでしょうが、僕は…っ」 声が上擦った、と思った途端、古泉は勢いよく席を立ち、部室を飛び出していった。 俺は今度こそ唖然とするしかなかった。 長門の静かな視線が、俺を咎めているように思える。 自分が何をしたのかは、よく分からない。 だが、それだけに、酷く申し訳なく思った。 どうにかしなければならない、と思いながら、どうしたらいいのか分からず、俺が動けずにいると、 「ちょっと!」 静寂を破るハルヒの怒鳴り声が響いた。 「誰よ! 古泉くんをいじめたりしたのは!!」 お前らいつの間にそこまで仲良くなってたんだ、とかなんとか思う余裕もなかった。 ハルヒはキッと俺を睨みつけると、 「あんたね。かわいそうに、泣いてたじゃないの!」 「す、すまん…」 気圧されてそう口にすれば、 「あたしに謝ってる暇があるなら、とっとと追いかけて古泉くん本人に謝りなさいよこのうすらトンカチ!」 と怒鳴り様、部室から蹴りだされた。 そうされてよかったんだと思う。 そうでもなければ俺は古泉を追いかけるなんてことは出来なかっただろうし、つまりは謝れもしなかっただろう。 …古泉のことだ。 翌日になれば平気じゃないのに平気な顔を装って、何事もないようにしてくれただろうからな。 そして俺は、それに甘えさせてもらったに違いない。 それじゃいけないと分かってるくせに。 だから俺は、ハルヒに感謝しながら古泉を探した。 幸い、古泉はあまり遠くには行かなかった。 とにかく早くひとりになって、そして、泣きたかったんだと思う。 部室棟の屋上にその姿を見つけて、俺はほっとした。 まだ謝れると思ったのか、それとも古泉が誰かに泣きついている場面を見たりしなくてすんだからなのかはよく分からない。 ただ、ほっとしながら、同時に、ひとりで泣くのを邪魔して悪いとも思った。 「……悪かったな」 そう声を掛けると、古泉はびくりと身を竦ませた。 「ど…して……」 「追いかけてきたら、悪かったか?」 抱えていた膝の間から顔を見せた古泉の頭を軽く撫でてやる。 多分、妹が拗ねてる時と似てると思ったせいだ。 「あなたが、そうするとは、思わなく、て…」 言葉が古泉らしくもなく、切れ切れになっているのは、古泉が泣いているからだ。 しゃくりあげて苦しそうな背中を撫で擦ってやりつつ、 「ハルヒが背中を押してくれてな」 「涼宮さんが……」 「あいつも、いいところがあるだろ」 笑ってそう言えば、 「知ってます」 とかすかな笑みと共に返された。 もう大丈夫だろうか。 そう思いながら、俺は言う。 「本当に、すまん。調子に乗りすぎた。…なんとなく、お前なら許してくれる気がしてたんだ。普通の男子高校生らしい話なんかも出来るんじゃないかとも、な」 「いえ…、あなたは悪くありません。僕が……少し、おかしくなってるだけなんです」 そう言って古泉は軽く目を閉じた。 「まだしばらく、おかしなままかもしれませんけれど、出来るだけ早く、前の調子を取り戻しますから、少しの間、目を瞑ってはいただけないでしょうか」 「そりゃ、お前がそうしたいなら別に構わんが、」 と言いながら俺は軽く眉を寄せ、 「今のお前の方が、前よりは好きだぞ」 「…え……」 ぽかんとした顔で古泉が俺を見つめてくる。 くすぐったい、というか、せっかくのハンサム面が大間抜けになってるぞ。 「前の調子を取り戻すってことは、あれだろ。今みたいにお前の油断したところなんて見せないってことなんじゃないのか? ハルヒも落ち着いてるみたいだし…それならお前が本当にただの高校生みたいに過ごしたって、何もバチは当たらないんじゃないのか?」 「……そう、思いますか?」 「ああ」 「本当に?」 「本当だ」 古泉はしばらく考え込んだ後、 「……それなら、完全に元通りになれなくても、大丈夫でしょうか」 「ああ、大丈夫だろ」 そう肯定した俺は、 「俺の方こそ、これから気をつけにゃならんな」 「何をですか?」 「…今日みたいなことにならないように、だ」 我ながら、今日は本当にどうかしていた。 人のことに首を突っ込みすぎだ。 誰だってプライバシーはあるし、知られたくないこともあるだろう。 長門然り、古泉然りだ。 それなのにずかずかとそこに踏み込むのは人を傷つけるだけだと、改めて学んだからな。 「だから、気をつけることにする」 と言った俺に古泉は何故だか複雑な笑みを見せた。 「…そこまで、徹底しなくていいですよ。おそらく、長門さんも同じです。あなたが自分のことについて興味を持ってくださったこと、それ自体は非常に喜ばしいことだと思いますから」 「…意味が分からん」 「そうでしょうね」 と古泉は笑った。 なんだか余裕の伺えるそれにむっとした俺は、 「……じゃあ、何か。お前は俺にちょっかい出されて泣いたくせに、まだやられたいというのか?」 「え、そ、そこまでは言いませんけど……」 けど、何だ。 「完全否定しないってことはしてもいいってことだな」 俺は意地悪く笑って、 「今度は簡単に泣くなよ」 と言ってやった。 古泉が、 「今度って何ですか…!」 と泣きそうな声で、そのくせ照れくさそうな真っ赤な顔で言ったことは言うまでもないだろう。 部室に戻るとパソコン画面に表示されたグラフに少しばかり変化があった。 長門の項目が青、ピンク共に少しだけ上昇し、古泉の項目の青も同じくらいの上昇を見せている。 若干の差で、長門の青を古泉の青が追い抜いているだろうか。 本当に僅差だからよく分からんが。 ……古泉の項目のピンクがやたらと伸びてるのは、どういうわけなんだ? 全く分からん。 大体、これ何のグラフなんだ? |