その日俺がいつものように何気なく古泉の部屋を訪ねると、部屋の外に漏れだすほどいい匂いが漂っていた。 匂いのもとはハーブだろうか。 そういえば最近、ベランダに並べたプランターで何か作ってたっけな。 それにしても、あいつが俺も来てないばかりか、こんな早い時間にもうこんな仕上げ時みたいな匂いをさせてるとは珍しい。 どういう風の吹き回しだろうかと思いながら、料理中なのに邪魔してはなるまいと声も掛けずにドアを開け、上がり込む。 勝手知ったる他人の家というのはいいものだと思ったところでダイニングのドアを開け、そして閉めた。 そのまま踵を返し、今からお袋に晩飯の支度を頼んだところで間に合うだろうかなどと思案しながら靴を履き直したところで、台所から物凄い轟音が響く。 しかしそれにもめげずにドアノブに手を掛けたところで慌ただしい足音が耳に届き、それすら無視して表に出ること数歩で腰に縋り付かれてすっ転んだ。 「コノヤロウ、俺に怨みでもあったのか!?」 と怒鳴ったところで、どういう経路をたどったものか、頭にざるを被り、指先を青くなるほど強打し、しかも情けなく顔を歪め、片足にパスタメジャーと味噌漉しをひっかけた古泉を見て爆笑しちまったせいで楽々部屋に引き戻された。 「何が楽々ですか」 大地震の跡もかくやという酷い有様をなんとか回復させようと努めながら、不貞腐れた面で古泉は呟いた。 俺は笑いすぎたせいで猛烈に痛む腹筋を押さえながら、 「楽だったろ。俺は全く踏ん張れもしなければ暴れることも出来なかったんだからな」 「あんなに笑い転げる人間を運ぶだけでも大変ですって」 などと文句を並べ立てながら熱心に片付けているところ悪いがな、古泉くんよ、 「そこで生徒会長殿が悠然と飯を食っておられるのは一体全体どういうわけか、俺にも理解出来るように説明してもらおうか」 どうあっても納得は出来んとは思うが。 「……拾っちゃったんです」 「拾うってお前、犬猫でもあるまいし」 「だってこの人、一人暮らしのくせに自炊もしなくて、普通に毎日三食外食とかで、ここしばらくファストフードとコンビニ弁当しか食べてないなんて言うんですよ? 見過ごせなくなったんです」 「大体、」 と俺は一応声を潜めて、 「お前、前に嫌いだって言ってたくせに」 「嫌いですよ。けど、嫌いだからってありえない食生活を放置出来ないんです!」 見上げた根性と言ってやるべきか、それとも呆れてやるべきか。 「それに、俺には親しくするなとか近づくなとか言っておいて、自分から引っ張り込むってのはなんなんだ」 「あなたがいらっしゃると思ってなかったんですよ…」 まあとにかく、 「俺は帰る」 「えええ!? なんでですか!」 会長の前だからと一応敬語仕様を保ちながらも、古泉は馬鹿みたいな声を上げた。 つうか人のズボンの裾を掴むな、伸びるだろ。 「邪魔らしいから帰ってやるって言ってんだろ。有り難く思え」 「ですから、変な誤解しないでくださいよお願いですから」 泣きそうな情けない面で古泉が言った時だった。 俺たちの話し声など全く意に介さない様子でせっせと飯をかっ喰らっていた会長がぼそりと、 「お前ら出来てたのか」 と呟いたのは。 その一言に、ざっと血の気が引いた。 いや、機関に知られているのに加えて、会長には機関からの圧力が一応の効力を持つらしいと分かっているのだから、本来なら知られたとしてもどうということはないはずなのだが、それでも瞬間的にやばいものを感じた。 「言っておきますが、」 古泉がいつになく厳しい声で言ったので、釘を刺してくれるのだろうと思った俺の認識は甘かった。 「この人は僕のものですから、何があろうとあなたには渡しません」 その必要もないってのに無駄にきっぱりかっこよく言ってのけた古泉は、おまけにその独占欲の強さをいっそ誇るような具合で俺を背後から抱きしめ、会長を睨みつけたようだった。 俺、沈黙。 会長はといえば、一瞬唖然とした後、ぶはっと盛大に噴き出した。 そのままげらげらと笑いまくり、こちらの度肝を抜いた挙句、 「なんだお前、案外熱い奴だったのか」 と言いやがった。 むっと眉が寄るほど面白くないと感じるのはなんでだろうな。 お前ごときが古泉に関して知ったような口を聞くんじゃねぇってところだろうか。 考えるだけでも腹立たしい。 「何か文句でも?」 古泉が敵意丸出しの目を向けると、会長はにやりと笑って、 「いーや、別に? ただ、そっちの方がよっぽど自然だと思っただけに過ぎん」 「別にあなたにどう思われたって構いませんけどね」 吐き捨てるように言いながら、古泉は殊更に俺を抱きしめて、 「この人に何かしたら許しませんから、そのつもりで」 「…ふむ」 会長は余裕錫々の笑みを浮かべたまま小さく鼻を鳴らし、 「つまりはそいつがお前の弱点ということか」 俺が驚き、小さく声を上げ掛けたのを掻き消すように、古泉は薄く笑い、 「だから何です? 僕が弱みをむざむざあなたに渡すとでも思っているんですか?」 「弱点であっても弱みにはならんと言うつもりか」 「ええ、むしろ、この人に何かあったらその時の方が僕は恐ろしいことになると思いますよ。怒りのあまり何をしでかすかも分かりませんから」 「なるほどな。まあ、今日は何もしないで置いてやる。久々にうまい飯もご馳走になったことだしな」 と言った会長は立ち上がり、 「ご馳走さん。お前、料理はうまいな」 「それはどうも」 褒められても全く嬉しくないけどな、と書いてあるような顔で言った古泉に、面白がるような笑みを向けて、会長は帰って行った。 思わず、俺と古泉の口からため息が揃って漏れ出る。 異常に疲れた。 「全くですね…」 「疲れてるなら、お前もさっさと着替えて来い。制服のままじゃ窮屈だろ」 「そうですね」 頷いておいて、古泉はすぐには動かなかった。 じっと俺を抱きしめたまま、黙っている。 「……どうした?」 「いえ…、ちょっと、勢い余ってまずいことをしてしまったかなぁ、と、思いまして……」 はぁ、とため息を吐く古泉に俺は苦笑を返すしかない。 「なんだ、あれだけ堂々と啖呵を切っといて、もう弱音を吐くつもりか?」 「だって、」 まだ制服姿のまま、ということはつまり、外面仕様の古泉のくせに甘えた調子で言い、 「あの人、あれで絶対あなたに興味を持っちゃいましたよ。いえ、それとも強めたと言うべきでしょうか」 「そうか?」 「そうですよ」 拗ねたように言って、もうひとつため息だ。 忙しいな。 「俺はむしろ、お前に興味を持たれちまったんじゃないかと思ったんだが?」 「僕に……ですか? そんなことは…。……あ、いえ、勿論僕の本性について彼が興味を強めたことは間違いないでしょうね。僕が心配なのは、そういう類の興味ではなくて、あなたに対して、恋愛対象としての興味を持たれたのではないか、ということなのですが」 「阿呆。俺だってそれくらい分かってる。……俺が言ったのも同じ意味だ」 「……は?」 「あいつがお前にそういう意味で興味を持ったように見えたんだが?」 「……」 「……」 二人して黙りこくったまま見つめ合った後、先に噴き出したのは古泉だった。 「冗談でしょう?」 「いや、結構本気で危機感を覚えた」 「必要ありませんよ、そんな危機感なんて。もしあなたの勘が正しかったとしても、あの人くらい返り討ちに出来ますし、僕が好きなのはあなたですから」 こっ恥ずかしいことをまともに目を合わせた状態で言われ、くすぐったくてならない。 「あなたも、気をつけてくださいよ? 絶対に、二人きりになんてならないように」 「ん…分かった」 それこそ杞憂だろうと思いはしたものの、古泉がそうして心配してくれるのが嬉しくて、俺は素直に頷いた。 そうして、 「ほら、もういいだろ? 俺はお前が散らかしたものを片付けるから、お前はさっさと着替えて来い」 「いいですよ、やらなくて。僕が自分でなんとかします」 「簡単な掃除くらい手伝わせろよ。収納なんかはお前に任せるしかないんだし」 「でも…」 「いいから、早く着替えて来い。……いつも言ってるだろ。俺は畏まったお前より、ちょっとくらいわがままでも分かりやすいお前が好きなんだって」 古泉は一瞬驚いたような顔をして、それから声を立てて笑った。 「そこまでこだわられると逆に、このままあなたを押し倒したらどうなるのかが気になりますね」 って、おいこら。 「冗談ですよ。そんな、結果がどうあれ嫉妬に身を焦がすようなことになりそうな真似は出来ません」 そう笑ったくせに、古泉は俺に触れるだけのキスをした。 「っ……」 「着替えてきますね」 それを見送って、俺はため息を吐き出す。 「ばかやろ…」 俺は古泉みたいに器用じゃないし、自分が変わるわけじゃないから切り替えなんてうまく出来やしない。 外面仕様の古泉が校内で誰かと談笑していただけでも、時には酷い嫉妬にかられそうになっちまうってのに、家に連れて来られたりした日には平静でなくなって当然だ。 むしろ、よく耐え抜いた方だと思う。 相手がもし女の子だったりしたらどうなってたかなんて、考えるだけでも恐ろしい。 古泉が戻って来たら真っ先に、もう二度と会長を連れ込むなと言っておこう。 その結果押し倒されたって知るもんか。 苛立ちながら俺は掃除にとりかかった。 散らかった物は、なんというか、量が凄い。 何をしてる最中だったのか知らないが、ありとあらゆるものが落っこち、蹴り飛ばされ、なぎ倒されたような感じだ。 これをどう片付けたらいいのかね。 まあ、ほとんどはあいつがやるんだろうが。 ぶつくさ言いながらも、とりあえず分けるだけ分けておこうと分別を始めた俺の背中に、ずしりとした重みがかかった。 「…古泉」 「ちょっとだけだからー」 いきなり甘えた声を出すな。 「何がちょっとだ」 「ん? ちょっとで済ませるなってこと?」 にやっと笑ったのだろう古泉に、笑い返してやったらどうなるんだろうな。 俺は上体を起こして古泉を転がり落とすと、逆に古泉に伸し掛かってやった。 「…って、あれ……?」 慣れないからだろう、ぽかんとした間抜け面をさらす古泉に、俺は眉を寄せた不機嫌な顔を近づけ、吐息がかかるほどの至近距離から告げた。 「今度、会長を連れ込んだり、飯を食わせてたりしたら、即別れるからな」 「……」 「返事は?」 「あっ、うん、分かった、分かったけど……ええと……」 古泉はじっと上目遣いに俺を見つめ、こともあろうに、 「…マジにそこまで妬いてくれたわけ?」 などと言いやがったので、思いっきり唇を噛んでやった。 噛み付かれた古泉は、 「口内炎になったらどうするんだよ! そんなことになったら飯も美味しく食えねーじゃん!!」 と涙目になってるが、知るもんか。 「自業自得だろ」 吐き捨てて、俺は古泉の上から退き、 「帰る」 と本日二度目の台詞を吐いてやった。 そのまま俺が無事に帰れたのかについては、ご想像にお任せする。 |