可愛いカレ



古泉が風邪を引いて欠席したと聞かされた時、まがりなりにも恋人という立場にありながら、それを頭っから信じられなかったのは、古泉が適当な理由をでっち上げて欠席する可能性があるということを知っていたからだし、加えて、古泉がああ見えて体調管理には気をつけるタイプだと知っているからだ。
だから俺は、それをハルヒから聞かされても、
「そうかい」
とだけ返したのだが、ハルヒはそれがあまりお気に召さなかったらしい。
「なによ、あんた心配じゃないの?」
「ただの風邪なんだろ?」
「あの古泉くんがかかるんだから、よっぽど凶悪な風邪だとは思わないわけ?」
おお、日頃胡散臭い仮面を被ってる甲斐があるってもんだな、古泉。
ハルヒの信頼は厚いらしいぞ。
感心している俺に、ハルヒは難しい顔をして言う。
「あんた、最近古泉くんと仲良くやってるみたいだから、わざわざ教えてあげたのに」
……感心したのも束の間、肝が冷えたぞ、ハルヒ。
仲良くやってるって、お前、まさかお見通しなんじゃないだろうな?
……いや、ない、ないったらない。
俺は内心の狼狽を押し隠しつつ、何気ない風を装って、
「で、そのお優しい団長様は古泉の見舞いに行けとでも言いたいのか?」
「あんたにしてはいい勘してるわ」
とハルヒはにんまり笑って見せた。
「古泉くん、一人暮らしなんでしょ?」
「ああ、そう聞いてる」
「だったら、今頃ひとりで困ってるに違いないわ。あんた、看病しに行ってらっしゃい! 見舞いくらいで済ませたら、あんたが逆にお見舞いにきてもらうような状態にしてやるわ」
「危ないことを言うな」
と返しつつも、俺にとってはそれはありがたい命令だった。
これで堂々と古泉の部屋を訪ねられる訳だからな。
しかし、先にも言った通り、仮病の可能性もある。
だから俺は、古泉の部屋を訪ねる前に、
『本当に風邪か?』
とメールを送っておいた。
それが、午前中のことだ。
午後になっても返事はなく、とうとう放課後になっても何も来ない。
……これは行かざるを得まい。
一応、看病に相応しく何か持っていこうかと思ったのだが、古泉のことだ。
食材の類を持っていったところで無駄だろう。
しかし、他にも看病に用いるものの類があることは、先日俺が世話になったことからしても分かりきっている。
となると、下手に何か持って行くよりは、行ってから足りないものを買いに行った方がいいだろう。
勝手に焦る足にブレーキを掛けながら古泉のマンションを訪ねると、玄関にはしっかり鍵が掛かっていた。
これでただの外出だったら無駄足もいいところだ、もしそうだったら部屋の中で勝手に寛いでやる。
そんなことを考えながら、俺はポケットから鍵を取り出した。
家の鍵やなんかと一緒くたになった中に、古泉の部屋の鍵も混ぜてある。
迷いもせずに正しいそれを選んで、俺はドアを開けた。
「邪魔するぞ」
と声を掛けたが返事はない。
しかし、靴はある。
ということは部屋にいるんだろう。
よっぽど重症なのかね、と首をひねりながら、俺は部屋に上がり込み、寝室に向かった。
ベッドに人影がある。
「古泉?」
だが、返事はない。
ここに来てやっと慌てた俺は古泉らしい塊に駆け寄り、
「おい、大丈夫か?」
と言いながら軽く布団をはいだ。
暖かい部屋で、分厚い布団を被った古泉は、真っ赤な顔をしていながらも、寒そうにがたがたと震えていた。
「ぅあ……?」
かすかに目を開き、小さく上げたその声が、嗄れていつもとは違い、妙にどきりとさせられた。
「…キョン、の、幻覚が…見える……?」
「現実の俺だ、ばかたれ」
言いながら古泉の額に手を当てると、これが人の体温かと思うくらい熱かった。
どんな高熱なんだ。
「水でも飲むか?」
「…ん……」
頼りない返事を寄越した古泉は、どうやら起き上がることもままならないらしい。
俺が支えてやって、やっとのことで上体を起こした古泉の唇に、ベッドサイドに置いてあったグラスの水を飲ませようと、グラスをあてがう。
ちびちびと舐めるように水を飲む古泉の唇の端から、細い筋を作って水がこぼれていくことからしても、かなり弱っているらしいと分かった。
水を飲んで少しばかり喉も潤ったらしい古泉は、ベッドに倒れ込むようになりながら、
「ほんとに、あんた…? 夢とかじゃ、ねぇの……?」
「現実だって言っただろ。……団長命令があったのをいいことに、看病に来てやった」
「マジで?」
「ああ」
「……嬉しいな」
そう言って笑った笑顔もどこか力ない。
心配になりながら、
「病院には行ったのか?」
と聞くと、古泉は小さく頷いた。
「園ねぇに連れてかれた……」
「その森さんは? 帰ったのか?」
当然、とばかりに頷いて、
「大人しく寝てろ、って、言って、とっとと帰ったよ」
と古泉はため息混じりに呟いた。
その、熱のせいで潤んだ瞳が俺を見つめる。
「…どうした?」
何か言いたいことがあればいつだってすぐに言うくせに、珍しく言わない古泉に焦れてそう聞けば、古泉は躊躇うように視線をさまよわせ、
「うー……」
とかなんとか唸りながらも、そっと俺を上目遣いに見つめ、
「…あんたも、帰っちゃう?」
…かっ、可愛い……!
――じゃなくて、どれだけ弱ってるんだこいつは。
本当に今年の風邪は恐ろしいらしい。
俺は古泉の汗で湿った髪を撫で付けて、いつもは隠れている額を出しながら、
「…お前を放っておけるわけねぇだろ」
と言ってやった。
我ながら、もう少し素直に言ってやればいいだろうと思うくらいの素っ気無さだってのに、古泉は嬉しそうに笑って、
「んん、さんきゅ。……好きだよ」
なんて言うのだ。
こっそりと伸ばしてきた熱い手で、俺の腕をぎゅっと掴んで。
そんな、いつになく弱気な古泉が可愛くて、俺はどうにも堪らない気持ちになった。
もっと優しくしてやりたいような、愛しくてならないような、そのくせ、寂しい気がした。
こいつはいつだって憎たらしいくらい強気で、強引で、意地が悪いくらいだから、こんな風にされると寂しい。
だが、嬉しくもなった。
こんな弱気な姿を見せてくれるくらい、古泉が俺を信じてくれていることが嬉しい。
俺は古泉の体を抱きしめて、熱い額にそっと口付けて、
「早く元気になれよ」
「ん……」
嬉しそうに笑う古泉に、何でもしてやりたい気持ちになった。
「当然薬は飲んだんだろ?」
「うん、そりゃ、ね。…でも、あんま、効いてない気がする……」
「引きはじめなら、あんまり熱を下げない方がいいんだろ。今、お前の中で免疫機能だなんだが一生懸命働いてるんだと思って、我慢しろ」
「うー…、でも、しんどい、し、汗とか気持ち悪ぃ……」
子供がダダをこねるように言う古泉が可愛くて、
「拭いてやろうか?」
「……ふぇ?」
「汗、拭いてやるよ」
「え?」
まだ訳が分かっていないらしい古泉を残して寝室を出た俺は、洗面器に適温のお湯を注ぎ、タオルを浸してすぐに戻った。
うとうとしていたらしい古泉の顔をそっと撫でてみると、古泉が薄く目を開いた。
「…ほん、とに?」
「嘘を言ってどうする。…ちょっと、布団をはぐぞ」
予告して、布団を上半分だけ剥ぎ取ると、古泉が身につけている部屋着兼寝巻きであるところの変なTシャツと古びたジャージが汗でぐっしょりと湿り、色さえ変わっていた。
というか、「葱」ってなんだ。
緑の髪の電脳的な何かの関係なのか、それとも風邪には葱だからってことなのか。
わかんねぇ、と首をひねりつつ、そんな服をいつまでも着せているのはまずいと思ったので、俺はタンスから着替えを引っ張り出した。
…引っ張り出したのが薄黄色をした「生姜」Tシャツだったのは、ただの偶然だと思うのだが、風邪と闘うなら、体があったまってちょうどいいかもな。
無理やり古泉の体を起こさせ、びしょ濡れのTシャツを剥ぎ取ってやると、古泉が苦しそうに声を上げたが、少し我慢してくれ。
暖かな濡れタオルを使って古泉の体を拭うと、古泉はいくらか気持ちよさそうに目を細めた。
安堵しながら、俺は古泉の上体をすっかり拭いてしまい、体を反転させ、背中まで拭いた。
……最後にあれこれあってからそこそこ日数が過ぎているにも関わらず、背中が見苦しい惨状になっているのは見ないことにしたい。
そうして清潔なTシャツを着せてやると、布団もかぶせてやった。
そのまま眠り込みそうな古泉を横目に、今度は下半分の布団を剥がし、ジャージを一気に脱がせてやると、
「うわっ!?」
と古泉が奇声を上げた。
なんだよ。
「ちょ、な、いきなり何!?」
「上だけ拭いたってしょうがないだろ」
抵抗するなと言って、濡らし直したタオルで脚を片方ずつ丁寧に拭いてやった。
指の一本一本まで拭いた後、下着に手を掛けると、
「え、わ、まさかんなところまでぇ!?」
と悲鳴を上げられた。
「拭かなきゃまずいだろ」
「うえぇ!? お、俺にだって羞恥心ってもんが……」
「今更何言ってんだ」
本気で呆れながら一息に脱がせてやると、古泉は本気で情けない声を上げた。
「うぅぅ……間抜けなかっこ…」
「嫌なら、風邪なんか引くなよ」
恥ずかしいらしいからと手早く拭いてやり、換えの下着を着せてやると、古泉は安堵のため息を吐いた。
「あー……よかったぁ…」
何がだ。
「や…、あんたに拭いてもらったりしたら、反応しちゃうかと思って焦っただけ」
「あほか」
というか、大分元気になってきたな。
「んー……。あんたが来てくれたから、かな?」
へらりと笑う古泉に苦笑を返し、新しいジャージを履かせてやった後は、布団をしっかりと被せ、ぽんとひとつだけ軽く叩き抑えておいた。
「だったら、もうちょっと寝てれば治るだろ。……早く元気になれよ」
「ん…」
俺は古泉の耳に唇を寄せ、
「……元気のない、弱気なお前なんて、見てて落ち着かんからな」
と囁いてやった。
「…うん、早く元気になるよ」
そう言って微笑んだ古泉のまぶたを押さえ、目を閉じさせる。
「ちゃんといるから、大人しく寝ろ」
「ん……おやすみ…」
熱は下がっていないし、声だって嗄れたままだってのに、古泉は幸せそうに目を閉じた。

それから、まあ、古泉の看病を続けたわけだが、やはり随分たちの悪い風邪だったらしく、古泉は容易に回復しなかった。
ばかりか、立って歩くのも大変なほど熱で朦朧としていたので、俺は食事の世話どころか、トイレにまで付き添ってやらなければならなかったくらいだ。
それでもようやく元気が出てきて、ベッドの上とはいえ自力でおかゆがすすれるようになった古泉に安堵しながら、
「もう大丈夫そうだな」
「んー…熱も下がったし。……ごめんな? 長いこと付き合わせて」
休みだったのをいいことに、日付をまたいでもなお看病を続けていたので確かに長い。
しかし、たったのそれだけ、短い時間だったとも言える程度に過ぎない。
俺は小さく笑って、
「気にするな。前は俺が世話になったんだからな」
「ん、でも、……ありがとな」
と微笑む古泉を見つめて、俺はぽつりと呟いた。
「……なんか、お前が将来、介護が必要になったとしても、平気そうだな」
「えぇ?」
情けない声を上げて、困惑気味に眉を寄せた古泉が俺を見つめる。
「どういう意味さ? 素直に喜べねぇよ、それ……」
「喜べよ」
俺は今度こそ満面の笑みを浮かべながら告げた。
「足腰立たなくなっても、一緒にいたいって言ってんだから」