夏を前に



「もうすぐ夏ですね……」
と古泉が呟いたのは、梅雨を控えたある日、いつもと何も変わらない下校途中でのことだった。
何気ないと言っていいだろう一言に、俺がつい、古泉を見てしまったのは、その呟きに何か尋常ならざるものを感じたからだ。
絶望、諦観、そうでなければ何か畏怖にも似たものを感じているかのような響きに、首を捻った。
「夏は嫌いか?」
「いえ…嫌いではないんですけどね」
苦笑した古泉は、なにやら言い辛そうに言葉を濁らせた後、
「…夏支度ですね。嫌いなのは」
「……夏支度?」
なんだそりゃ。
衣替えが面倒だとかそういうことか?
確かに普段のこいつの片付けなさを鑑みると、嫌いであっても不思議ではないようにも思われるのだが、よくよく考えてみればこいつが衣替えなんてわずらわしいことをまともにするとは思えない。
家の中では空調の方を調節して、年中同じような格好で過ごしているだけだろうし。
もし衣替えが必要になっても、森さんにさせているに違いない。
……今年は俺がやらされるのだろうが。
じゃあ、何が嫌いなんだ?
というか、夏支度なんて言えるほどのことをする必要があるのか?
昔ながらの生活をしてれば、網戸の手入れだのすだれの準備だの、やることは色々あるかもしれないが、古泉の住まいではそれもないだろう。
網戸の掃除はしてやった方がいいかも知れんが。
そんなことを思いながら、俺は古泉に聞く。
「支度って、何をするんだ?」
「えぇと……」
今度こそ言葉を詰まらせた古泉は、悪戯っぽいウィンクをこっそりとこちらに投げよこした。
詳しくは後で、ということなのだろう。
かくして、俺が古泉の部屋に行くことは決定され、俺もまた好奇心ゆえに大人しくそれに従ったのだ。
制服からだらしないTシャツ姿になった古泉は、優等生としての仮面を剥ぎ取られ、どんよりと落ち込んだ顔をしていた。
「…そんなに夏支度とやらが嫌なのか?」
「嫌。ものっ…すげぇ、嫌」
こいつがここまで断言するのも珍しい。
「具体的に何が嫌なんだ?」
「………シェイプアップ?」
何で疑問形なんだ。
「だって、なんつったらいいのか分かんねーんだもん」
「だったら具体的に言えよ。シェイプアップなんて必要なのか?」
「シェイプアップで悪かったらビルドアップとか」
「はぁ?」
「…機関のお偉方に言わせると、涼宮さんのイメージする謎の転校生ってのは、お腹がたるんでちゃだめっていうかむしろ腹筋は割れてなきゃだめらしーよ?」
「…なんだそりゃ」
心底呆れた。
というか、訳が分からん。
「そういうわけで、夏を前にして園ねぇに鍛えられるんだよ。今からそれを思うと怖くて怖くて」
「…なるほど、そういうことか」
これでやっと合点がいった。
しかし、
「…そんなに痩せなきゃならんか?」
「うー…体重はちっと増えてる。幸せ太りってやつは怖いねー」
「あほか」
といいつつ、俺は古泉の「大盛汁ダク玉付」などとでかでかと書かれた謎のTシャツをめくり、腹回りを凝視した。
「…そんなに太っては見えんぞ?」
「でも、腹筋が割れてるとも言えないっしょ?」
「それは……まあ、そうかな」
「だよねー…」
はーっ…と大袈裟なため息を吐いた古泉は、
「うああ、またしごかれるんだろうな…。鬼軍曹モード入っちゃうと園ねぇも情け容赦ねーから怖いんだよな…」
鬼軍曹モードってなんだよ。
「鬼軍曹は鬼軍曹であって、それ以下でもそれ以上でもありません。まあ、本気で怖い園ねぇを想像してもらったら十分…かな」
まあ確かに、森さんは怒らせると怖いような気がしないでもないが。
古泉は嘆かわしげに自分の腹をむにむにとつつき、
「今から腹筋しておくべきかなあ…」
と悲しげに呟いているので、俺はつい、言っちまったのだ。
「…俺は、筋肉質なのより、今くらいの方が好きだがな」
ぴくっと反応を示した古泉に、まずったかと思った。
さっきまでの落ち込みはどこへやら、にやっと意地の悪い笑みを浮かべた古泉は、
「めっずらしーな。あんたから好きって言ってくれるのなんて」
「う、うるさいっ」
「照れるなって」
くすくす笑いながら、古泉は俺を腕の中に捕らえ、退路を塞ぐ。
「ちょっ…古泉…!」
「あんたが好きって言ってくれるんなら、このままじゃだめか交渉してみよっかなー」
などと浮かれた声で言いながら、俺を床に押し倒した古泉だったのだが、交渉は当然のごとく失敗したようだった。
それからしばらくして、いつものように俺が古泉の部屋を訪ねると、そこの壁には毛筆で見事に、
『腹筋一日百回。
 炭水化物とたんぱく質の取りすぎ厳禁。』
と書かれた色紙がかかっていた。
古泉の字とはあまりに違いすぎる。
ということは、
「森さん、か?」
「そーゆーこと…」
情けなくへしゃげた声で言った古泉は、
「鬼軍曹はやっぱり鬼軍曹だった……」
と呟いて床に突っ伏した。
「…腹筋するんだろ」
「しないと鬼軍曹のブートキャンプが待ってるからなー…」
「だったらさっさとしろよ。…足、押さえといてやるから」
「…ん」
それくらいのことでも、多少は浮上したらしい。
古泉が仰向けになったところで足を押さえてやる。
そうして、数えてやりながら腹筋をしていると、三十回あたりで動きが止まった。
「もう力尽きたのか?」
「あん、がい、堪えるん、だ、って、分かる、だろ…」
ぜぇぜぇ言う古泉に思わず笑いながら、
「食事の方は?」
「それはまあ…、工夫するからいいんだけどさ…。肉の摂取量を制限されたのが切ないぃ…」
「お前、肉好きだからな」
「好きだよー? だから、精進料理の要領で肉もどきとか作ってみてる」
「ほう」
話には聞くが、そんなものまで作れるのか、こいつは。
「……気になる?」
「ああ」
「じゃあ、あんたの分も作ってやるよ」
と笑った古泉は可愛くていいのだが、
「その前に、腹筋を終わらせるのが先だろ」
さり気なく逃げようとするな。
「ぐっ……逃げらんなかったか……」
当たり前だ愚か者。
「ほら、あと67回」
「うぅう…きっちり数えてやがるし…」
「当然だろ」
「…分かったよ。やりゃーいーんだろ」
拗ねたように言いながら、古泉は腹筋運動を再開したが、しばらくしてまた力尽きた。
「お前な」
「あんただって、これくらい、だろ…?」
…俺の場合もっと早く力尽きる気がするが、それは黙っておくことにして、
「やらなきゃならんことはさっさと済ませた方がいいんじゃないのか?」
「も、無理…。後にしよ…?」
どうしたもんかね。
一日百回、ということは、何度かに分けてもいいんじゃないかと思わないでもないのだが、そうなると今度はなんだかんだ言って逃げそうな気もする。
ぐでっとなっている古泉を見ていると、休ませてやりたいような気もするのだが……。
…と、考えていたところでひとつのアイディアが浮かんだ。
これが名案となるか迷案となるかは分からん。
しかし、試してみたらいいというような気はしたので、
「古泉、」
「うぁー…?」
…ゾンビかお前は。
ぐったりしたまま目だけでこっちを見るな、気色悪い。
「なんだよ…」
疲れた様子の古泉に、俺は少しばかり顔が赤くなってくるのを感じつつ、
「ちょっと、試したいことがあるから、もう一回だけやってみろ」
「…もう一回だけ?」
「ああ。それで嫌だったら、休憩にして、続きはまたにしてもいい」
「…んじゃ、一回だけ」
そう言って古泉が腹筋に力を入れ、上体を起こした。
それはつまり、古泉の顔が、足を押さえている俺の顔に近づくということで。
それを見計らって、触れるだけのキスをしてやると、古泉が大きく目を見開きながら床に倒れた。
やけに大きく、鈍い音が響いたが、大丈夫か?
「だ、い、じょーぶ…だけど……え、今の…なに?」
「何って…キスだろ」
今度こそ真っ赤になりながら言ってやると、古泉が仰向けに倒れたままこっちをまじまじと見つめてくる。
「なんで、キスなんて……、それもあんたから…」
「…っ、お、お前が頑張ってるから、ご褒美にしてやったら、ちゃんと続けられるかと思ったんだっ…! ……嫌、か? もう、休憩にするか?」
古泉は辛抱堪らんと飛びつくように体を起こし、俺にキスをした。
「休憩に出来るわけねーだろっ…」
「じゃあ、頑張れよ」
「…うー……くそぉ…! 絶対俺、踊らされてる…。踊らされてるよぉぉ…」
そう言いながらも、古泉はさっきまで以上のハイペースで腹筋をして、俺に口付ける。
頬に、唇に。
俺は古泉がそうしやすいように、少し身を乗り出すようにしながら、それでもちゃんと数を数えた。
途中から、腹筋の回数を数えているのか、それともキスの回数を数えているのか分からなくなったくらいだったのが、恥かしくてならなかったが。
歯と歯がぶつかったりしないように、スピードを緩めているのが余計に腹筋に堪えているんだろう。
全身にびっしょりと汗をかきながら、なんとか完遂した古泉に、
「お疲れさん。よく頑張ったな」
と言ってやると、今度こそ死体のように転がった古泉が薄く目を開けて、
「ミッションコンプリートのご褒美はねーの?」
などとねだってきた。
一瞬、調子に乗るなと一蹴してやろうかとも思ったのだが、そうするには古泉がちゃんと頑張ったことだし、たかだか俺とのキスのためにあれだけ頑張る古泉に対して、感動にも似たものを抱いていた俺は、小さく笑いながら、古泉に覆いかぶさるようにしてキスをした。
触れるだけじゃない、舌の絡むような深いキス。
運動のせいで体温の上がった古泉の舌も、口の中も、酷く熱くて、くらくらした。
「っん……、は…ふ……ぅ…」
腰に回された古泉の腕も熱い。
触れた胸板も。
いつの間にか俺の服の中に入り込んでいた手の平も、どこもかしこも熱くて、どうにかなりそうなくらいだと思った。
俺の息がすっかり上がったところで、古泉はやっと俺を解放してくれたかと思うと、
「…こんなご褒美が付くなら、俺、マッチョなボディービルダーになったっていーよ」
……頼むから、それはやめてくれ。