ここ二週間近く、夜の九時が来る前に妹を寝かしつけている。 俺の部屋に近づくのはもってのほか、とばかりに追い返していると、 「キョンくん彼女でも出来たのー?」 なんて、あながち的外れでもないことを言われて度肝を抜かれたりしたわけだが、それでも自分を抑えられない。 夜九時を過ぎてからのおよそ一時間ほどのが、ここしばらくの間、俺が一日のうちで何よりも楽しみにしている時間となっている。 俺は念のため段ボールでバリケードを築き、部屋に籠もった。 準備が完了したのを待っていたかのようなタイミングで、電話が掛かってくる。 発信者を確認することもしないで、ワンコールで取る。 「もしもし」 『よう。今日はもう大丈夫か?』 聞こえてくるのは日頃耳にするより低くて陽気な声。 「ああ」 ただ、話す内容は、普段の雑談と大して変わらない。 『今日は何したんだ?』 「といっても、あんまり変わらんな。遅刻すれすれで教室に飛び込んだら岡部が既に来ちまってて軽く注意されたくらいか? いつもと違ったのは」 『何やってんだよ。そんなに朝起きるの辛いんだったら、俺がモーニングコールでもしてやろうか?』 「ばか」 『だめ?』 「だめに決まってんだろ。…にやにやしながら登校したらハルヒに何言われるか分からん」 電話だからと、ついそんなことを言っちまった俺に、古泉は明るい声で、 『言っちまえばー? 俺と付き合ってますって』 「言えるか。…大体、それでお前の本性までばれたらどうするんだ。俺はそんなもったいないこと、したくないからな」 『あっは。ありがとな。…大好きだよ』 「…ん」 そのままくだらない話に雪崩れ込み、少しして調子に乗ってきた古泉が、 『つうかさ、今日、ずっと俺のこと見てただろ?』 「え? あ、見ちまってたか?」 『ん。もう、我慢すんの大変だったんだからな』 「なんの我慢だよ」 笑いながら言った俺に、古泉が意地悪く囁く。 『そんなの、決まってるだろ? あんたのこと抱きしめたり、キスしたりしたくって、堪んなかったんだよ』 「…っ、ばか」 顔が真っ赤になったとしても古泉には見えていないと分かっている。 分かってはいてもつい顔を手で覆い隠したくらい恥かしかった。 「なに言うんだお前は…!」 『本当だって。あんたがあんな可愛い顔で見てくるからさぁ…』 「だぁあ、もう、黙れ! 黙れったら黙れ!」 『そういうところも可愛いけどさ、そんなに叫んでていいのかよ。妹ちゃん、起きるんじゃねえ?』 慌てて口を押さえた俺は、部屋の外で足音でもしていないかと耳をそばだてた。 ……どうやら大丈夫らしい。 ほっと息を吐いて、 「…それにしても、お前の切り替えは本当に気味が悪いくらい見事だな」 と愚痴るように呟けば、 『だってそれがお仕事だもーん』 と馬鹿みたいな返事が返って来た。 「ばか」 俺はそう言って笑うしかない。 たとえ、盗聴して聞いている奴がいたとしても、古泉との会話だとは思われないだろう。 そう思えるくらい、古泉の切り替えは見事だ。 俺自身、疑問になるくらい。 睡眠や勉学の妨げになったりしないよう、きっちり一時間と決めてある会話の後、 『それじゃ、また明日な。…愛してる』 といつもの決まり文句を囁かれる。 俺は恥かしさに悶絶しそうになりながらも、 「ん、俺も…」 となんとか返した。 『…っああ、もう!』 古泉は軽く暴れるような気配を見せた後、 『もう、面と向かってあんたに言いたいな。んで、あんたの可愛い反応を、全部ちゃんと見たい』 「俺としては、そんなことを言ってるお前のバカ面が見えなくて何よりだ」 そう軽口を叩いても古泉は機嫌を悪くすることもなく、 『あはは、そうかも!』 と笑って同意した。 で、その翌日だ。 部室で顔を合わせた古泉に、 「よう」 と声を掛ければ、慇懃な会釈と共に、 「こんにちは」 と穏やかな挨拶を寄越されると、俺としてもそれに噴出したりすることは出来ず、努めてという言葉を使う必要もないくらい自然に、いつも通り席につく。 いつも通り長門が本を読んでいるのを確かめ、朝比奈さんのお茶を頂戴し、 「今日はどれをしましょうか」 古泉のそんな定型句のような問いかけに、 「オセロでいいだろ」 と雑に返す。 そうしていつも通りに過ごしながら、俺は古泉の綺麗過ぎて不気味な顔をじっと見つめた。 いや、勿論他の人間は不気味なんてことは思わないんだろう。 古泉は確かに美形だが、ぞっとくるほどの美形ではない。 いいところ、ローカルスーパーの紳士服のモデルに丁度いいくらいの、お手軽な美形さ加減だ。 自分で言っててよく分からんが。 とにかく、古泉が本当はどんな性格なのかと言うことを知る以前には少しも不気味だとは思っていなかったんだから、これは多分、本性とのあまりのズレっぷりに違和感を感じるが故の不気味さなんだろう。 この顔であの性格だと思うと、悪くはないんだが勿体無いというかなんというか…。 何か主張したい時の長門みたいにじーっと見つめ続ける俺に、古泉は怪訝そうに、ただしあくまでもお綺麗な顔を崩さない程度に眉を下げ、困ったように小首を傾げた。 なんでもない、と首を振れば、古泉の頭の角度も元に戻る。 仕草の一つ一つも綺麗で、こうして見ていても、とても演技だとか作った仕草なんかには見えない。 古泉が本当の姿を面と向かって見せてくれたのは、俺に告白してきた時のあの時一度きりだ。 そうなると、馬鹿馬鹿しいと思いつつもひとつの疑惑が沸き上がって来る。 ――毎晩の電話の相手は、本当にこいつなのか、とな。 実際、馬鹿馬鹿しいとしか言いようがないことは分かっている。 だが、そんな不安を感じてしまうほど、古泉の演技は完璧なのだ。 そうであればあるほど、俺に見せてくれたあの態度さえ、本当じゃないのではないかと、ついつい思ってしまうわけで。 つまりは俺の心が弱いせいなんだろうなと嘆息したくなったところで、古泉がふっと顔を上げた。 そうして、きょろきょろと室内を見回す。 釣られて俺も部屋の中を見回したが何の変化もない。 長門は相変わらず読書に集中しているし、朝比奈さんはレース編みにチャレンジ中。 ハルヒはなにやら難しい顔をしてパソコンの画面を睨んでいるが、どうせやってるのはフリーのゲームか何かだろう。 一体何が気になったんだ? 首を傾げつつ古泉に視線を戻すと、古泉が悪戯っぽく笑った。 その笑みは、普段の、部室での古泉らしからぬものだった。 むしろ、夜中の電話の声に相応しいような顔だ。 ぎょっとした俺に向かって古泉が口を開く。 大きめにはっきりと口を動かしたが、声は出ない。 何のつもりだと、さらに首を傾けた俺に、古泉がもう一度同じ動きを、さらにはっきりと繰り返した。 四音からなる言葉。 ついでに言うと、古泉が面白がって言う言葉。 考え込んだ俺に、古泉は軽くウィンクを寄越した上で、もう一度それをした。 そうしてやっと分かった。 『可愛い』 と古泉は言っていやがったのだ。 「なっ…!?」 驚いて思わず俺が声を上げると同時に、古泉は笑みを引っ込め、表情を取繕う。 ほとんど間をおかずに、ハルヒが驚いた様子で、 「キョン? 一体どうしたのよ」 「あ、いや……なんでもない」 「…変なキョン」 眉間に皺を寄せつつ、ハルヒは視線を画面に戻した。 朝比奈さんも、どうやらなんでもないと分かったらしく、ほっとした顔で作業に戻る。 俺はそれを確認してから、目の前でふたたびニヤニヤとチェシャ猫みたいに笑っている古泉を睨みつけた。 しかし古泉は睨まれても嫌がる様子もなく、むしろ楽しげに唇を動かした。 『好きだな。その顔も』 慣れたからだろうか。 今度はさっきよりスムーズに読み取れたが、内容がろくでもなかった。 『やめんか』 と俺がクチパクで返すと、 『なんで?』 と聞いてくる。 言わなくても分かるだろうが。 むっつりと唇をへの字に結んだ俺に、古泉はにこにこ笑いながら、 『愛してるよ』 と言った。 俺はもう、反論も反撃も出来ず、机に突っ伏すしかない。 顔が急速に赤くなっているのが分かる。 この顔をハルヒに見られるわけにはいかん。 となると、これが収まるまで隠すしかないのだろうが、いつ収まるんだか見当もつかないほどに俺の顔は熱く、赤くなっているようだ。 くそ、と口の中で毒づきながら俺は小さく唸る。 ――同一人物の証明にしても、これはないだろ。 |