毎日恒例の電話を、そろそろ終らせなければならないと思い始めた頃になって、不意に古泉が言った。 『あ、なあ、明日暇?』 「明日って…日曜だからそりゃ暇だが」 『なら丁度よかった。俺も、予定が急にキャンセルになってさ。だから、せっかくだからデートしねえ?』 「で…っ!?」 驚いて息を飲む俺に、古泉はおそらくへらりと笑ったんだろう。 明るい笑いを含んだ声で、 『そう、デート。まだ一度もしてねーだろ?』 「…一緒に買い物くらいは行ってるだろ? 学校帰りとかに」 『ばぁか。あんなんデートの内に入んねーよ。むしろ入れたくない』 そう言い張った古泉は、 『なあ、いいだろ?』 と聞いてくる。 どうやら退く気はなさそうだ。 それに俺としても、嫌じゃない。 制服じゃない古泉と外で会ってみたいとも思っていたからな。 「ああ。じゃあ、待ち合わせは…」 『いつもの駅前でいいだろ。時間もいつもと同じで』 「分かった」 『んじゃ、明日に備えて早く寝るとしますか。…お休み。愛してるよ』 「…お休み」 同じように返すのは恥かしくてそれだけを返したが、古泉は不満を訴えもせず、大人しく電話を切った。 それを惜しいなんて思うことは欠片もなかった。 俺は基本的に無神論者だが神懸けて誓ったっていい。 何故なら、明日のことで頭がいっぱいだったからな。 何を着ていこうなどと乙女染みたことを考えちまう自分にのた打ち回りたくなるのもまた事実ながら、本当に楽しみでしょうがないのも事実なんだからどうしようもない。 らしくもなくはしゃぎそうになる自分を、素数なんかを数えてみることで誤魔化して、俺はクローゼットを漁り、大したこともないワードローブの中から比較的マシなものを引っ張り出してきて明日に備えた。 翌朝なんて、馬鹿馬鹿しくて笑いたくなるほど早起きして、それこそ妹に笑われるほど念入りに支度して、早すぎるくらい早く家を出た。 「なのに、」 俺は我ながらぶさいくだとしか言いようのないぶすったれた顔をして、目の前の胡散臭いまでに爽やかなハンサムスマイルを睨みつけた。 「なんで、そんな格好なんだ」 「なんでと言われましても…」 唇から零れてくるのも、対外用のお行儀のいい大人しい声と言葉だ。 全く以って面白くない。 「帰る」 と背中を向けようとすると、 「待ってください」 と肩を掴まれたかと思うと、すぐさま古泉の方を向かされる。 「なんだよ」 困惑の滲んだおキレイな面を睨みあげれば、 「どうして来てすぐに帰ろうとしたりするんですか」 「どうして、って、言わなくても分かるだろ」 ふいっと顔をそらせれば、 「分からないでもないですし、ちゃんと言っておかなかったのは悪かったとも思います。でもどうか、帰らないでください」 などと言いながら正面に回りこまれ、正面から覗き込まれる。 はっきり見えてしまったその顔は、「古泉一樹」としてはらしくないほどに真剣だった。 思わず怯んだところを、 「僕は僕です。どんな言葉を使っていても、どんな服装をしていても。それを分かってくださらないような方ではないと信じています。それでも、不快に思われるかもしれません。ですから、どうしてもあなたが嫌なのでしたらこのままデートをというのは諦めましょう。でもどうか、一緒にはいさせてください。あなたと一日を過ごしたいんです」 真摯に言われて、俺が反発できるはずもない。 俺はどうしてここまでこいつに弱くなっちまったんだろうと嘆きたい気持ちになりながらも、全ての責任は古泉に丸投げすることに決め、 「分かった、我慢してやる。……ほら、デートしたいんだったらさっさと行き先を白状しろ」 「ありがとうございます」 そう言って古泉は本当に嬉しそうに微笑んだ。 柄の悪さは鳴りを潜めているものの、それでも十分魅力的な笑顔だった。 そうして、俺が連れて行かれたのは、映画館だった。 公開中の映画が観たかったとか何とかいう話で、俺はそれにずるずると連れて行かれたのだが、まさかこいつと一緒に映画館で話題のファンタジー映画を観る破目になるとはね。 「意外でしたか?」 悪戯っぽく笑いながら聞いてきた古泉に、 「少しな。お前、こういうのが好きなのか?」 「好きじゃなかったら観たいなんて思いませんよ。…もっとも、僕が見たいのはこれに出てくる見事なまでの晩餐のシーンなんですけど」 「はぁ?」 「CMで流れてたのを観ませんでしたか? 料理もさることながらテーブルセッティングも古式ゆかしくて、興味を誘われたんです。一応、原作の小説も読んでは来ましたが、食事のシーンの描写が秀逸だとそれだけでおすすめしたくなりますね。僕はもう読み終わってしまったので、よろしければ差し上げますよ」 楽しげにつらつらとそう喋った古泉に、 「お前…本当に料理が好きなんだな」 と言ってやると、古泉はくすっと笑って、 「ええ、好きですよ。あなたが喜んで食べてくださいますし、それに……」 古泉は一瞬迷うように言葉を途切れさせたが、俺が訝しむ視線を向けたのに気が付くと苦笑を浮かべ、 「…破壊的活動に従事したりする身としては、いくらか生産的活動にも勤しみたいと思うものでして」 「……そうかい」 うまく言葉を見つけられず、とりあえずそう言ってやり、古泉の手に自分の手を軽く重ねてやると、古泉は殊更に嬉しそうに笑い、 「優しいですね」 「うるさい」 「褒めてるんですよ」 「いいからもう黙――」 言いかけたところで、上映開始を告げるブザーの低い音が響き渡り、俺たちは黙り込んだ。 コマーシャルフィルムがいくつか流れ、本編が始まる。 正直、中身なんてほとんど頭に入ってこなかった、というのも、俺が気まぐれに重ねた手を古泉が握りこみ、離そうとしなかったからだ。 薄暗いとはいえすぐ近くに他人がいるってのに何を考えているんだとしばらく抵抗したものの、悲しいかな、古泉の握力の方が俺のそれよりも圧倒的に強く、痛いか痛くないかギリギリのラインの力で抑え込まれて逃げられない。 大きなファンファーレと共に始まったオープニングの間に、こっそりと耳を寄せてきた古泉は囁き声で、 「手を繋いでいるだけですから、ね?」 許せと。 俺は思いっきり顔をしかめたが、古泉には見えたのか見えなかったのか。 結局そのまま俺は古泉に手を握られた状態で一時間以上を過ごす破目になっちまったのだった。 古泉がやっと手を離してくれたのは場内が明るくなる寸前で、俺は握られっぱなしでおかしなことになっちまってそうな自分の手をさすって確認した。 「これ、赤くなってないか?」 「大丈夫でしょう、と言いたいところですけど……あなた、意外と色白で肌が赤くなりやすいですからね。ちょっと見せてください」 俺がいいと言うより早く俺の手を取った古泉はしげしげと俺の手の平を見つめ、 「…よかった、大丈夫みたいですね」 「大丈夫じゃなかったらどうしたんだ?」 「それは勿論、」 と古泉は口の端を吊り上げるようにして笑い、 「男として真剣に、全人生をかけて責任を取らせていただこうかな、と」 「アホか」 そう毒づいても効果がないと思ったら、古泉は絶対的優位にある者独特の忍び笑いをもらした上で、 「顔、赤くなってますよ」 などと指摘しやがったのだった。 俺は全力で顔をそらし、 「いいから、さっさと出るぞ」 「はい。…食事にでも行きますか?」 時計を確認して言った古泉に、 「……外で食べるのか」 と俺が呟くと、 「たまにはいいんじゃないですか? それとも……」 古泉はわざとらしく耳元に唇を寄せ、 「…そんなに、僕の作る料理が食べたいですか?」 「そ、ういう、わけじゃない…が……」 「なら、いいでしょう? 夕食は僕が作りますよ。お昼は、この前ちょっと面白いお店を見つけたんです。本物のタンドール窯を使った本場のインド料理なんていうのは、流石に家では作れませんからね」 そういうことか、と納得しながら古泉に連れて行かれる。 手を引っ張られこそしないもののそれに似た感覚で連れ歩かれながら、俺はふと気が付いた。 古泉のこの強引さ。 これは、普段の「古泉一樹」ならあり得ないものだと。 俺の希望を聞いているようで聞いてない。 何のかの言って自分の好きに推し進める。 接触も多いし囁くのも…ってこれは普段でもそうか? まあ、なんだ、つまり、違っているのは口調と服装と物腰くらいのもので、後は演技なんてしてないようなもんであり、古泉としては好き勝手しているだけなんじゃないか? 半信半疑といった気分になりながらも、俺は古泉の観察を続けた。 カレーを食べて店を出た後、あれこれちょっと高そうなショップを覗きながら、いつものようにぺらぺら喋り捲ってはいるが、話題といえば料理のことと俺に何か欲しいものがないか聞いているくらいのもので、小難しいことなんてほとんどありやしねえ。 あったとしても俺には理解し難い食材の名前だの料理法だったりした。 こんな話は部室じゃ出来ない。 確信めいたものを持ちながら、俺は念のため、部屋に戻ってから古泉に聞いてみた。 「ずっと敬語なんか使ってて、窮屈じゃなかったか?」 「べっつにー?」 それこそ窮屈なんだろう、かっちりしたシャツをむしり取るように床へと脱ぎ散らかしながら古泉は明るく笑い、 「それよりも楽しかったな。あんたとデート出来て」 「そりゃ、よかったな」 「あんたは? 楽しくなかった?」 疑うというよりもむしろ不安げに聞いてくる古泉に俺は笑って、 「楽しくなかったら途中で帰るに決まってんだろ」 「んじゃ、楽しかったんだな」 そう言って細められた目と弧を描く唇にほっとする。 俺はやっぱり、唇だけで笑うよりも、この笑い方の方が好きだ。 「本当に、お前にとってあんな風に切り替えるのなんてその程度の軽いことなんだな」 俺は呆れた口調で呟いたのだが、古泉はぴくっと反応を示した。 犬なら耳をピンと立て、尻尾を大きく振ってそうなくらい、楽しそうに目を大きく見開いている。 「何? もしかして心配してくれた? あんなんじゃ俺が楽しくないんじゃないかとかって」 「そこまでは思ってねえよ。ただ、」 「ただ?」 じりじりと近づいてくる古泉から距離を取りつつ、俺は顔を伏せ、 「…お前が無理してんじゃないかとちょっと思っただけだ」 実際はそんな心配なんぞ不要だと分かったがな。 にんまりと笑った古泉は、 「じゃあ、せっかくの休日だってのに無理して疲れたから、甘やかして?」 などと浮かれきった声で言って俺の肩に腕を乗せ、ずしりともたれかかってきやがった。 「ばか、重いんだよ、どけ」 そう罵りながら、俺もつられるように笑っていた。 「えー? いいじゃん、ちょっとくらい」 そんな風にしてじゃれ合いながら思うのは、こいつはやっぱり結構明るくて、ふてぶてしくて、それなりにしたたかで、俺が無駄に心配する必要なんてないくらい強いってことだ。 それが心強いのか面白くないのか、それとも寂しいのかなんてことはよく分からんがな。 そんなことを考えてると、 「真剣な顔して何考えてんの?」 と聞かれた。 「いや……、お前って意外とちゃんとしてるだろ?」 「意外とってのはなんだよ」 今はそこに固執するな。 「それなのに、俺なんかと一緒にいる意味なんてあんのかと思ってな。俺といたって、何のメリットもないんじゃないかと思ったんだ。だが…別に、そうじゃないよな? お前といても、いいんだよな…?」 不覚にも不安が声に滲んだが、最後まで言い切ったのは、言っちまった方がいいと思ったからだ。 言い終えて古泉を見つめると、なんとも言い難い顔をしていた。 「…あんたな……」 心底呆れたというよりもむしろ心外そうに、古泉は呟いた。 そのままするりと抱きしめられる。 「…当たり前だろ、あんたと一緒だから、俺も楽しいんだからな。あんたがいなかったらなんて…考えたくない。頼むから……いなくならないでくれよ? 一緒に、いさせてくれ」 古泉がそう言うのなら一緒にいてもいいのかと、ほっとしちまうくらいには、俺もこいつのことが好きらしい。 俺はそう苦笑しながら不貞腐れた古泉の鼻先をつっついてやった。 |