寂しがり屋のカレ



古泉の部屋に泊まった夜のこと。
それなりに疲れるようなことをして、ぐっすり眠っていた俺は、朝方になってから冷え切った体が布団の中に入ってくるまで、古泉がいなくなっていたのに気がつかなかった。
出て行ってたのか。
気がつかなくて悪いとも思いつつ、布団から抜け出すのがうまい奴だと呆れながら、おかえり、と声を掛けようとした時、いきなり強く抱きしめられた。
触れたカッターシャツの感触で、古泉がまだ外出着から着替えていないことに気がつく。
そんなに余裕がないんだろうか。
「古泉…? 流石にちょっとばかり痛いんだが……」
「……ワリ」
苦しげな声で返され、俺は思わず眉を寄せた。
何かがおかしいと思ったのだ。
こいつらしくない、と。
何がどうそうなのかは言い辛いのだが、なんとなくそう思った。
「大丈夫か?」
言いながら、せめて頭でも撫でてやろうかと手を伸ばそうとした俺を、古泉が押さえ込む。
俺が動くだけで不安に駆られるとでも言うように。
「……あそこに行くと、妙に不安になるんだ」
あそこ、というのがどこか、聞くまでもなく分かる。
あの気分の悪くなるような灰色の空間のことだろう。
「…行ってたのか」
「ん…。まあ、そう規模は大きくなかったんだけどさ」
ぼそぼそと響く声も心細げで、俺を抱きしめる腕も震えているようだった。
「古泉、頭、撫でていいか?」
「う…ん」
古泉は渋々と言った様子で手を緩め、俺の手を解放した。
俺はその手を古泉の頭に伸ばし、出来るだけ優しく撫でた。
「ご苦労さん。…頑張ってくれたんだよな」
「頑張るに、決まってんじゃん…。あんたのこと、守りたいし…」
「俺のことだけなのか?」
からかうように言っても、古泉の反応は芳しくない。
「かもなー…」
と気のない声を上げ、俺のことを抱き枕みたいに抱きしめる。
「お前な……」
「ジョーダンだよ」
そう言いながらも笑顔は見せてくれない。
よっぽど参っているらしい。
「……なあ、俺に出来ることでもないのか?」
「…あるから、こうさせてもらってんじゃん」
ぎゅ、と抱きしめる腕の強さを強められ、ぐえっと呻きたくなるのを堪えながら、
「こんなことだけで、いいのかよ…」
「十分…」
言いながら、古泉は俺の体を撫でる。
やっぱりまだ冷たいままのその体を温めることくらいしか、俺には出来ないのだろうか。
せめて、と手を伸ばして古泉を抱きしめ、よしよしと子供にでもするように頭を撫でてやると、古泉の方から頭を押し付けてきた。
俺は出来るだけ優しく、
「いつもありがとな」
「んー……」
「俺にももっと手伝えたらいいんだが…」
「今のままで、十分だって…。あんたがいるから、頑張れるんだぜ…?」
それでも、お前にばかり負担を掛けているようで申し訳ない。
精々、ハルヒを怒らせたりしないように気をつけるべきだろうか。
「いいって、今のままで。……大体、涼宮さんだって、最近はあんたに怒って、ってパターンはほとんどなくなってるんだし。…凄く落ち着いてきてる。それはまず間違いなくあんたのおかげで、凄く感謝してる」
そんなことを言いながら、古泉は俺に体重を預けてくる。
重たいくらいのそれが、本当に頼られ、甘えられていると感じられて、嬉しく思う辺り、俺も大分重症で、古泉が俺に向ける異常なまでの溺愛っぷりを笑えない状態にあるらしい。
「よしよし」
と撫でていると、むくりと顔を上げた古泉が、眉を寄せながら俺を見つめ、
「…なんか、余裕綽々って感じに見えるんだけど」
「そうか?」
「そうだろ。……むかつく」
むかつくってお前な。
「お前が弱ってるだけだろ」
「…あんた、楽しんでねえ?」
さて、どうだろうな。
「楽しむつもりはないが、珍しいとは思ってる」
「……面白くない」
そう言って軽く俺を睨んだ古泉が、そのまま俺に口付ける。
「んっ……」
性急に唇を割り、入り込んでくる舌が熱っぽく思えたのがなんだか不思議だった。
体はまだこんなに冷たいのに、舌は熱いってのはどういうことだろうか。
「ぁ……っ、ん、ぅ…」
くすぐったいなんてもんじゃなく、更に言うならば単純にそれだけで終らせるつもりとも思えないキスに、俺の熱まで煽られそうになる。
というか、こいつがこういうキスを寄越すのは決まってそういうことに及ぶ前であり、つまりはそういう行為に及ぼうとしているわけだろう。
それを分かっていて、しかも勘弁して欲しいと思いながらも、全くと言っていいほど抵抗出来なくなってる俺は、一体なんなんだろうね。
くちゅくちゅと恥かしい音が静かな部屋の中に響くだけで、ぞくぞくしてくるのは、どうしてだ。
元々俺は古泉に不満を抱かせるほど性的に淡白なたちであり、そうであれば数時間前、あれだけ付き合わされてまだ頑張れるような元気は残ってないはずなんだが。
……やっぱり、古泉の見慣れない弱った姿にやられちまっているんだろうか。
とすると俺は一体どこまで酷い奴なのかと自己嫌悪にさえ陥りそうになっていると、唐突にキスから解放された。
「…んっ………古泉…?」
どうした? と聞くと、古泉は泣きそうな顔をして、
「――ごめんっ! やっぱ無理! 腹減ったのと眠いのとで死にそう」
と言った。
俺としては拍子抜けするしかない。
「……あのなぁ…」
「いや、あんたが言いたいことはよっく分かってんだ。腹減ってんなら食ってから寝直せって俺も思うし、眠いんだったらさっさと寝ろとも思う。思うけどさ…」
寂しかったのか。
「……」
こくん、と頷いた古泉は……なんというか、その、非常に、可愛かった。
割とよく子供みたいな奴だとは思ってきたが、今はいつにもましてそうで、俺は割と子供好きに分類されるタイプの人間だ。
だから俺はくしゃりと古泉の少しばかり乱れた髪を撫でて、
「キッチンに入っていいなら、俺が雑炊か何か作ってやるが、どうする?」
「怒ってない…のか?」
きょとんとした顔――これがまた妙に可愛いんだ――をして俺を見つめてくる古泉に俺は苦笑して、
「なんで怒らにゃならんのだ」
「だってさ、普通は怒るだろ。押し倒しといて飯ってなんだそれーってさ」
「安心しろ。俺はどうやら普通じゃないらしいからな」
笑いながら古泉の鼻先を軽く抓み、
「で? お前の聖域に俺は足を踏み入れてもいいのか?」
と聞いてやると、古泉は鼻声で、
「いいよ。あんたなら」
と、普段の執着ぶりからすると意外なほどにあっさりと答えた。
それから、べたべたとへばりついてくる古泉を振り払うことも出来ないまま、俺はキッチンに入った。
冷凍庫を開ければ冷凍されたご飯があることも分かっていたし、冷蔵庫には古泉が作り置きしてある出汁のストックがあることもよく知っている。
調理器具についても然りだ。
毎度毎度古泉が料理をしている様子を見ているのだから当然と言っていいだろう。
だが古泉は驚いた様子で、
「何で分かってんだ?」
などと聞いてくる。
「いつも見てるんだから当然だろうが」
「そんなに見ててくれたんだ…」
感激した様子の古泉に、
「見てないとでも思ってたのか?」
「いや…そう言うと語弊があるけどさ…。なんていうか、あんたが俺のことそんなに興味津々で見てくれるってのが、不思議な気がして…」
「別に不思議がるようなことじゃないだろう。俺だって、その、お前のことが……」
消え入るような声になりながらも、
「…す、好き、なんだから、な」
と言ってやれば、余計に強く抱きしめられた。
動き辛い。
「俺も、大好き。あんたが好きだよ。愛してる」
馬鹿みたいに繰り返す古泉に、
「大人しく座っててくれるつもりはないのか? 眠いんだろ?」
「……だめ、かな。まだ離れたくないんだ…」
だからその気弱な声は反則だと、誰かこいつに教えてやってくれ。
仕方なく、俺はおんぶお化けか何かみたいに古泉を背負ったまま雑炊を作った。
…と言っても、たいしたことはしていない。
出汁に、にんじんや大根の薄切りとかを加え、冷凍ご飯を投下してよく温めた後、水菜を加えてひと煮立ちさせた後、溶き卵を回しかけただけ、といった簡単なことだけだ。
味付けだって、ほとんど出汁の味そのままで、少し塩と醤油を加えただけしかしていない。
それなのに古泉は、
「うまい」
と本当に感激した様子で言って、嬉しそうに笑った。
「…やっと笑顔が見えたな」
俺が呟くと、古泉はせっかく浮かべた笑顔にほんの少しだが苦いものを滲ませ、
「心配かけてごめんな」
「いや、これくらいいくらでもいいぞ。俺にはそれくらいしか出来ないわけだし」
「んなことねえって」
そう古泉は繰り返す。
「…あんたがいてくれるだけで、俺の存在を認めてくれるだけで、俺がどんなに救われる気持ちになるか、あんたには伝わんないのかな…」
「伝わらんでいい。…俺はそんな大したもんじゃないし、お前だってそんな軽いもんじゃない。俺とお前は対等な関係だ。……違うか?」
「違わない」
嬉しそうに頷いた後、黙り込んだ古泉は、泣きそうな顔で雑炊を口に運び続けた。
俺はそれを、嬉しいんだか悲しいんだかよく分からないような気持ちで見つめながら、自分で作った雑炊を食べる。
自分で作ったそれは、大した味じゃないはずなのに、目の前で古泉が本当にうまそうに食べるからか、それとも古泉の作っておいてくれた出汁がよかったからか、酷くうまいものに思えた。
ほんの少しだが、古泉が料理を好きな理由が分かった気もした。
温かいものを食べて、どうやら眠気が強まったらしい古泉が、テーブルについたまま船を漕ぎ始めようとするのを見て取った俺は、
「無理せず先に寝ていいぞ。俺が片付けておくから」
と言ったのだが、古泉は首を振り、
「片付けなんて、後でいいから」
と言う。
伸ばされた手は遠慮がちに俺のスウェットの裾を引っ張っている。
「……一緒に、いて、くんねぇの…?」
そう上目遣いに言われて、負けたことは言うまでもない。
「大人しく寝ろよ」
「ん…。流石に……無理…」
聞いてるこっちが眠くなりそうなとろとろした口調で答える古泉に肩を貸してやりつつ、俺は寝室に戻った。
もう冷え切っていた布団も、二人でもぐりこめばそう不快でもない。
古泉は帰って来た時のように俺をきつく抱きしめた。
俺は抱き枕じゃない、とかそんなことを言うことも流石に出来ず、俺はされるがままになるだけだ。
やがて、ベストポジションを探り出したのだろう古泉が動かなくなり、俺は間近に古泉の顔を見つめる体勢に固定された。
肌の色や目元にいくらか疲れが滲んで見えても、やっぱり綺麗な顔だと思いながらその顔を見つめ続けているのは、それ以外見ていられるものがないからであり、眠気がどこかに行ってしまったからでもある。
眠っている顔は本当に端正な人形のようで、この薄桃色をした女の子みたいに柔らかそうな唇から、あれだけ口汚い言葉が出て来るんだよなと思うと、不思議に思えてくるくらいだ。
俺がどれだけ見つめても、古泉はピクリともせずに眠り続ける。
まるで、夢さえも見ていないかのようだ。
そうしながら、必死にしがみついているような腕を緩めようともしない古泉に感じるのは、愛しさと、ちょっとした使命感のようなものだ。
この腕を支えたい。
優しくて、思いやりがあって、器用なくせに時々妙に不器用な腕を。
その側にいたいとも思う。
いつまでも、たとえ古泉が超能力者なんかじゃなくなっても、年をとっても、側にいたい。
それはおそらく、いてやりたい、というわけじゃなく、俺が側にいさせて欲しいんだ。
胸が熱くなるのは、自分の存在意義を手に入れた気さえするからだろう。
動けたらその唇にキスくらいしてやりたい気分だと思いながら、俺はその眠りを妨げないよう、小さな声で囁いた。
「…愛してる」