ハーフムーン
  第七話



眠る間もなく家を出たせいで、授業中はほとんどずっと眠って過ごすことになるのかと思いきや、そうはならなかった。
思ったほど体は疲れていなかったし、どちらかと言うと気分が高揚していて、たとえ眠る時間があっても眠れなかったんじゃないかと思ったくらいだ。
体に残る痕跡は、古泉がつけたキスマークくらいだが、記憶にははっきりと色々なことが残っていた。
体を繋げたこと以上に、古泉と親しく話せたことの方が大きく感じられたことは言うまでもないことだろう。
本当に、夢だなんてまやかしなしに、古泉とああして話せたらいい。
そう思うだけで胸が高鳴る。
知らなきゃよかった、と少なからず思いもする。
どう考えてもまともに話せる気がしない。
それこそ、昨夜の調子ででれっとしてしまうか、逆にそれを押し殺そうとしていつも以上に冷たい態度を取っちまいそうだ。
どうしたもんか、と首を捻りながら、それでも部室棟に向かってだらだらと歩いていると、
「こんにちは」
といつもながら爽やか過ぎる声を掛けられびくりと竦んだ。
昨夜、いや、今朝早くまで耳元に繰り返し吹き込まれた声に、反射的に身体が震える。
それを必死に抑えながら、
「よう」
といつも通りのやる気のない声で返しても、古泉は特におかしいとも思わなかったらしい。
苦笑をひとつ浮かべて、後はもう、普段と変わらず黙り込む。
俺の機嫌を損ねないように。
俺を刺激しないように。
……そんな態度だけで、ずくずくと胸の中が疼いた。
古泉はどうして平気な顔をしていられるんだ。
あんな夢を見たら普通、もっと挙動不審になったっていいはずだろ。
それともやっぱり、……俺なんて、どうでもよかったのか?
酷く痛む胸を押さえ、俺は唇を噛み締める。
これ以上、古泉の側にいたらおかしくなりそうだった。
平常通りの古泉を見ていると、まるで、夢を見たのは俺の方だったようにさえ思えてくる。
思い出さえ消されてしまいそうで怖かった。
だから、
「悪い、急用を思い出した。今日は休むとハルヒに伝えてくれ」
一方的に言って、俺は逃げるように踵を返した。
全速力の早足でその場を離れた後は、ひとりになれる場所を探した。
逃げ込んだトイレで、俺はシャツのボタンを外し、朝からずっとかけていた目くらましの術を解く。
そうして現れた、グロテスクなまでに広がる大量のキスマークに安堵した。
夢じゃなかった。
それでもまだ不安で、そのひとつひとつを確かめるように指でたどる。
触れれば、むず痒い快感すら思い出せるのに。
……胸の痛みは消えてくれなかった。
目くらましをかけ直し、身なりを整え、それでも俺はそこから動けるなかった。
ほんの少しの衝撃でも涙が溢れてしまいそうだった。
古泉、と声にならない声で呼ぶ。
好きだと叫ぶ。
会いたかった。
触れたかった。
抱きしめたかったし抱きしめてほしかった。
無茶苦茶に抱いてほしい。
苦しいほどのキスがほしい。
何よりも、好きだと囁いてほしかった。
せめて、会いたい。
そう、狂いそうなほど強く思ったからだろうか。
気がついたら、宙に浮かんでいた。
それも、生身のままではなく、魂だけが。
「……こんなことも出来たのか」
トイレの床に倒れ込んでいる自分を見ると、この状況はかなりまずいような気もしたが、それ以上に欲求の方が強かった。
これなら、古泉に会える。
人から見えないのだから、表情や態度を取り繕う必要もない。
俺は迷いもせず、真っ直ぐに部室を目指した。
ドアもすり抜けて入った部室には、長門と朝比奈さん、そして古泉だけがいた。
ハルヒはまだ来ていないらしい。
朝比奈さんは編物を始めており、古泉はどこか気もそぞろな様子でチェスのプロブレム集を読んでいた。
長門はどうやら俺に気づいたらしく、本から顔を上げ、心配そうに俺を見つめるので、大丈夫だと手を振っておいた。
それにしても、自分がいない時の部室の様子を見るのはなんとも不思議な気がした。
こうして過ごしていたのか、と思うとともに、静か過ぎて若干嘘寒い気もしてくるくらいだ。
それでもとにかく俺は古泉に近づいた。
試しに、
「古泉」
と呼んでみても反応はない。
声は届かないものらしい。
それでは触れられないのか、と思いながら手を伸ばし、古泉の肩に触れてみると、一応触れることは出来た。
だが、古泉はやはり何事もない様子で本を読んでいるし、触れた感触もどことなく違っていた。
今の俺はおそらく霊体というやつなんだろうが、その俺が触れられるのもまた、物質である肉体ではなく霊体なのかも知れない。
だが、たとえ少々違っても、古泉に触れられるのが嬉しくて、俺は古泉を抱きしめた。
「古泉」
と呼んで、その頬を撫で、口づける。
古泉には分からないと思うといくらか虚しかったし、長門に見られていると思うと多少恥ずかしくないでもなかったのだが、やはり俺の精神構造は妖精に近いらしく、しかもこうして肉体から離れてしまうと更にその傾向は強まるらしい。
見られていても構わないと思えた。
迷惑を掛けて悪いが、見たくないなら目を背けててくれ。
本を読み続ける古泉の腕の中に滑り込み、しなだれかかるようにしてその首に腕を絡める。
笑みの形に引き結ばれた薄い唇に、自分のそれを何度となく重ねながら、
「好きだ」
と囁く。
言えない分も重ねて、何度も何度も繰り返す。
反応の返ってこない虚しさには蓋をして、自己満足のマスターベーション染みた行為に浸っていると、勢いよくドアが開き、ハルヒが現れた。
「あれ? キョンは?」
必要以上に目を見開き、きょろきょろと室内を見回すハルヒに、古泉は小さく笑って答えた。
「もうお帰りになりましたよ」
「帰った!? なんでよ」
「なんでも、体調が優れなかったようでして……。顔色もよくなかったので、僕の方から勧めたんです」
という古泉の言葉に俺は目を見張った。
なんでそんな嘘を吐くんだ?
そんなことをして、ハルヒの機嫌を損ねたらどうする。
…俺を庇ってるつもりか?
怪訝に思う俺の目の前で、ハルヒはまじまじと古泉を見つめた後、
「そう、まあいいわ」
とつまらなさそうに吐き出した。
さっきまでの元気はどうしたと言いたくなるくらいの大人しさで団長席に座った後は、手持ち無沙汰の中間管理職よろしく用事もないのにパソコンをいじっている。
そんなハルヒを古泉はどこか困ったような、そうでなければ、申し訳なさそうな瞳でしばらく見つめていたが、やがて目を本に戻した。
俺はと言うと、なんとなくだが、古泉に一方的にべたつく気を削がれたような気持ちになって、それでも離れ難くて古泉の膝に乗っていた。
ある程度予想はしていたが、自分を見てもくれない相手にべたついたところで楽しいのは我に返るまでの短い間だけだ。
そして俺はハルヒの登場と古泉の思いもかけない嘘のおかげで、すっかり我に返っちまった。
それにしても、と俺は古泉を見る。
いつもと何も変わらない顔だ。
俺がいないからといって、つまらないとも悲しいとも思ってはくれてない、どこか楽しげですらあるアルカイックスマイルを唇に刻み、黙々と本を読んでいる。
読んでいる本が本だから、時折唇が動いたり、指先が本の上を滑ったりはするのだが、それだけだ。
もし、俺がいつも通りいたとしても、古泉が何か嘘を吐いても分からないんだろうな。
そう思うと、ずきりとまたひとつ胸が痛んだ。
嘘は好きじゃない。
別に俺は半妖精だし、そもそもお袋やあのおっさんだって、嘘を吐いたくらいで弱るほど儚い種族なんかじゃない。
そんなのはもっと古い時代の、もっと希少な奴らの話だ。
妖精だって嘘は吐く。
ただそれは、相手を傷つけないための嘘だったり、あるいはただの悪戯のための嘘だったり、そうでもなければ本当ではないけれど嘘でもないというようなことでしかない。
意図も分からないような、おかしな嘘を、何もないような顔で言ったりはしない。
そう、昔、人間に恋をした親戚のエルフの姉さんも、ため息混じりに言っていた。
人間は自分で吐いた嘘を自分でも本当だと思い込んだりするところがあるから怖い、と。
古泉もきっとそうなんだろう。
「古泉一樹」という嘘を、本当にしつつあるんだから。
それなら、戯れに俺を好きだと言ったあの言葉を、いつの間にか本当にしてしまっていても不思議はない。
俺はため息をひとつ吐いて、古泉から離れた。
人間ってのは本当に分からん。
好きならはっきり好きと言えばいいのに、そんな様子を見せることもしないなんてな。
…って、それは俺も人のことは言えないか。
体に戻るにしても気が重く、だらだらと本体の方へと飛んでいると、眼下を古泉が走っていくのが見えた。
「古泉?」
いや、声を掛けても仕方がないんだった。
それにしても、あいつがあんなに急ぐとは何事だろうか。
閉鎖空間が発生したなら、俺にも空気のざわめきなんかで分かるからそれは違うはずだ。
別に何か呼び出しでも食らったんだろうか。
そう思いながら、ほとんど脊髄反射な勢いで古泉の後を追うと、古泉は俺の体が転がってるはずのトイレに駆け込んだ。
え。
驚く俺の目の前で、古泉は乱暴に個室のドアを叩いた。
「大丈夫ですか!?」
必死の形相で叫ぶのはそんな言葉と俺の名前だ。
えええ。
何がどうしてそうなったんだ、と思っていると、古泉がすぐ側の窓枠に脚を掛けた。
って、おい、まさか…。
そのまさかだった。
あろうことか、信じられない身体能力を発揮した古泉は、窓枠を足がかりに個室のドアに腕をかけ、そこから腕の力だけで中に滑り込みやがった。
なんてこった。
お前、本当は通常空間でも超能力者なんだろ。
唖然とする俺の目の前で、古泉は床にしゃがみこみ、
「大丈夫ですか」
古泉はあれだけの運動をしたってのに顔を赤くすることもなく、それどころかすっかり青褪めた顔で、意識のない俺の体を抱え起こした。
「呼吸は…弱いけどあるみたいですね。とりあえず気道確保を……」
落ち着こうとしてか、ぶつぶつと独り言を呟きながら古泉は俺の顎を上げさせる。
…さて問題だ。
俺はいつどのタイミングで体に戻ればいい?
このままだと救急車を呼ばれそうなんだが、しかし、あの状態で目を覚ますというのも非常に居心地が悪い気がする。
どうしたものか、と考えている間に、古泉が携帯を取り出した。
いかん。
俺は慌てて自分の体に飛び込み、目を開いた。
今にもボタンをプッシュしようとしていた古泉が、ほっとしたように表情筋の緊張を和らげる。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ……」
「驚きましたよ。…長門さんに、あなたがここで倒れていると聞いて、本当に心臓が止まるかと思いました」
なるほど、長門が気を利かせてくれたってことか。
「というか、お前、どうやってここに入ったんだ?」
見ていて知っているくせに、出来る限り自然に振舞えるようにとそう聞いてみると、古泉は苦笑して、
「無我夢中でよじ登ってしまいました」
「よじ…」
「いやあ、人間やろうと思えば出来るものですね」
と微笑む唇の形は、部室でのそれとよく似ていた。
俺はそれを見つめながら、
「…なんで、そこまでするんだ?」
と聞いた。
聞いてしまった、と言うべきだろうか。
そんなことを聞くつもりはなかったはずなのだが、気がつくと質問が勝手に口をついて出ていたからな。
そして、古泉の引きつるような顔を見て、失敗したと思った。
聞いてはいけないことを聞いちまったらしい。
「わ、るい…」
声は掠れてうまく出なかったが、それでも無理矢理言葉を続ける。
「俺が倒れてるなんて聞いて、お前が見過ごすわけないよな。俺は……鍵なんだから」
自分で呟いた言葉にずきりと胸が痛んだ。
「そうじゃないんです…!」
思ったよりも強く、古泉は言った。
その目が、真っ直ぐに俺を見つめてくる。
「そうじゃ、なくて……、その、僕は立場とか関係なく、あなたが心配で……」
「…なんでだよ」
「…それは……僕が…」
言ってくれるのか、と期待しながら古泉を見つめ返す。
「お前が?」
「…あなたを……大切に思っているからです」
搾り出すような小さな声で言った古泉に、
「大切にって?」
と囁いた。
力で人の気持ちを動かすのが怖いと言いながら、今は思いっきり狙ってやった。
古泉が本音を吐き出すようにと。
だと言うのに、
「大切は、大切です…」
とぼかされた。
半月はつい昨日だというのに、未熟者の俺じゃ力不足か。
まあいいさ。
ため息を吐いた俺に、古泉は心配そうな顔で、
「それより、どうしたんです? こんなところで倒れてるなんて…」
「あー…いや、ちょっと、疲れてて、な…」
何せ昨夜というか、今朝早くまで心身ともに酷使したからな。
それもこんなことになった理由といえなくもない。
「では、急用と言った時から…?」
「……まあ、な」
「……っ、どうして、」
古泉は驚くほど強引に俺の肩を掴んだ。
「どうして、あの時言ってくれなかったんですか…!」
その顔は、泣きそうなほど苦しげに歪んでいて、俺はどうして古泉がそんな顔をするのかが本気で分からなかった。
「こいず、み…?」
「僕は、そんなに信用なりませんか? 頼ってももらえないだけならまだしも、体調が悪いことさえ、言ってはもらえないんですか…?」
「なっ、」
「そういうことでしょう? …確かに僕は、あなたに言えないことばかりで、信用ならないかもしれません。でも、僕は、本当にあなたが心配で、出来ることならなんだってしたいんです…」
それを、確かに嬉しいと思ったはずだってのに。
「…ッ、んなこと言ったって、お前に言ってもしょうがないだろうが!」
……気が動転したにしても、あまりに酷い言葉だった。
寄せられた古泉の眉に、噛み締められた唇に、胸が引き裂かれたみたいに痛んだ。
…引き裂いたのは、自分の方だろうに。