ハーフムーン
  第四話



古泉とのぎこちない冷戦状態が続いた末に、半月ぶりの半月の晩が訪れた。
「やるんでしょ?」
と聞いたのはお袋で、
「ここまで準備してやらないわけはないだろう」
と勝手に答えたのは、すっかりうちの客としていついていたエルフのおっさん――名前は未だによく分からん――だった。
しかし、俺の返事も同じだ。
「最悪、一人で飛んでくるさ」
「そう。じゃあとにかく羽根の粉をあげなきゃね」
そう言ってお袋が目を閉じると、その背中に虹色に輝く薄羽根が現れた。
俺も、妹が生まれたばかりの頃に妹の羽根なら見ていたが、お袋の羽根を見るのは初めてだった。
それは少々小柄なお袋の背よりもずっと大きく、そして儚げだった。
お袋は台所からガラス瓶を引き寄せると、それを俺に渡した。
「羽根をちょっと摘んだら、粉が落ちるから、それを少しずつ集めて瓶に詰めなさい」
「摘んでも痛くないのか?」
「全然」
けろっとした顔でお袋は言い、
「もげてもすぐ生えるし」
とその一見たおやかな風貌及び妖精の儚げなイメージに全くもってそぐわないようなグロいことを言うので、
「やめてくれ」
とげんなりした声で抗議したのだが、エルフのおっさんは、からからと笑って、
「妖精の羽根ってのは要するに力の結晶みたいなもんだから」
つまりうちの妹は力があるってことか?
「うーん、妹ちゃんの場合は、どこかで混ざった小妖精の血でも出ちゃったんじゃないかね。飛ぶ以外は特に何が出来るって感じじゃないし」
そういうこともあるのか。
「たまにはねー。っていうか、ハーフなのに羽根があるだけ珍しいんだよ」
おかげで俺の兄としての尊厳はずたずたである。
せっせと練習していたら妹に、
「キョンくんは大変だねー」
なんてふよふよ飛びながら言われた日には、情けなくてやめようかと思ったくらいだ。
まあ、それでもやめなかったから、こうして羽根の粉を摘み取っていたりするんだが。
「これくらいでいいか?」
手の平にすっぽりと隠れるような小さな瓶をいっぱいにして尋ねると、お袋は羽根を消しながら、
「二人分なら十分よ」
「それじゃ、行ってくる」
てっきりついて来ようとするのかと思ったエルフのおっさんは、意外にも大人しく見送ってくれた。
「気をつけてなー」
と声まで掛けて。
逆に訝しいものを感じながらも、それならそれでいいと俺は家を出て、公園に向かった。
あの時出来たフェアリーリングは当然もう消えているが、効力は残っている。
加えて、昨日わざわざ出向いてもう一度作っておいたから、心配はない。
一見なんの変哲もない地面に、濃い魔力の気配を感じながら、俺はその中央に立った。
それだけで、体の中で慣れない力がざわめくのを感じる。
深呼吸をして自分を落ち着かせ、まずは目くらましの術を掛けた。
そうすることで、俺の姿は人から見えなくなる。
見えたとしても、気にはならないはずだ。
それからいよいよ、空を飛ぶために羽根の粉を取り出し、自分に振り掛けた。
きらきらとした虹色の粉が俺の体に触れ、一瞬白く発光したかと思うと消えうせる。
それでも、その魔力ははっきりと感じられた。
俺は、思い切って地面を蹴った。
ふわり、と驚くほど呆気なく、体が地面を離れる。
飛んでる、と思うだけで心が騒ぐくらいには、俺もやはり好奇心が旺盛だったらしい。
実際飛んでみると、空を飛ぶというのは案外簡単なことのように思えた。
風を感じ、行きたい方向に意識を向ければ、うまいこと動ける。
そうして、夜の空は飛び交うものも多かった。
これが新月や満月の夜なら更に混み合うだろうと思いながら、まどろみがちな風の精の側を抜け、この日のために調べておいた古泉のマンションを目指す。
古泉が不在ならどうしようかと思ったのだが、それは幸いにも杞憂でしかなかった。
目的の部屋のベランダに下りると、その部屋にはしっかりと明かりがつき、テレビのものらしい音もしていた。
俺はもう一度、暗示の掛け方を思い返しながら、大きなガラスを叩いた。
こんこんと言うより、どんどんと言った方がいい感じで叩いてやったのだが、古泉は顔を出さない。
むきになって叩きながら、
「古泉! いるんだろ! 早く開けろ!」
と怒鳴ってやると、しばらくして、ばたばたとらしくない足音がして、カーテンが開けられた。
古泉ははっきりと驚いた顔をして俺を見つめ、
「どうやってそんなところに…」
と言うその頭に寝癖を発見して、俺はにやりと笑いながら答えてやった。
「だから、言っただろ? 俺は妖精と人間の間に生まれたハーフなんだって」
「は……」
「いいから、早くここを開けてくれ」
「あ、す、すみません」
慌てて鍵を外し、アルミサッシを開けた古泉が、
「ともかく中へ、」
と誘ってくれたのには、
「悪いが、」
と首を振り、
「お前が外に出てこい」
「なんでしょうか…」
警戒しているというよりは、混乱しきった様子の古泉に、暗示を掛けるための下準備を仕掛ける。
「寝癖がついてるが、寝てたのか?」
「え? ……ええ、うっかりうたた寝を……」
それが俺にはラッキーだった、と思いながら、
「それじゃ、俺がいきなり来たからびっくりしただろ」
「ええ、本当に夢かと……」
と笑う古泉に、しめた、と思った。
俺はじっと古泉の目を覗き込みながら、
「本当に夢だとしたら?」
「え……」
俺を見つめ返した古泉の目からじわりと光が消える。
「これはお前の見てる夢だ。現実じゃない」
「……」
光の失せたその目に、ぼんやりとしたその頭に、間違った認識を植え付けてやる。
「これは夢だ。……そうだろ?」
「……ええ、そうですね」
古泉に表情は戻ったが、それは先程までの混乱からは遥かに遠いものだった。
「これからどこかへ行くんですか?」
きちんと玄関先から来訪した客に対するように言った古泉に笑みを返しながら、
「ああ、ちょっと空に」
「いいですね。羨ましい限りです」
「ばか、お前も一緒に決まってんだろ。誘いに来てやったんだからな」
「僕も? いいんですか?」
驚くより期待に目を輝かせる古泉に頷き返して、ポケットから取り出した小瓶をちらつかせる。
「これ、なんだか分かるか?」
「なんでしょうか…。随分綺麗なものですね」
「これは妖精の羽根の粉だ。……ピーター・パンくらい、お前も知ってるだろ?」
「ええ、子供の頃、とても好きだったお話のひとつですよ」
そりゃあいい。
俺は笑いながら瓶のフタを開け、中身を軽く古泉に振り掛けた。
「じゃあ、その通りにしろ」
「信じる心を持ち、楽しいことを考えろ、と?」
「ああ」
「…分かりました」
そう言った古泉が俺を抱き締める。
「おい…っ!?」
いきなりなんだ、と戸惑う俺に、悪戯っぽい笑みを向けた古泉は、
「僕にとって楽しいことと言えば、こういうことですから」
「は? お前、案外ハグとか好きなのか?」
「違いますよ」
耳元で囁かれ、何故だか背筋がぞくりとした。
寒気を感じたわけではないと思うのだが、何かヤバい気がするのは気のせいだろうか。
「…あなたに触れられるのが、嬉しいんです」
「…って……お前…俺のことが嫌いなんじゃなかったのか…?」
「まさか」
と古泉は否定したばかりか、あまつさえ、声を立てて笑いまでした。
十分楽しい気分になったからだろう。
古泉の体がふわりと浮き上がる。
慌てて俺も地面を蹴り、ベランダから外に飛び出した。
「しっかり捕まってろよ。じゃないと落ちそうになった時にちゃんとフォロー出来んからな」
「ええ、あなたが嫌がっても離しませんから、ご心配なく」
と冗談とも本気ともつかない調子で言われ、こっちの調子が狂う。
それでも、夜の空を飛ぶのは気持ちが良かった。
風は少し冷ややかだったが、抱き締められてるせいで寒くはない。
「うっかり薄着のまま連れ出しちまったが、お前は寒くないか?」
「ええ、大丈夫ですよ。…あなたがこんなに暖かいですし」
「…そうかい」
恥かしさにこっちの顔が赤くなる。
それでも気を取り直して、
「どこか行きたいところとか、あるか?」
と聞けば、
「僕は、あなたとならどこでもいいです」
とえらく綺麗な顔で微笑まれ、どきりとした。
しっかりしろ、俺。
「でも、本当に気持ちのいいものですね。空を飛ぶというのは。気のせいでしょうけど、星が近く思えますよ」
そう言った古泉が夜空に手を伸ばせば、ぐんと高度が上がった。
「昔は天体観測が趣味だったって言ってたよな。今も星は好きか?」
「ええ」
にこりと微笑んだ古泉が、星ではなく俺を見つめて、
「好きです」
と言うだけで、心臓がもう一つ跳ねる。
だから落ち着けよ俺、今のは俺にじゃなくて星についての発言だろ。
「あなたは、昆虫がお好きだったそうですね」
「あ、ああ、まあな」
そう頷いてから、聞かれてもないことを饒舌に語っちまったのはあれだ。
動揺を抑えようとしての自己防衛本能の一環に決まってる。
「子供の頃から、他の妖精とかが見えてたから、自然に興味が湧いたんだ。虫のいる場所を教えてもらったり、小妖精とただの虫の区別がつかなくて叱られたり。それから、虫とも話せるから、ちょこちょこ話しかけてた。おかげで、人間が使う呼び名とあいつらの自称が食い違うせいで覚えるのに苦労したりしたし、標本なんて死んでも作れなかったが、それでも楽しかったな。子供の頃なんて特に、そういうことをしててもただの夢見がちな子供として片付けてもらえるだろ? あの頃は気楽でよかった」
そうべらべらと喋ってから、
「すまん、こんな話、面白くもないよな」
と言ったら、古泉は優しく目を細めて、
「いいえ。とても興味深い話だと思いますし、あなたのことなら、なんだって知りたいですから」
「は……」
俺を散々に悩ませたあの疼痛とは違う方向で、どきどきと痛いほどに弾む心臓を押さえながら古泉を見つめ返せば、
「もしかして、シャミセン氏ともまだ話せるんですか?」
「あ? …ああ、まあな」
「それはそれは、羨ましいですね。…それはつまり以前から、猫とも話せたということですよね?」
「ああ」
「なるほど、それではあなたは突然シャミセン氏が話し始めた時も驚かなかったんでしょうか」
「いや? 流石に驚いた。…お前らまで驚いてたからな」
「おや。それでは我々が何事もないようなふりをしていたら、あなたもそうしていたということでしょうか」
「そりゃな。変な目で見られるのは嬉しくない」
「そうでしょうね」
とかすかに声を立てて笑った古泉は、それが収まってからほっと小さな息を吐き、
「ずっと、あなたとこんな風に話したかった」
と囁いた。
「……俺も」
勝手に言葉が出ていたが、失言とは思わなかった。
こうなって、やっと分かった。
空を飛びたいと思ったのも、俺はこんな風に、古泉となんの忌憚もなく話したかったからだ。
お互いの立場も何もなく、本当に親しい仲になりたかった。
古泉が夢だと思いこんでいるからこそ叶ったのに、そのことが、何故だか妙に悔しく思えるほど、俺はそれを切望していたらしい。
「…お前が悪いんだ」
ぎゅっと古泉の腕を握り締めて、俺は言った。
「お前が、俺の言うことを信じてもくれないし、立場ばかり気にして、少しも本当のことを教えてくれないから……」
「…すみません」
「謝るな。…お前に謝られるのは好きじゃない」
そう言われても、と困った顔をする古泉に、
「謝るくらいなら、反論でもしてみたらどうだ? 本当のことを教えなかったのは俺も同じだとか、な」
「言い訳は好きではありませんし、それに、あなたは本当のことを明かしてくださったじゃありませんか」
「…ちゃんと、覚えてるか?」
「…すいません、正直言って、あの時は本当に冗談だとしか思えなかったものですから…」
「だから謝るなって」
笑いながら、俺は古泉の頬を引っ張ってやった。
それにさえ、古泉はくすぐったそうな嬉しそうな顔をする。
「もう一度教えてやろうか」
「ええ、お願いします」
「俺の親父はただの人間だ。お袋が妖精というか、エルフってやつなんだ。他にも色々人外の種族の血が混ざってるらしいが、細かいことはお袋にも分からんから俺も知らん」
「妖精というのは、人間にも普通に見えるものなんですか?」
「種族による。小妖精みたいなのはよっぽど純粋な子供くらいにしか見えないし、エルフみたいに力の強い種族なら、向こうが姿を見せようと思えば誰にだって見えるようになる」
「それなのに、ご両親はどうやって知り合ったんですか?」
「お袋が変わり者でな、人間として暮らしてたんだ。だから、親父とは普通に出会って、恋をして、どうやったんだかうまいこと戸籍までこしらえて、結婚したんだ」
「あなたのお父様は驚いたりしなかったんでしょうか」
「そりゃ、驚いただろう。でも、関係なかったんだろうな。そうでなきゃ、家の中を皿が飛んできたり、観葉植物が育ちすぎて家中に溢れたりするような家で暮らしてるわけがない」
あはっ、と珍しくも軽い笑い声を立てた古泉は、
「そんなこともあるんですか」
「最近は滅多にないが、昔はたまにな」
「凄いですね。是非見てみたいものです。今度そういうことがあったら、是非呼んでください」
「…ああ」
そんなことはきっとないと思うと、胸がつきんと痛んだ。
いつもの疼痛よりはずっとマシだ。
これはおそらく、ただの罪悪感なのだろう。
痛みを抑え込み、静かに空を飛びながら、色々な話をした。
古泉の話も聞かせてもらった。
夢だと思いこんでいるからだろう。
古泉はよく喋り、本当は黙っていなきゃならんようなことまで喋った挙句、俺が、
「そんなことまで俺に言っちまって大丈夫なのか?」
と聞き返すと、
「内密に願います」
と悪びれもしない笑顔にウィンクまでつけて言いやがった。
話に夢中になる頃には飛ぶ方が疎かになってきたので、適当に見つけた高いビルの天辺に座って、思う様話し込んだ。
飛ぶことなんてどうでもよくなるほど、会話が楽しかった。
「普段からこうならよかったのにな」
思わず呟いた俺に、
「でも、そうしたらこんな素晴らしい眺めを見られることもなかったんじゃありませんか?」
と古泉が揶揄するように言ったのは、俺が今回こんなことを思い立った動機まで喋っちまったからだ。
全く、「お前と二人で話したかったから」なんて恥かしいことをよく言えたもんだ。
ハイテンションってのは恐ろしい。
それでも、
「…かもな」
俺は苦笑しながら頷いて、
「だが、お前にしてみれば、俺と一緒より他の、そうだな、可愛い女の子と一緒の方がよかったんじゃないか?」
と意趣返しのつもりで口にしたってのに、
「あなたと二人きりだから、この眺めも素晴らしく見えるんだと思います」
と言われた。
どきんとまた心臓が跳ね上がる。
「へ…」
「あなたと二人きりで、嬉しいですよ」
そう、熱っぽく見つめられ、どこかで警鐘が鳴った気がした。
「……っ、寒くなってきたし、そろそろ帰るか」
無理矢理会話を打ち切って、俺が立ち上がっても、古泉は文句一つ言わないで、
「ええ、帰りましょうか」
と頷いた。
…なんだ、その程度なのか。
――って、俺は一体何を考えてるんだろうな。
我ながら恐ろしい、と肝を冷やしながら、俺は古泉の手を握る。
「行くぞ」
「はい」
ビルの屋上を蹴って、ふわりと空に舞い上がる。
どこまでだって、そして、いつまでだって、飛べそうな気がした。