何故少年はしらばっくれるか



その日、部室には僕と彼の二人しかいなかった。
どうしてかと言えば、涼宮さんが女性二人を連れて帰ってしまったからだ。
そのくせ、僕たちが居残っているのは、やりかけのチェスに彼が誘ってくれたからだ。
人の心の動きに関して基本的に非常に敏感なくせして、ある一定分野に限って非常に疎くなる彼は、おそらく、帰り際に長門さんが見せた残りたそうな様子や、涼宮さんの見せたかすかながらも気掛かりそうな様子にも気づかなかったことだろう。
ましてや、二人きりで放課後を過ごせることについて、僕が内心でとても喜んでいることや、その理由になど、微塵も気づいていないに違いない。
その鈍さも含めて彼の魅力ではあるのだけれど、それにしたって限度があるんじゃないかと、彼になんらかのトラウマでもあるのだろうかと、冗談半分の疑いが首をもたげて来る。
そんな僕の心を見透かしたわけではないのだろうけど、不意に彼が口を開いた。
「今、ちょっと流行ってるラノベがあるだろ」
そう言って彼が口にした名前は僕も聞き知っていた。
「ああ、名前は聞いてます。なかなかの人気みたいですね」
「読んでないのか?」
「残念ながら……」
「じゃあ、今度貸してやるよ。お前に読む時間が取れるなら、だが」
思いがけない言葉に嬉しくなる。
嬉し過ぎて、おそらく顔に出てしまっただろうけれど、この場合は構わないだろう。
この人が僕にそんなことを言うなんて。
同時に、断る場合の口実も自分から用意してくれる人のよさに、改めて惚れ込みながら、
「では、是非お願いします。…しかし、あなたがそこまでおっしゃるなんて、よほど面白いんですね」
そう笑った僕に対する彼の返答はおかしなものだった。
なにせ、短く、
「いや?」
と言ったのだから。
「…面白くないんですか?」
思わずワンテンポ遅れて問いかけた僕に、彼はつまらなさそうな顔で、
「谷口なんかは面白がってるみたいだが、俺にはそうでもないな」
「ええと…では、人の感想が気になるから僕にも読めってことですか」
「……まあ、そんなところだな」
納得した。
それで彼は読書家だが無口で、感想などなかなか語ってくれることのない長門さんではなく、口数ばかり無駄に多いと言われてしまう僕に声を掛けたわけか。
うっかり期待してしまった僕が愚かなのか、それとも無自覚に思わせぶりなことをする彼が罪作りなのか。
吐き出しそうになったため息をぐっと飲み込んだ僕に、彼はポーンを進める間に話す。
「その主人公ってのがな、めたらやたらと女の子に囲まれた環境に置かれてるだけでもそこそこ不自然だってのに、出てくる女の子がみんな、揃いも揃って主人公に惚れてるとか、無茶だと思わんか?」
「そうですね…。現実にはなかなかありえない展開かと」
当たり障りのない返事をしながら、僕は苦笑を押し殺す。
あなただって似たような状態ですよと言ってやりたいくらいだ。
「しかも、その主人公と来たら、あからさまに好意を寄せられてるし、それに気づいてそうな節もあるってのに、全然気づいてないって顔をしてやがってな。それがまた不自然でおかしいんだ」
「…あなたが言いますか」
「は?」
「いえ、なんでもありませんよ」
うっかり本音が出てしまっただけで。
「とにかく、あの主人公はしらばっくれてるとしか思えん」
「はぁ」
「それでだな、納得が行かないなりに、俺も考えてみたんだ」
「何をです?」
「なんであの主人公があんなにもしらばっくれてるのかってことを、だ」
僕は呆れたくなりながらもいい機会だとも思った。
この人の恋愛観を探るチャンスかも知れない。
「それは興味深い考察かと。あなたの考えをお聞かせ願えますか?」
「それはだな、あの作品が主人公の一人称のみで構成されてるからだ」
……残念、あまり参考にはならなさそうだ。
「どうしてです?」
「いいか? たとえば、一人称のみで構成された作品で恋愛小説を書こうとすると、それが主人公の片思い、ないしは既に両思いがはっきりと分かっている状況でない限り、嫌味にしかならんと思わんか?」
「ええと…」
どういう意味だろうか、と戸惑う僕に、彼はかみ砕いた説明をしてくれる。
「想像してみろ。誰が好き好んで、可愛い女の子に好意を寄せられていると分かっている男の話を聞きたがる? それも酷い自慢話をだ。それがそいつの妄想ならまだ笑ってやれるが、事実そうだったりしたら蹴っ飛ばしてやりたくなるぞ」
「ああなるほど、つまり、先に挙げられた作品において、主人公が寄せられる好意を自覚した途端、それはただの自慢話にしかならなくなるということですね」
「そういうことだ。しかも、複数の女の子相手だぞ? どう考えても、感情移入できるようなキャラクターにはならんと思わんか?」
「なるほど」
「だから、あの主人公はしらばっくれる他ないわけだ」
そう言って彼は既に冷めきったお茶をすすり、唇を湿した。
「まあ、今のは小説の話だが、実際にもある気がしないか?」
「と言いますと?」
「お前みたいにあからさまにもてる奴には分からんだろうが、そうじゃない、十把一絡げの連中からすると、自分がもてるなんてのは考えにも及ばんどころか、そんな風に考えるだけで自分が酷い妄想男にしか思えなくなるようなもんなんだよ」
とどこか不機嫌に呟き、
「妄想男というか、中二病のごときイタさというか、とにかく、ちらと思ったところですぐさまありえないと全否定するしかないわけだ」
「はぁ…」
と一応頷きながらも、彼が何を言いたいのかが分からず、僕は困惑するばかりだ。
一体いつになれば結論が来るのか、そしてそれはどんなものなのか、と思っていたら、案外それは近かったらしい。
「だからきっと、あの主人公が誰かと付き合うことになるとしたら、それが最終巻になろうとなるまいと、相手から告白された時なんだろうな。でもって、あいつは大袈裟に驚いて見せて、初めて知ったみたいな顔で、そのくせちゃっかり付き合うんだろ。向けられた好意を拒めないお人好しさ加減でもって」
そうどこか憎らしそうに呟いた彼は、ちろりと僕を見た。
意味が分からない。
何かコメントを求められているんだろうか。
軽く首を傾げた僕に、彼はため息を吐き、駄目押しのように一言付け加える。
「つまりは、恋愛なんて早い者勝ちなんだとは思わんか?」
「そうなのかも知れませ…」
素直に頷きかけて止まったのは、まさかまさかと思いながらも、ひとつの可能性に行き着いたからだ。
もしかして僕は誘われているのだろうか、なんてそれこそイタい妄想みたいなことを考える。
そんな馬鹿なと笑い飛ばしたい気持ちと、先程からの思わせぶりな視線に絡め取られて動けなくなる。
もし、本当に彼が、件の主人公のようにしらばっくれてるとしたら。
そしてそれを、自分でもよく分かっているとしたら。
その上で、僕にこんな話をしたのなら。
――それはつまり、早く告白しろとせがまれてるようなものじゃないか?
むくむくと沸き上がりつつある浅はかな期待を押さえ込むべく、僕はひとつ質問する。
「あの、この話、他の人にもしましたか?」
「お前だけに決まってんだろ」
そう答えてくれた彼の頬が赤い。
そんな反応も可愛くて、愛しくなる。
期待していいんだろうか。
疑いながら、僕は手を伸ばし、彼の手を握りしめた。
彼は逃げない。
振り払おうともしない。
意図を問うような視線もなく、非難の眼差しもなかった。
真っ直ぐに僕を見る瞳にあるのは、覚悟を問うような光。
僕が勇気を出して踏み出せば、決して後退などさせないと言うようなそれに、僕は目を細めた。
眩しいほどの強さに、そして、深い愛しさに。
「もうずっと、あなたに聞いていただきたかったことがあるんです。……今、この場で申し上げても構わないでしょうか」
「俺は構わんが、お前はいいのか? こんな場所で」
言外に、ちゃんとしたシチュエーションを求められた気がするけど、
「僕もこだわりはありませんから。それに、この場所こそ、相応しいようにも思うんです」
初めてあなたに出会えた場所だから。
「じゃあいいぞ。…もし、お前の話ってのが質問なら、答えやすい形で頼む」
そう言って、やんわりと僕の背中をもう一押ししてくれる優しさが嬉しい。
僕は一度目を閉じ、深呼吸した。
これだけお膳立てしてもらってもなお、緊張する。
落ち着かない心臓の鼓動を聞きながら、じっと彼を見つめた。
彼も緊張しているのだろうか。
かすかにその手が震えていた。
「僕は、」
間違っても聞き流されないように、彼の目を見つめてはっきりと告げる。
「あなたが好きです。出来ることならば、あなたとお付き合いしたいと思っています。……僕と交際してくださいませんか」
覚悟を決めたはずだったのに、不覚にも、声は小さくなってしまった。
それでも彼には届いたと信じたい。
彼は僕をまじまじと見つめた。
……まさか、本当は気づいてなかったなんて言わないでしょうね。
びくつく僕に、彼は滅多にないほど柔らかく微笑んだ。
「俺でいいなら、付き合ってやってもいい」
「あなたがいいんです。いえ、あなたでなければ意味なんてありません。あなたが好きなんですから」
「…ありがとな」
照れ臭そうに笑いながら、彼は困ったように眉を寄せる。
「つうか、お前、言うのが遅いんだよ。どれだけ人を待たせりゃ気が済むんだ」
「それを言うなら、あなたは人が悪すぎます。いつから気づいてたんです?」
「さて、何の話だ?」
この期に及んでまだしらばっくれようとする彼には呆れるしかない。
「いいですよ、もう。……それより、もうひとつだけ答えてくださいよ」
「なんだ?」
「……僕のこと、好きですか? それとも、好きになれそうです?」
「……なんつうか、お前もそういうところは普通の男子高校生だよな」
「それ、返事じゃないじゃないですか」
「ああいや、だって…なあ?」
「答えてくれないんですか?」
「違うって。お前はもてるから、もっと自信満々かと思ってたんだ。まさかそんな風に聞かれるとは思わなかった。好きになれそうかなんて、そんなもん…」
くすぐったそうに笑って、彼は僕を見つめた。
「…とっくの昔に惚れてたに決まってるだろ」
その手が僕の首に掛かり、ぐっと力を込めて引き寄せられる。
薄く目を閉じた彼の意図を問う必要はもはやない。
だから僕は微笑んで、彼の唇にキスをした。