とある彼女の憂鬱  第九話



その日僕が部室に行くと、そこには珍しく、宇宙人の姿がなかった。
いるのは自称未来人の少女一人きりである。
そう言えば、未来からやってきた彼女の言った「証拠」について、まだ確かめてなかったなと思った僕は、悪趣味ながらも単刀直入に尋ねてみることに決めた。
なんということはない。
未来人であるという主張の真偽が気になったということ以上に、宇宙人精人造人間である彼以上に人形染みた彼女が、一体どのようなリアクションをするか知りたいという、厄介かつ俗っぽい好奇心が首をもたげたと言うだけの話である。
「長門さん」
「……なに」
「右の腰骨の上に、稲妻型の傷跡がありますよね?」
「……」
ひゅっと聞こえたのは彼女が息を呑む音だったのだろうか。
それを確かめる前に、彼女は勢いよく立ち上がり、僕の肩を掴んだ。
日頃からは想像出来ないような俊敏さだ。
「…どこで見たの」
「え、っと…」
見たわけじゃないんですけど、と言う間もなく、彼女にがくがくと体を揺さぶられる。
この反応からすると、本当に傷はあるようだ。
「どこで」
「ええと、ですから、」
気のせいか、彼女の顔が赤くなっているように見える。
おまけにその目が潤んできて、うわ、やりすぎた。
「すみません、泣かないで…」
反射的に、彼女を抱き締めてしまった時だった。
部室のドアが開き、
「あっ…」
と聞きなれた声がしたのは。
見れば、真っ赤な顔をした朝比奈さんが立ちつくしていて、ええとつまり、
「ごっ、ごめんなさい! お邪魔しましたぁ!!」
ばたばたと足音を立てて走り去った彼女に、僕は呆然とするしかなかった。
もしかして、物凄くまずいことをしてしまったんじゃないだろうか。
長門さんも心なしか青褪めていて、
「…どうしたら……」
と呟いている。
僕はとにかく体を離し、首を振った。
今更どうしようもない。
追いかけていって言い訳をする方がよっぽど不自然だろう。
何もなかったという素振りが一番だ。
事実、何があったというほどのことでもないのだから。
しばらくして、朝比奈さんは涼宮さんに見つかったのか、首根っこを捕まえられて部室に連行され、メイドさんを務めることになった。
遅れて彼もやってきて、掃除当番だったのだと短く言った。
そうして、僕らはその日、何の変哲もない、ただのSOS団的活動をして過ごした。
そこには、宇宙人も未来人も超能力者も関係なかった。
ただ僕たちはそれぞれに、いつものようにだらだらと過ごしただけで、でも、そんな、わけの分からない集まりが、どうしてだか、とても心地好いものに思えた。
何か特別なものがあるわけではない。
むしろ、そこに集まっている人々の属性からすると、あまりにも普通すぎる時間の過ごし方だったと思う。
でも僕は、そんな時間が決して嫌いではなく、むしろ、好きだった。
不思議でもない、おかしくもない、ただの平凡な時間が。
それだけに、僕は安心していたのだ。
朝比奈さんの機嫌が低調気味で、様子も少しおかしかったけれど、だからと言って何かあるはずがないと高をくくっていたのかも知れない。
大体、僕はただの人間なんだから、何かどうなったって知るものか、僕には関係ない。
何かあったとして、駆け回るのは僕の役割じゃないはずだ。
ただちょっとまずい誤解をされてしまったように思うけれど、でも、だからって何かあるとは思えない。
大体、何かって言うのはなんだ。
気にするだけ馬鹿げてる。
…そう、自分に言い聞かせながらも、ひしひしと、嫌な予感を感じていた。


夢をみる仕組みなんてものを紐解くと、夢というのは深層心理の現れだとか、あるいは脳が情報を整理しているのだとか言われる。
となると、自分の感じていることや願望が現れても不思議ではない。
でも、そればかりではないと思いたい。
そうじゃないと、こんな夢を見たりした理由がつかないのだから。

「起きてください。…ねえ、お願いです」
どこか心地好く響く女性の声を聞きながらも、口からは意味をなさない呟きしか漏れなかった。
眠い。
ついさっき眠ったばかりのはずでしょう?
まだ起こさないでくださいよ。
「ねえ、起きて、古泉くん」
「んん………え…?」
薄く目を開けた僕は、そのまま目を見開くことになった。
どういう理由かさっぱり分からないが、そこには朝比奈さんがいた。
「あ、朝比奈さん!?」
「よかった、起きてくれて…」
ほっとした様子で呟いている、その目元には涙が滲んで見えた。
「ここは、一体……」
僕の部屋ではなかった。
それどころか、屋内ですらない。
どこかの地面に、僕は寝転がっていたらしい。
しかし、僕はちゃんと自分のベッドで眠ったはずだ。
となると、これもまた夢なのだろうか。
そう思いながらあたりを見回して、気付いた。
ここは、
「……学校…?」
「そう、みたいです…。なんだか分からないけど、気がついたらここにいて……」
「そうだったんですか」
見れば、朝比奈さんは制服姿で、僕もまた制服を着ていた。
どういうことだろう。
「それにしても、暗いですね…」
夜だからか?
いや、何か違う気がした。
薄暗いと言うよりも、灰色に染められた世界。
星空さえ、濁って見えた。
いや、星空じゃない。
ただの空、何もない空間だった。
……ここは、もしかして。
「…朝比奈さん」
「はい…?」
心細そうに僕のブレザーをつまんでいた朝比奈さんが、不安げに僕を見つめる。
「涼宮さんを見ませんでしたか?」
「涼宮さん? いいえ…。どうしてです?」
「いえ、ちょっと、そう思っただけです」
涼宮さんがいないということは違うんだろうか。
でもここは、どう見ても、あの「閉鎖空間」そのもののように思えた。
「古泉くんがいてくれてよかった」
そう言って、朝比奈さんは小さく笑った。
「ずっと、心細かったんです。あたし一人じゃ、きっと動けもしなかったと思います。でも、古泉くんが一緒なら…」
その言葉に、どうして僕は寒気を覚えたんだろう。
その寒気は、一般的に恐怖と呼ばれる感情に、とてもよく似ていた。
「朝比奈さん」
立ち上がりながら、僕は言った。
「他に誰かいないか、探してみましょう」
「え? …う、うん」
戸惑う彼女と共に、校庭を歩いた。
しかし、歩けども歩けども、他の誰とも会わない。
外に出ようとしてみても、まるで見えない何かに弾かれるように、脱出を阻まれる。
「どういうことなんでしょう……」
不安がっているはずの朝比奈さんは、どこか好奇心めいたものに瞳を輝かせているように見えた。
それに釘を刺したかったわけではないのだけれど、僕は思ったままに呟く。
「気味が悪いですね」
「うん…。でも、なんでだろ。あたし、怖くないんです。ひとりじゃないからかな。…普段なら、夜の学校なんて、それだけでも怖いはずなのに……」
それこそ、よくない兆候のように思えた。
「夜の学校が怖いんですか?」
「古泉くんは怖くないの?」
「やはり、不気味だとは思いますが……怖くはありませんね。幽霊が出るとかいうならともかく」
「もしかしたら、って思わない? だからあたしは、結構怖いです」
「朝比奈さんなら、そうかもしれませんね。涼宮さんなら、幽霊が出たら喜んで捕まえに行きそうです」
「そうですね」
と言いながらも、何故だろう。
彼女の瞳がどこか翳ったように思えた。
首を捻りながら、僕たちはとにかく自分の本拠地へと向かった。
つまりは、部室棟にある、我々の部室に入ったというわけだ。
その途中、職員室に忍び込むため窓ガラスを叩き割って侵入した上、部室の鍵を拝借したことについては、緊急事態を理由に、目を瞑っていただきたい。
それにしても、
「誰もいませんね…」
ここにならあるいは、と思ったのだけれど、ダメだったらしい。
「あたし、お茶でもいれますね」
すっかり習慣になってしまっているとでも言うのだろうか。
朝比奈さんはそう言っていそいそと電気ポットのコンセントを刺し、お湯を沸かし始める。
部屋の電気もつくし、どうやら電気は通っているらしい。
蒸し暑いはずなのに、どこか薄寒い中、僕は朝比奈さんがいれてくれたお茶を飲んだ。
暖かいそれにほっとしたのも束の間、
「あたし、ちょっと見てきますね」
と言って立ち上がった朝比奈さんに肝を冷やす。
「見てきますって……朝比奈さん?」
「ごめんなさい。じっとしてられないの。…大丈夫だから」
危ないですよ、と言う間もなく、彼女は部室から飛び出していった。
彼女を追ったものか、と迷っていると、窓の外が赤く光った気がした。
戸惑いながら振り向けば、そこには小さな赤い光が浮かんでおり、最初ピンポン玉くらいの大きさしかなかったはずのそれは、僕の目の前でぐんと大きくなって、赤い人型の光となった。
「やっほー」
という緊張感の欠片もない声は、
「涼宮さん、ですか?」
「あたし以外の誰だと思うわけ?」
これは涼宮さんで間違いないだろう。
「遅かったんですね。それに、どうなさったんです? その姿は…」
「あたしとしても、こんな中途半端な姿で出てくるつもりはなかったんだけど、異常事態だからしょうがないわ」
さらりとこちらをぎょっとさせる言葉を呟いて、赤い光はゆらめいた。
「そう、非常事態よ。あたしも含めて、超能力者の誰も、この空間には入れなかったの。普通なら、難なく入れるのに、よ? こんなの初めてだわ。こんな不完全な形でしか入れないなんて。しかも、仲間みんなの力を借りてやっとこれなの。それも、長くは持たないわ。あたしたちに宿った力が、今にも消え失せようとしてるの」
「どういうことです? ここにいるのは、僕と朝比奈さんだけだとでも?」
「そうよ」
と彼女は言い、
「あたしたちの恐れてたことがついに始ってしまったってことよ。とうとうみくるちゃんは現実世界が嫌になって、新しい世界を創るって決めたみたいね」
「……」
「おかげで、うちの上の方は恐慌状態よ。全く、見苦しいったらないわね。もっとも、神を失ったこっちの世界がどうなるのか、誰にも解らないんだからしょうがないのかもしれないけど、でも、それならそうでどうなろうと受け入れたらいいと思わない?」
「そう出来る人は少数派だと思いますが……。しかし、なんでまた、こんなことになってしまったんでしょうね」
「さあ?」
赤い光はふらふらと揺らぐ。
段々とその揺らぎが大きくなってきているように思えるのは気のせいだろうか。
「ともかく、みくるちゃんと古泉くんはこっちの世界から完全に消えてるの。そこはただの閉鎖空間なんかじゃないわ。みくるちゃんが新しく作った世界なの。もしかしたら、今までの閉鎖空間はその予行演習を兼ねてたのかもね」
「……冗談でしょう?」
「だったらあたしだって喜んで、『ドッキリ』とでも書かれた看板でも用意してあげるわよ。――本当なの。分かってるんでしょ?」
「……」
「その世界は、今までの世界よりみくるちゃんの望むものに近づくはずだわ。あの子が何を望んでいるかまでは、あたしだって、はっきり知ってるわけじゃないけど、どうなるのかは興味があるわね。どうせ、あたしには見せてももらえないんだろうけど」
「そういうことはいいとして、どうして僕がここにいるんです? 僕は何か変わった力を持っているわけではありませんし、彼女の望みを叶えてさしあげられるとも思えません」
「本気で言ってるの?」
せせら笑うように、涼宮さんは言った。
そんな風にすると、やけに酷薄そうな声に聞こえた。
「古泉くんは、みくるちゃんに選ばれたの」
「…前にも、言っておられましたね。僕が彼女に選ばれたのだと」
「そうね。これで信じたでしょ? こっちの世界から、新しい世界に、みくるちゃんが連れて行きたいと思ったのは、古泉くん、あなたひとりだけなんだってことが。本当はとっくに気付いてたんじゃないの?」
涼宮さんの光は段々と明るさを失い始めていた。
ゆらゆらと揺らぐたびに、その光は弱々しくなり、もはや懐中電灯程度にまで弱まっていた。
「そろそろ限界みたいね」
「大丈夫なんですか?」
「あたし? あたしは大丈夫よ。元いた世界に弾き飛ばされるだけ。それに、あなたたちも大丈夫。ま、二人きりで仲良くやったら? アダムとイブみたいに、産めよ増やせよ地に満ちよってことでいいんじゃない?」
「冗談はよしてください」
「あたしも、こんな事態に直面して、ハイになってるのかもね」
謝りはせず、悪びれもしないでそんなことを言った彼女が笑った気がした。
「その世界も、きっといつまでも灰色なわけじゃないわ。きっとそのうち、見慣れた世界になるはず。その時にはみくるちゃんが望むような形へ、なんらかの変化は生じてるだろうけど。そうなっちゃったら、そっちこそ現実で、こっちが閉鎖空間ってことになるのね。どう違うのか、比較出来ないのがほんと残念。でも、もしかしたらあたしたちもそっちに生まれるかもしれないわ。みくるちゃんが、あたしたちのことを少しでも気に入ってくれてたなら、だけど。…その時には、よろしくね」
彼女は、人の形を保てなくなったかのように球体にもどり、それもまたピンポン玉サイズにまで縮みつつあった。
まるで死に行く星のようだ、と思っておいて、縁起でもないと僕は首を振る。
「僕たちはもうそちらには戻れないんですか?」
「みくるちゃんが望めばそういうこともあるんじゃない? でも、望み薄でしょうね。だって、あの子は今、望みを叶えようとしてるんだもの。あたしとしては、みくるちゃんや古泉くんともうちょっと付き合ってみたかったから、これでお別れってのは惜しいんだけど。この力も、失くすには惜しいしね。何より、SOS団の活動は楽しかったわ」
過去形で言われたことに、ずきりと胸が痛んだ。
もう過去のことであり、取り戻せないのだろうか。
歯噛みする僕を前に、
「……ああ、そうだったわ」
何かを思い出したように、彼女は言った。
「有希とキョンから伝言を預かってたのを忘れてたわ」
「伝言…ですか」
「有希からは、謝っておいて欲しいって。『ごめんなさい。私のせい』って。キョンからは、『パソコンの電源を入れろ』。そんじゃね。会えたらまた会いましょ」
そう言って、赤い光は彼女らしくあっさりと消えた。
僕はまず、長門さんからの伝言に首を傾げた。
何で謝る必要があるんだろうか。
彼女が何をしたとも思えないのに。
それとも、僕の知らないところで何かあったのだろうか。
考えながらも、僕は言われた通り、パソコンのスイッチを押した。
しかし、OSがいつまで経っても表示されず、モニターは真っ黒のまま、白いカーソルだけが左端で点滅し続けている。
こんな時に故障でもしたのだろうか。
心配になってきたところで、そのカーソルが音もなく動き、素っ気無く文字を紡いだ。

KYON>みえてるか?

しばし呆然とした後、彼なら何でもありだろうと納得した僕は、キーボードを引き寄せ、いささか乱暴にそれを叩いた。
『ええ』
KYON>そっちの時空間とは今のところ完全には連結を絶たれてない。だが、時間の問題ではある。すぐに閉じられるだろう。そうなれば最後だ。お前らが帰ってくる望みもなくなる。
『どうしたらいい』
数文字分の入力時間も惜しくて、短く問う。
KYON>どうにもならん。こっちの世界じゃ異常な情報噴出は完全に消えちまった。情報統合思念体は失望してる。これで進化の可能性は失われた。
『進化の可能性とは? 彼女のどこが進化だと?』
こんな時でもひっかかっていたことをつい聞いてしまった僕だったのだけれど、彼は素直に答えてくれた。
難しすぎて訳が分からないくらいの気もしたし、重要とも思えない話でもあったけれど、答えてくれたことがなんとなく嬉しかった。
彼も、もう少し話したかったんだろうかなんて思ったほどに。
一通り話した後、カーソルが躊躇うように瞬いた。
なんだろう。
食い入るように見つめる僕の目の前で、カーソルは文字を躍らせる。
KYON>お前に賭ける。
『何を?』
KYON>もう一度こっちに帰って来い。それが俺たちの望みだ。朝比奈さんは重要な観察対象であり、もう二度と宇宙に生まれないかもしれない貴重な存在だ。俺自身、お前には戻ってきてほしいと思ってる。
文字が薄れてきた。
弱々しく、カーソルは妙にゆっくりと文字を浮かび上がらせた。
KYON>また部室でゲームを
モニターは再び沈黙しようとしていた。
暗くなるそれに、とっさに明度を上げてみても無駄だ。
最後に、彼が打ち出した文字が短く、
KYON>sleeping beauty
音を立ててハードディスクが回りだし、僕は飛び上がりそうに驚いた。
アクセスランプが明滅して、ディスプレには見慣れたOSの表示が現れれる。
確かに見えたはずの文字は、幻だったかのように何も残さず消えた。
「…僕にどうしろっていうんですか。あなたも、涼宮さんも」
深い深いため息を吐いて、何気なく窓を振り返った。

青い光以外の何物も見えない、窓がそこにはあった。

中庭には一度見たきりの、しかしながら、一度でも目撃したならば一生忘れることも出来ないだろう青い光の巨人が直立していた。
あまりに距離が近すぎて、ほとんど青い壁だ。
「古泉くん! 何か出ましたぁ!」
飛び込んできた朝比奈さんは笑顔。
それこそ、これまでに見たこともないほど明るくて、はつらつとした笑顔の中心では、きらきらと両の眼が輝いていた。
「ねえ、あれ、なんでしょう? 凄くおっきいけど、怪物なのかなぁ? 幻なんかじゃないですよね?」
興奮しきった声だった。
そこに、恐怖の色は欠片もない。
不安がる様子さえ、残ってはいなかった。
彼女が手放した不安や恐怖の全てを受け取り、更に深めてしまったかのような寒気が、僕の全身を包んでいるとも知らず、彼女は嬉々としてまくし立てる。
「宇宙人? それとも、古代人類が開発した超兵器が蘇ったとか? あたしたちが学校から出られないのも、あれのせいなんでしょうか」
青い壁が身動ぎして、僕はやっと我に返った。
巨人の動きに、以前見た、高層ビルを叩き壊し、暴れ狂うその姿がフラッシュバックする。
僕はとっさに朝比奈さんの手を取ると部屋から飛び出した。
「な、なんで…っ! きゃぁあ!!」
転がるように廊下へ出るなり、轟音が大気を震動させ、僕は彼女を床に押し倒して覆いかぶさった。