とある彼女の憂鬱  第八話



朝倉涼子が海外に転校していなくなったということが僕らに知らされた、その日の話である。
もうひとつの懸案事項が、僕の目の前に吊り下げられた。
丁寧に折りたたまれた和紙の手紙は、元々巻紙だったのだろうと思わせるような癖がかすかにのこっており、墨の匂いも新しい逸品だった。
そんなものが靴箱に放り込まれていたのを見て、怪訝な顔をせずにいられる人間がいたら、代わりにこの手紙を進呈したい。
というか、巻紙より一筆箋の方が似つかわしかったんじゃないだろうか。
何しろ、内容があまりにも少なかった。
『昼休み、部室にて待つ  長門有希』
見惚れるほどの見事な明朝体は筆で記され、正直、書道の授業を思い出した。
一体なんなんだろうか。
靴箱に手紙を入れるというのが都会では流行ってるとでもいうのだろうか。
しかしである。
つい昨日あんな目に遭ったばかりだというのに、そう簡単に誘いに乗っていいものだろうか。
確かにこの達筆さは長門さんのものだと思う。
思いはするけれど、彼女ならもう少し違ったものに伝言を残しそうだった。
たとえばしおりとか。
……それじゃまるで人知れぬ逢引の約束だな。
ともあれ、こんな古風な手紙を未来人が書くだろうか。
分からない、と思いながらも部室に向かうことにしたのは、何かあったら彼もいるだろうというただそれだけの身勝手な安心感による。
何割かの好奇心を抑え切れなかった、とでも言った方がより正確だろうか。
彼女がわざわざ僕を呼び出すということに、興味を引かれた。
くれぐれも言っておくけれど、だからと言ってそれこそ学園ラブコメディーのような突拍子もない超展開を期待したわけではありません。
というわけで、四時限が終わるなり、僕は部室に向かった。
いつも僕が部室棟の一階にある学食を利用しているからか、特に不思議に思われたりはしなかったらしい。
早歩きで部室に向かうと、まだ六月にもなっていないというのに、照りつける陽気に汗が滲んだ。
僕の育った田舎もそりゃ暑かったけれど、この辺りの暑さはまたちょっと違っているように思う。
この調子で暑くなったら、夏が来た頃にはばててしまいそうだ、と少なからず情けないことを思いながら、歩くこと三分足らずで文芸部の部室前に到着した。
とりあえず、マナーとしてノックすると、
「どうぞ」
と確かに長門さんの声がした。
間違いない。
彼女の声を聞く機会は滅多にない、というか、土曜日以来全く聞いていないような気もするけれど、あの日あれだけ聞かされたので十分覚えているつもりだ。
ともあれ、安心して入った僕を迎えたのは、長門さんじゃなかった。
いつも長門さんがそうしているように、窓辺に置いたパイプ椅子に座って本を広げていたのは、一人の女性だった。
長い真っ直ぐの髪を背中に流し、細身の眼鏡をかけたところは、白いブラウスと黒のタイトスカートという服装もあいまって、クール系の女教師っぽく見える。
その人は本を机の上に戻しながら立ち上がり、僕を見て、かすかに微笑した。
「……久しぶり」
長門さんではない。
でも、長門さんに非常によく似ている。
本人じゃないかと思うほどに。
でもそれは長門さんではなかった。
僕のよく知る長門さんはこんなに背が高くないし、こんなに大人っぽい顔もしていない。
眼鏡はシャープな半円形のそれではなく、愛らしい丸眼鏡だし、こういうとあれだけど胸だってここまでのボリュームはない。
大体、長門さんが笑うというのがまず考えられなかった。
…いえ、それも彼女にかけられたプロテクトのせいだと言うことは分かっているんですけど、でも、だからこそあり得ないと思った。
誰ですか、と問うのは簡単だった。
昨日の今日だから、それが厳しい調子になったとしても仕方なかっただろう。
でも、初対面の、それも害意のなさそうな人に対してそれは失礼だろう。
…思いついた。
「長門さんのお姉さん……ですか?」
その人は、面白そうに目を細めたが、声を立てて笑ったりはしなかった。
「私は私。長門有希本人。ただし、あなたの知っている私より、更に未来から来た。…会いたかった」
とんでもなく間の抜けた顔をさらしているだろう僕だったけれど、一応納得もしていたのだ。
何しろ、そう言われれば頷くしかないほど、彼女は長門さんそのものだった。
身長が意外と伸びてはいるものの、長門さんが大人になったらこうなるだろうなという、すらりとした美人。
ただし、胸は予想以上に成長するということだろうか、って、こんなことを考えるのは失礼でした、すみません、長門さん。
「…信用出来ない?」
彼女は困ったように僕を見つめて、それから何か思いついたように、
「証拠を見せる」
と言って、いきなりスカートのホックに指をかけた。
「ええ!?」
面食らう僕を前に、スカートを緩めてしまうと、そのまま少しだけスカートをずり下ろし、右の腰を露にする。
真っ白い肌が目の毒…ってすみません、ちょっとだけど見ちゃいました。
「見て、」
と彼女は見せ付けるように腰を振った。
「ここに稲妻型の傷跡があることは、あなたも知っているはず」
「し、知りませんよそんなの!」
「……え?」
「知りません。なんで知ってると思うんですか!?」
彼女は少し黙り込んで、それからやにわに頬を赤く染めた。
「…しまった」
なんなんだろうか。
「…忘れて」
「ええと……」
「お願い」
そう言われても、とにかく早くスカートとブラウスを戻してもらえないだろうか。
くっきり浮いた腰骨が、ある意味凄く目の毒です。
「分かりましたから。とにかく、忘れましたし、信じます。あなたは長門有希さんです。今の僕は、大抵のことは信じてしまえますから」
「……?」
「いえ、こちらの話です」
また心配そうな顔をしていた長門さんは、僕が居辛そうにしていることにやっと気付いてくれたらしく、慌ててブラウスをスカートの中に戻し、ホックを止め直してくれた。
これで多少は落ち着いて話が出来る。
「…この時間平面にいる私が、未来から来たと言うことを、本当に信じてくれた?」
「ええ、勿論です。……あれ? でもそうしたら、今この時間には二人の長門さんがいらっしゃるということですか?」
「そう。……本来この時間平面に滞在している私は、今、食事中」
彼女もやっぱり食事はするのかと、失礼なことを本気で感心しながら、
「その長門さんは…」
「私が来ていることは知らない」
「…危ないことですよね、それ」
過去に読んだSFなんかが脳裏をよぎる。
「禁則事項」
でしょうね。
まあ多分、実際危険だと言うことなんだろう。
「それなのにどうして、いらっしゃったんです?」
「……伝えたいことがあった」
伝えたいこと?
「あまり時間がない。単刀直入に言う」
そう言って彼女は僕を見つめた。
僕の知るそれより、ずっと生き生きとした瞳で。
そういえば、さっきから話していても普段よりずっと流暢な気がする。
プロテクトがいくらか解除されていると言うことなんだろうか。
そんなことを考えていた僕に、彼女は一言、
「白雪姫」
「………は?」
「知ってる?」
「そりゃ、知ってますけど……」
「これから、あなたは何か困った状況に置かれる。その時は朝比奈みくるも一緒。……そうしたら、その言葉を思い出して」
「はぁ」
なんだそれは、と思いながらも頷くと、彼女は念を押すように言った。
「朝比奈みくるはその状況を困った状況とは考えないかもしれない。でも、我々にとっても、あなたにとっても、それは困ること。詳しくは教えられないけれど……でも、忘れないで」
「……分かりました」
正直さっぱり理解出来ないけれど、単語を思い出すことくらいは出来るだろう。
これ以上聞いて、彼女を困らせないと言うことも。
彼女はふわりと微笑んだ。
「それじゃあ」
と言って出口に向かいかけた彼女は、振り返って、
「最後にもうひとつ。……私とはあまり親しくしない方がいい」
そう言って、かすかなため息。
今度こそドアノブに手をかけた彼女に、僕は声をかける。
「僕もひとつ教えてください」
ぴたりと動きを止めた彼女の背中に、
「…長門さん、今、何歳なんですか?」
彼女は振り返った。
長い髪を綺麗にひるがえして。
そうして、僕が以前目にした時には目の錯覚にしか思えなかった、悪戯っぽい笑みを現実に形にして、
「禁則事項」


何食わぬ顔をしてやってきた放課後。
「古泉くんっ、女の子が消えちゃったって本当ですか!?」
部室にやってきた僕の顔を見るなり息せき切ってそう言った朝比奈さんに、僕は顔を引きつらせた。
どこでそれを、と言いたいのをぐっと堪え、
「朝倉さんのことでしたら、急な事情で転校なさったそうですよ。なんでも、ご両親の都合で海外に行かれたとか……」
「転校、ですか」
呟いた朝比奈さんが黙り込み、そうしてどんどんテンションがローになっていくのを目の当たりにしても、僕にはなんのフォローも出来なかった。
何か不思議なことが起きたのかもしれないと彼女が期待していたのだろうということは想像に難くない。
実際、不思議なことは起きたのだろう。
けれど、それを彼女に言ってはいけないということくらい、僕にも分かった。
彼女はそれでも諦め切れなかったのか、
「でも、こんなに急にって、変ですよね。先生方も、事情がわからないって言ってるんでしょう?」
「え、ええ、そうらしいですけど…」
「やっぱり、変な気がします。ねえ古泉くん、一緒に調べてみてもらえませんか?」
意気込んでそう言った彼女に、彼が申し訳なさそうに言った。
「朝比奈さん、せっかく盛り上がってるところに水を差すようで悪いんですが……」
そろりと手を上げて発言権の行使を求めた彼に、朝比奈さんが不思議そうな目を向けると、彼は器用に眉を寄せながら唇だけで笑って、
「朝倉のことなら、本当にただの転校ですよ」
「え?」
「俺と朝倉は、遠い親戚なんです。マンションも同じなんで、多少なら、事情も聞いてるんですよ。なんでも、ずっと音信普通だった親父さんが、カナダで見つかったとかで、すっ飛んでったんです」
「でも、それだけのことで転校しちゃうんですか…?」
「俺もよく聞けなかったんで、詳しくは知らないんですけどね。多分、あっちで暮らさざるを得ないってことなんじゃないかと。気になるんでしたら、聞いておきましょうか?」
「え? ……ううん、いいです。ありがと、キョンくん」
「どういたしまして」
と笑った彼だったけれど、僕に目を向けると、何かを指し示すように朝比奈さんを見た。
……僕にフォローしろってことか。
と言っても、どうしたらいいのやら。
部室の中には僕と彼、それから朝比奈さんしかいなかった。
涼宮さんはなにやら用事が出来たとかで来てないし、長門さんは掃除当番か何からしい。
彼は椅子から立ち上がると、
「ちょっとコーヒーでも飲んできます」
と言い残して出て行ってしまった。
何とかしろと僕をあの無機質な瞳で見つめて。
残念そうにうつむいた朝比奈さんは、僕と二人きりであるということを自覚しているのかいないのかよく分からないけれど、悲しげに呟いた。
「やっぱり、現実ってつまらないものですね」
「朝比奈さん……」
「不思議だなって思っても、それは一瞬で、すぐに種が知れちゃうんだもの。どうして、不思議なことや面白いことって、あたしの周りじゃ起きてくれないのかなぁ」
そう言って、朝比奈さんは力ない独り言のように尋ねてきた。
「古泉くんは、自分がこの地上でどれほどちっぽけな存在なのか自覚したことって、ありますか」
「…え?」
「あたしはあるんです。…忘れもしません」
小学生の六年生の時の話だと、彼女は語り始めた。
見渡す限りの人波を見つめて、びっしりと蠢く人を見つめて、その数を計算して、自分の小ささを思い知ったのだと。
「自分が特別な存在ではないって、知ったんです。そうしたら、突然、それまで何よりも楽しくて、あたしだけしか味わえないと思っていた日常が、凄く色あせて思えちゃって…。だって、そうでしょう? 雑誌とかテレビを見てたら、あたし以上にもっともっと不思議なことに遭遇している人がいて、あたしの日常なんてありふれた普通の出来事でしかないの。何もかも普通の日常なんだって思ったら、途端に何もかもがつまらなくなっちゃった。そして、世の中にこれだけ人がいるなら、その中にはもっと普通じゃなく面白い人生を送ってる人もいるんだって思ったら、どうしてそれがあたしじゃないんだろうって思ったの。……あたし、変わりたかった。不思議なことを待ってるだけじゃなくて、自分から呼び寄せたいって思ってた。涼宮さんみたいになりたかったんです。でも、…出来なくて……」
ずっとうつむいていたから、彼女の表情は分からない。
でも、多分、泣いているんじゃないだろうかと思った。
それほどに、彼女は悲しそうだった。
僕にはかける言葉もなくて、ただじっと彼女を見つめることしか出来なかった。
全く情けない。
それから僕は結局彼女の気持ちを浮上させることも出来ず、ついでのように彼の謗りの視線を受けながら放課後を過ごすことになってしまった。
自己嫌悪に陥りながら家路を辿り、ようやくマンションに入ろうとした僕の前に、黒塗りのタクシーが止まった。
なんだ。
驚く間もなくドアが開き、中から涼宮さんが姿を見せた。
「今からちょっと来てちょうだい」
どうやら拒否権は発動出来ないらしいと知った僕は大人しく頷いて、その怪しげなタクシーに乗り込んだ。
そのまま連れ去られた先で僕が目撃した非現実的にもほどがある光景については深く語りたくない。
途中、車中で涼宮さんと人間原理そのほかについて語ったのは少々でなく楽しくはあったけれど、それにしたってあれはない。
無茶苦茶だ。

しかしその無茶苦茶な状況の只中に自分がいて、しかもどうやら脱出不可能であるということを、僕はそれから遠からぬ内に知ることとなるのだ。


自称、宇宙人に作られた人造人間。
自称、時をかける少女またはタイムパトロールの女性局員。
自称、超能力船隊の女性リーダー。
それぞれに、自称が取れる証拠を律儀にも提示してくれた。
素性どころか理由も三者三様、それぞれの利害と都合で、三人は朝比奈さんを中心に活動しているようだけれど、それは別にいい。
いえ、よくないといえばよくないんですけど、認めてもいいとは思います。
ただ、さっぱり分からないことがひとつある。
どうして、僕なのかということだ。
宇宙人とか未来人とかそう言う不思議な存在が、朝比奈さんの周りをうようよするのは、涼宮さん曰く、朝比奈さんがそう望んだからであり、彼女が望んだならそれを叶えなくてはならないからだと言う。
じゃあ、僕は?
僕はどうしてこんなことに巻き込まれているのだろうか。
僕は普通の人間だ。
異世界人でもなければ霊能力者でもないし、そもそも言うほど怪奇現象や超常現象に詳しいわけじゃない。
精々、テレビとか雑誌でちょっとかじった程度、よくある程度でしかない。
それなのにどうして、僕はこんなことに巻き込まれ、さも中心人物であるかのように扱われているのだろうか。
そんなポジションなんて、僕には似合いやしないのに。
一瞬、転校してきたあの日、朝比奈さんに声をかけたことを悔やんだ。
理由はともあれ、きっかけの意味での「どうして」になら、僕にだって答えられる。
どうして僕が巻き込まれてしまったのか。


あの日、彼女に出会ってしまったからだ。