とある彼女の憂鬱  第七話



翌日登校した僕は、靴箱を開けるなり目を点にするような事態に遭遇した。
ハサミではなく定規で切り裂いたような丸い断面をしたノートの切れ端。
そこには少し丸みを帯びた文字で、
『放課後誰もいなくなったら、一年九組の教室に来て』
と書いてあった。
これがもし、テレビやなんかと同じ意味だとしたら、それは胸をときめかせたっていい事態の始まりを告げているのだろうけれど、そうではなかったとしたら。
たとえば、田舎でやられた覚えがあるように、悪戯の予告としての意味しかなかったとしたらそのダメージは計り知れないものがある。
そう、どこかひねくれたことを思いながら、それでもどこかしら浮ついた気持ちを抑え切れなかったことを咎める人は多分いないだろう。
本当にそういうイベントだとしたら、と気持ちを弾ませない人はそうそういやしないのだから。
しかし、それにしても一体誰だろう。
こんな風に呼び出されるようなことがあった覚えはないのだけれど。
転校してきてから、誰かとトラブルになった記憶もないし、深く関わったと言えそうなのもSOS団のメンバーの他にいはしない。
そして、SOS団にこういう連絡を寄越す人はいないように思えた。
毎日部室で顔をあわせているわけだし、そもそも性格的にもノートの切れ端というのは合わない気がした。
涼宮さんなら直接呼びつけるだろうし、彼も同じく。
きっといきなり教室に乗り込んでくるか、はたまた登校途中の僕を捕まえて、電光石火の早業でどこかに連れ込み、怒涛の如き情報伝達をしてくれるに違いない。
朝比奈さんなら、たとえただの業務連絡であろうとも、もっと可愛らしい便箋や封筒を選んでくれるように思う。
長門さんがどうするかはちょっと予想がつかないのだけれど、こんな文字は彼女らしからぬ気がしたし、それに確か、図書館でカードを作った時に書類に記入していた彼女の文字は、薄ら寒ささえ覚えそうな綺麗な明朝体だったから違う。
では誰だろう。
そんなことを考えながら黒石を置いた僕に、彼は胡乱げな視線を寄越した。
「何考えてるんだ?」
「いえ、大したことではありませんよ」
「…そうかい。まあ、いい」
言いながら、遠慮なく僕の置いた石を白く染め上げ、ゲームに決着をつけた彼は、
「そろそろ帰るか」
と声をかけた。
今日は全員部室に揃っていたのだけれど、だからと言ってなんということもなく、それぞれに時間を潰して終わった。
朝比奈さんは生真面目にも、涼宮さんに言われた通りのメイド服姿で過ごし、手ずからお茶をいれてくださったばかりか、熱心にお茶の入れ方についての本を読んでいたし、長門さんは見覚えのある図書館のバーコードのついた本を貪るように読み続けていた。
涼宮さんだけは少しばかり退屈そうにネットサーフィンをしていたようだけれど、僕たちが片付け始めると同じく帰り支度を始めたらしい。
そうして、制服に着替えなおすと言う朝比奈さんに別れの挨拶をして部室を出た僕は、そのまま教室に向かった。
今なら、教室に誰もいないだろう。
呼び出した誰かを随分待たせてしまったかもしれないけれど、時間を指定しなかったのが悪いと言うことにしてもらおう。
その誰かが実在するとしての話だけれど。
正直、誰もいないだろうと思っていた。
待たせていたとしたら待たせ過ぎだし、そもそもただのイタズラとしか思えていなかったから。
しかし、案に相違して、待ち人はいた。
それもかなり予想外の人物が、黒板の前に立っていたため、僕は驚かされた。
「遅いよ」
誰かさんを思い出すような言葉を口にした朝倉さんが、僕に向かって笑いかけていた。
いつものことながら、清潔そうな真っ直ぐの髪を揺らして、彼女は教壇から降りた。
教室の中ほどに進んで歩みを止め、片手を後ろに回したまま、もう片方の手で僕を招く。
「入ったら?」
それに誘われ、僕は教室の引き戸に手をかけた状態から復帰し、彼女に近づいた。
「朝倉さん…」
「そ。意外でしょ」
そう言って楽しげに笑う。
その半身はちょっと寒々しくすらある真っ赤な夕日で染まっていた。
「僕に何の用なのかな…」
僕が問うと、彼女は声を上げて笑った。
喉を鳴らすような笑い方は初めて聞くもので、どこか彼女らしくないように思えた。
「用があることは確かなんだけどね。ちょっと訊きたいことがあるの」
思わせぶりに、あるいは肩透かしを食らわせるように言いながら、彼女は僕の前に立った。
真正面に彼女の顔がある。
「人間はさあ、よく『やらなくて後悔するよりも、やって後悔したほうがいい』って言うよね。これ、どう思う?」
「どうって……。よく言われるかどうかがまず分からないけど」
そもそも、「人間は」という表現はなんなんだろうか。
そんなことはあり得ないだろうに、まるで彼女が自分は人間でない別の生き物だと言っているように聞こえる。
彼女が何を言おうとしているのか分からず、戸惑う僕に彼女はもうひとつ問う。
「じゃあさあ、たとえ話なんだけど、現状を維持するままではジリ貧になることは解ってるんだけど、どうすれば良い方向に向かうことが出来るのか解らない時。あなたならどうする?」
「ええと……」
僕の返事など期待していなかったかのように、彼女は話を続けた。
「とりあえず何でもいいから変えてみようと思うんじゃない? どうせ今のままでは何も変わらないんだし」
「そういうこともあるかもしれないけど、それで悪化するってこともあるんじゃ…」
「でしょう?」
やっぱり僕の話を聞く気はないらしい。
それならどうして僕を呼び出したりしたんだろう。
疑問に首を傾げる僕を前に、彼女は手を後ろで組んで、体をわずかに傾けた。
「でもね、上のほうにいる人は頭が固くて、急な変化にはついていけないの。でも現場はそうもしてられない。手をつかねていたらどんどん良くないことになりそうだから。だったらもう現場の独断で強硬に変革を進めちゃってもいいわよね?」
何を言おうとしているのかさっぱり分からない。
やはりドッキリか何かなのだろう。
誰かが隠れているとしたら掃除用具入れか、教卓の中だろうか。
「何も変化しない観察対象に、あたしはもう飽き飽きしてるのね。だから……」
教室の中を見回すのに気をとられていた僕は、あやうく彼女の言葉を聞き漏らすところだった。
「あなたを殺して、朝比奈みくるの出方を見る」
え、と絶句する間さえなかった。
後出に隠されていた彼女の右手が閃き、さっきまで僕の首があった場所を金属の光が薙いだ。
避けられたのはほとんど幸運のおかげだろう。
そうでないなら、散々いたずらを仕掛けてくれた友人たちに感謝してもいい。
教室で友人たちを話しているのと変わらない笑顔で、彼女はナイフを振りかざした。
アーミーナイフ。
殺傷能力が高いそれのフォルム以上に、そんな自宅から持ってくるとかいう以前に、手間とお金をかけて準備しなければならないようなアイテムを用意されていたことにぞっとした。
それほどの計画性を伴うような殺意を抱かれるようなことをしただろうか。
いや、ちょっと待て。
この状況は一体なんなんだ。
どうして僕が彼女にナイフで殺されかけねばならないのか。
「冗談はやめてください」
いつでも逃げ出せるように身構えながら、相手をこれ以上興奮させないように、努めて静かに言った。
しかし、そもそも彼女に興奮している様子はなかった。
笑顔もそのまま、たたずまいも変わりやしない。
「ねえ、冗談なんでしょう?」
そう言いながらも、冗談でないとは思っていた。
本気でなければ、本物のナイフなんて用意するはずがない。
「冗談だと思う?」
思いませんとも。
しかし、あくまで晴れやかに問い返した彼女を見ていると、本気で殺そうとしているようには見えなかった。
そのせいで余計に怖くはあるのだけれど、興奮した相手よりはまだ理性的に行動してくれそうだから、何とか説得できるかも知れない。
「ふーん」
呟きながら、彼女はナイフの背で自分の肩を叩いた。
「死ぬのっていや? 殺されたくない? 私には有機生命体の死の概念がよく理解出来ないけど」
それを聞きながら、どこかで聞いたような言い回しだと思った。
有機生命体なんて、日常用語じゃないだろうに。
「嫌ですね。殺されるにしても、もう少し理解出来る説明をしてもらいたいところです」
時間稼ぎのつもりで口にした僕に、彼女は無邪気そのものの笑みを見せる。
「だめなの。私も悠長にしてはいられないのよ」
「…っ、なんでもいいですから、その危険物をどこかに置いてください!」
「うん、それ無理」
にっこりと微笑んで、彼女はナイフを低く構える。
「だって、あたしは本当にあなたに死んで欲しいのだもの」
ナイフを構えた姿勢のまま、彼女は突っ込んできた。
その速さに目を剥く間などなく、僕はそれをかわし、そのまま教室から逃げ出そうとして――壁にぶつかった。
壁?
……ドアがない。
窓もない。
教室はまるでただの箱になってしまったかのようにつるりとした壁面だけをさらしていた。
あり得ない。
「無駄なの」
背後から近づいてくる、どこか楽しげな声。
「この空間は、あたしの情報制御下にある。脱出路は封鎖した。簡単なこと。この惑星の建造物なんて、ちょっと分子の結合応報をいじってやればすぐに改変出来る。今のこの教室は密室。出ることも入ることも出来ない」
振り返ると夕日すら消えていた。
知らないうちに点灯していた蛍光灯だけがうそ寒く、並んだ机の表面を照らしていた。
「こんな……まさか…」
呆然と呟く僕に、彼女はゆっくりと近づいてくる。
「ねえ、諦めてよ。結果はどうせ同じことになるんだしさあ」
「……何者なんですか、あなたは」
自分の頭がおかしくなったのだろうかとも思いながら、僕は問う。
しかし、これから死ぬ――ということに彼女の中では既に決まっているらしい――相手に馬鹿丁寧に説明をしてくれるつもりはないらしい。
僕はじりじりと机の間を掻き分けるようにして彼女から離れようとした。
しかし、彼女は真っ直ぐに僕へ向かってくる。
これもまた、教室を密室にしたのと同じ方法でなのか、僕の逃げようとする先には机が一団となるのに対して、彼女の前にいた机は飛びのくようにしていなくなる。
そんな追いかけっこが長く続くはずもなく、僕はすぐに教室の端へと追いやられる。
こうなったら、と椅子を持ち上げて思い切り投げつけてみたものの、椅子は彼女の手前で方向転換し、横に飛んで落ちた。
やっぱりだめか。
机が動いたりする段階で望み薄だと思ってはいたけれど、それにしても無茶苦茶だ。
でたらめにも程がある。
「無駄。言ったでしょう。今のこの教室は全てあたしの意のままに動くって」
それでも、と必死で抵抗するのは、彼女がさっき滑らせた言葉が引っかかっていたからだ。
悠長にしてはいられない、と彼女は言った。
その具体的な意味は分からない。
彼女に何かタイムリミットが存在するのか、それとも誰かに気付かれると不味いという意味なのか、はたまた全然違っているのかさえ見当はつかない。
しかし、時間を引き延ばせば引き延ばすだけ、僕に有利になるということではあるのだろう。
だから、無駄かもしれないと思いながら、逃げ道を求めて視線をめぐらせたところで、
「最初からこうしておけばよかった」
と彼女が言い、その言葉だけで、僕は体を動かせなくなっているのを知った。
くそ、こういうことも可能だったか。
手足どころか指一本動かせない状態になる。
視線も動かせないが、彼女が近づいてくるのは分かった。
「あなたが死ねば、必ず朝比奈みくるは何らかのアクションを起こす。多分、大きな情報爆発が観測出来るはず。またとない機会だわ」
情報爆発。
観測。
もしかして、この人は。
「じゃあ、死んで」
彼女がナイフを構える気配がした。
今、僕の唇は動きもしない。
だがもし今、声が出せたなら僕は思い切り怒鳴っていたことだろう。
身内が人殺しをしようとしてるんだから責任とってなんとかしてくれ、とでも。
彼女がナイフを振りかぶる気配がした時、天井をぶち破るような轟音と共に瓦礫の山が降ってきた。
コンクリートの破片が頭に当たる。
痛いなんてもんじゃないけれど、死にはしなかったし、出血もしなかったということは、小さな破片だったということなんだろう。
降り注ぐ破片と撒き散らされる粉塵に、体の表面どころか肺の中まで粉まみれになりそうだ。
しかし、口を閉じようにも体が……動いた。
驚きながら顔を上げ、僕は見た。
自分の首筋に今にも触れようとしているナイフの切っ先と、ナイフの柄を逆手に握って驚きに硬直している朝倉――もう呼び捨てにさせてもらう――。
そして、僕が呼びつけられるものならそうしようと思っていた自称宇宙人が、素手でナイフの刃を握る姿を。
「遅くなったな」
詫びるでなく、ただの事実を報告するように口にしたその一言だけが僕への言葉だったのだろう。
手の平から赤い血を滴らせながら、彼は朝倉を見た。
あの、光もない無感情な瞳で。
「ひとつひとつのプログラムが甘い。天井部分の空間閉鎖も、情報封鎖も甘い。だから俺に気付かれるし、進入も許すんだ。お前はそこまで質が悪かったか?」
「邪魔する気?」
朝倉もまた平然としていた。
「この人間が殺されたら、間違いなく朝比奈みくるは動く。これ以上の情報を得るにはそれしかないのよ」
「お前は俺のバックアップのはずだろ。勝手な真似をせず、俺に従え」
「嫌だと言ったら?」
「情報結合を解除する」
「やってみる? いくらあなたが優秀でも、ここでは私の方が有利よ。この教室は私の情報制御空間」
「情報結合の解除を申請する」
彼女に皆まで言わせず、彼がそう呟くが早いか、彼の握ったナイフの刃がきらめきだした。
そのままさらさらと砂粒のようになって零れ落ちていく。
驚きに顔を染めた朝倉は、ナイフを離していきなり5メートルくらい後ろにジャンプした。
ああ、本当に人間じゃないんだな、この人たちは。
目の前で繰り広げられる光景を、現実のものと受け止めることは出来かねた。
目の前で色を変え、形を変えて歪む空間。
それを凝縮したように、槍状の何かが飛んでくる。
彼がそのとんでもない速さで飛んでくるものを素手で迎撃していることに気付くまで、ずいぶんと時間を要した。
「離れるなよ」
言いながら彼は僕のネクタイを片手で掴んで引き下ろし、僕はしゃがんだ彼の背中に乗しかかるような体勢で膝をつくことになった。
その僕の頭を、見えない何かがかすめて、背後にあった黒板を粉々に叩き潰した。
「この空間では私には勝てないわ」
余裕の笑みを浮かべたまま、彼女はたたずんでいる。
僕は言われるままじっとしているしかなかった。
彼が早口に何かを呟く。
聞き取れないほどの速さのそれだったが、それのもたらした変化もまた理解しかねた。
教室の中はもはやただの空間でさえなかった。
天地も分からなくなる。
「あなたの機能停止のほうが早いわ。そいつを守りながら、いつまでもつかしら」
まるで楽しむように、朝倉は笑った。
「こんなのはどう?」
その瞬間、僕の前に立ちはだかった彼の体が、1ダースほどの茶色の槍に貫かれていた。
どういうことが起きてそうなったのか、理解も出来ない。
ただ、彼が瀕死の重傷を負ったことだけは分かった。
「お前は動くな」
僕が駆け寄ろうとしたのを見て取ってか、彼はそう言った。
その声にも視線にも、変化はない。
ただ平然としているだけだ。
「俺は平気だ」
「とても平気にも見えませんよ…」
一体どうしたら、とうろたえる僕の目に、とんでもないものが目に入った。
笑う朝倉と、輪郭さえぼやけるほどに輝く彼女の両の腕だ。
「それだけダメージを受けたら他の情報に干渉する余裕はないでしょ? じゃ、とどめね。……死になさい」
二倍以上に伸びた腕が、のたくりながら突出した。
それが左右同時に彼の体を貫き、僕の顔に赤くて温かな液体が飛び散る。
噴出した血が、床を真っ赤に染めていく。
それでも彼の表情は変わらなかった。
足さえ床から浮かしたままぽつりと、
「…終わった」
と呟く。
その手が触手染みた朝倉の腕を握った。
しかし、砂粒のようになって消えることもなく、なんの変化も生じない。
「終わったって、何のこと? あなたの三年あまりの人生が?」
勝ち誇ったような口調で言った朝倉に、彼は薄く笑ったのかもしれない。
表情はぴくとも動かなかったけれど、僕はそう思った。
「違う」
その薄い唇が開かれる。
「情報連結解除、開始」
その言葉を引き金に、突如として教室の全てのものが輝いたかと思うと、すぐにあのきらきらした砂になって崩れ落ちていく。
「そんな……」
今度は朝倉が驚愕する番だった。
「確かにお前はとても優秀だった」
体中に刺さった槍、触手、その全てが結晶化して崩れ落ちていくのを見ながら、彼は言った。
「だから、この空間にプログラムを割り込ませるのに今までかかっちまった。だが、もう終わりだ」
「……侵入する前に崩壊因子を仕込んでおいたのね。道理で、あなたにしては弱すぎると思った。あらかじめ攻性情報を使い果たしていたわけね…」
観念したように朝倉は呟いた。
「あーあ、残念。しょせん私はバックアップだったかあ。膠着状態をどうにかするいいチャンスだと思ったのにな」
そう言って、彼女はいつもクラスでそうしているような笑顔をこちらに向けた。
「私の負け。よかったね、延命出来て。でも気をつけてね。情報統合思念体は、この通り、一枚岩じゃない。相反する意識をいくつも持っているの。ま、これは人間も同じみたいだけど。――いつかまた、自分のような急進派が来るかもしれない。あるいは、彼の操り主が意見を変えるかもしれない」
その頃には、朝倉の胸から脚は既に光に包まれて崩れ始めていた。
「それまで、朝比奈さんとお幸せに。じゃあね」
教室でクラスメイトに別れを告げる時のように、彼女は微笑んで、そして、小さな砂場となった。
砂粒はやがて目に見えないほどの小ささにまで分解されていく。
どさりと音がして、僕は慌ててそっちを見た。
彼が床に倒れている。
「大丈夫ですか!? 今、救急車を…」
「要らん」
気だるげに天井を見上げながら、彼は言った。
「肉体の損傷は大したことない。まずこの空間を何とかする方が先だ。…不純物を取り除いて、教室を再構成する」
見る間に、教室が見慣れたそれへと戻る。
壁も机も何もかもが、それこそ何事もなかったかのように元通りになる。
魔法みたいだ、と思った脳裏に、科学と魔法に関する有名な言葉がよみがえったけれど、今はそんなことを考えている場合ではない。
「本当に大丈夫なんですか?」
まだ床に寝ている彼の脇にかがみ込んでそう聞くと、彼はあっさりと頷いた。
確かにどこにも怪我があるように見えなかった。
あれだけ突き刺さっていたんだから、制服も穴だらけだろうと思ったけれど、そんなものはひとつもない。
「処理能力を情報の操作と改変にまわしたからな。このインターフェースの再生は後回しにした。今やってるとこだ」
「手を貸しましょうか」
僕が差し出した手に、案外素直にすがりついてくれた。
なんとか上体を起こしたところで、ふうと短く息を吐く。
「本当に大丈夫です?」
「くどい」
そう言いながらもまだぐらついているらしい彼を抱き起こそうとした時だった。
からりと音を立てて戸が開いた。
と思うとそこには我らがSOS団の団長が立っていた。
「……何やってんの、あんたら」
何って。
「古泉くん、あなたの趣味に口出しするつもりはないけど、押し倒すならせめて場所は選んだら?」
からかうような彼女の言葉に、僕ははっと気がつかされた。
僕は今、彼を抱き起こそうとしていた状態で静止している。
それは見方によっては逆に押し倒そうとしているとも見えなくもないわけで。
「……っ!?」
慌てて飛びのくと、彼が床で頭をぶつけた。
「っ、す、すみません!」
「いや、構わんが…」
よいしょ、と声をかけて立ち上がった彼は、涼宮さんに向かって小さく笑った。
「来たのがお前で助かったな」
「はぁ?」
「観察対象に極力余計な影響は与えたくない」
「……ああ、そういうこと」
涼宮さんは軽く眉を寄せた。
「みくるちゃんが珍しく、さっさと帰らずにうろうろしてると思ったら、誰か何か仕掛けてきたってわけね?」
「身内の恥をさらすようで悪いが、ちょっとな」
「また今度、ちゃんと情報は流してちょうだい。そっちのいいようにしたんでいいから」
そう言いながら涼宮さんは近くの机に無造作に手を突っ込んだ。
中から引っ張り出されたのは、折り畳み傘、だろうか。
「みくるちゃんのよ」
僕の疑問に答えるように、彼女は言った。
「なくなっちゃって困った、って言ってあちこち捜し歩いてたのを見つけたから、あたしが探してあげるって引き受けて来たの。あたしの勘も大したものね」
得意げに笑った彼女に、
「お前が誘導に乗ってくれて助かった」
と彼が言う。
「何? あんたが仕組んだの?」
と言う彼女はちょっとでなく面白くなさそうだ。
「ちょっとな。正直、余力がなかったから助かった」
「そ。まあなんでもいいわ。後で全部白状しなさいよ」
「可能な範囲でな」
まずはあれこれ片付けなきゃな、と面倒そうに彼は呟いていた。
何が起きているのか僕にもよく理解出来ない。
「可能なら、僕にも事情を教えてください」
と言いはしたものの、本当に理解出来るとは思えなかった。
それを見透かしたのだろうか、彼と涼宮さんは顔を見合わせて、
「…まあ、少しなら」
「あんまりお勧めしないわよ。説明ってなると、こいつ本当に役立たずだから」
「うるさい。誰にだって向き不向きってもんがあるんだろ」
「はいはい」
「…とりあえず、ここでやるべきことはもうないから、帰るぞ、古泉」
「あ…、……はい」
大人しくそれに従いながらも、僕は混乱状態から抜け出せずにいた。
よく考えるまでもなく、僕はとんでもない経験をしてしまったようだ。
先日、彼が延々と語った電波話、妄想を信じるとか信じないとか言う段階すら突き抜けた気がする。
何せ、実際に体験してしまったのだから。
本当にどのようなやりとりがあったのか、僕には分からない。
おそらく、あの表面上のものよりも水面下での激しい攻防の方がメインだったのだろうと思いはするけれど、想像すらそこで力尽きる。
彼が助けてくれなければ、いなくなっていたのは朝倉ではなく僕の方だっただろう。
このようなSFか何かのような状況になることを期待しなかったわけじゃない。
むしろ、面白がりたい気持ちだってある。
でも、こんなのは困る。
現実に起こってしまうと恐ろしさだとかどうしたらいいのか分からないという混乱の方が先に立つ。
また命を狙われるとしたら特に、ご遠慮願いたい。
誰か変わってくれと言いたくなるほどだ。
一体どうしたらいいのだろう。
そう思いながら、僕は言葉もなく、それこそ操り人形か何かのように、彼と涼宮さんについて教室を出、正門を出た。
坂を下り始めてもまだ黙り込んでいる僕に、彼が言う。
「大丈夫か?」
「え、ええ、一応……」
「………」
涼宮さんはというと、
「放っといてあげなさいよ。考えを整理でもしなきゃやってられないわ」
「そうなのか?」
「そうなの。相手は曲りなりにもただの人間よ? あんたと一緒にするんじゃないわ」
「…分かった」
黙り込んだ彼に、なんとなく申し訳ない気がした僕は、慌てて声をかけた。
「あの、」
「なんだ? 黙ってた方がいいんじゃなかったのか?」
「いえ、その……」
何を言ったらいいのか、と思いかけて、僕は自分が大事なことを言い忘れていたことに気がついた。
「あの、ありがとうございました」
「……は?」
「助けてくれて、ありがとうございます。あなたがいなければ、僕はここにいられなかったでしょうから」
「……別に、礼を言われることじゃない。俺のバックアップが暴走したのは、俺の監督不行き届きのせいだからな」
「それでも、です。…ありがとうございました」
答え方が分からないとでも言うのか、彼はそれきり黙り込んでしまった。
やっぱり、変なことを言ってしまったんだろうか。
しかし、涼宮さんは楽しげにくすりと笑った。
「キョン、照れてないでどういたしましてとでも言えば?」
「別に照れてない」
「あっそ」
けれど彼は僕の方を向いたかと思うと、ぎこちない笑みの形にした顔で、
「…どういたしまして」
と素直に言った。
僕は小さく笑って、
「はい。ありがとうございました」
と返した。

翌日、当然のように、クラスに朝倉涼子の姿はなかった。