とある彼女の憂鬱  第四話



翌日の放課後。
健気にも一日きりの欠席で復活していた朝比奈さんを、ついまじまじと見てしまったのは、昨日の彼の話がまだ頭に残っていたからだ。
「あの…どうかしましたか?」
朝比奈さんは心配そうに僕を見た。
「いえ、なんでもないんですけど、」
僕はそう返しながら、今日持ってきたものの存在を思い出した。
「オセロを持ってきてみたので、一緒にしませんか?」
「オセロ……ですか?」
「はい。これなら、誰か出来る方がいらっしゃるかと思いまして」
「そうですね、あたしでも分かりますし」
と微笑んだ朝比奈さんは本当に天使のように愛らしい。
「じゃあ、やりましょう。暇つぶしとしてでも」
「はい」
頷いてくれた朝比奈さんと向かい合わせに座って、オセロを始めたのはよかったのだけれど、途中でちょっとした異変が起きた。
いつもなら僕のすることになんてお構いなしで、マイペースに時間を潰すはずの彼が、読んでいたはずの雑誌を膝において、じっとこっちを見つめてきたのだ。
何か用事があるのかと思ったけれど、そうではなかったらしく、ひたすらに僕たちを……正確に言うと、僕たちの手元にあるオセロを見つめている。
「あの、」
居心地が悪くなるほどに、注ぎ込まれ続ける視線に耐えかねて、僕は顔を上げ、いくらかぎこちない愛想笑いと共に尋ねた。
「オセロに興味がおありですか?」
「……ちょっとな」
と頷いた彼は、
「こういうのは、一人じゃ出来ないだろ?」
だからしたことがないと言わんばかりに呟き、昨日の発言は冗談でも夢でもないと念を押した。
そんなことをされても、信じられないことに変わりはない。
むしろ、からかわれているだけなのだろうとしか思えない。
彼なら、手間や時間のかかった冗談だって言いそうだし。
ともあれ、興味があるなら悪いことじゃないと思うので、
「…やってみます?」
僕が聞くと、彼は迷うように朝比奈さんを見た。
邪魔をしては悪いとでも思ったんだろうか。
朝比奈さんもそれを察した様子で、
「あたしはいいですよ」
と言って腰を上げ、
「やったことないんだったら、やり方を教えてあげますね」
と彼を呼び寄せ、椅子に座らせた。
「すみません、朝比奈さん」
申し訳なさそうに言いながらも、彼はどこか楽しげである。
本当に、やったことがないんだろうか。
その目が、思わず笑ってしまいそうになるほど真剣に、緑色をした盤面に注がれる。
朝比奈さんは、時々言葉選びに苦労しながらもなんとか彼にルール説明をしているがどうも難しいらしい。
彼の方の飲み込みがよかったからいいものの、そうでなければおそらく理解出来なかったことだろう。
「じゃあ、ちょっとやってみましょうか」
説明が終ったところで僕が声を掛けると、彼は頷いて、
「手抜きするなよ?」
と言った。
それから、僕たちはたらたらとオセロをしたのだけれど、僕はあっさり惨敗してしまった。
それも、手詰まりになって終わるという、物凄い負けっぷりだ。
「お前、弱すぎるだろ…」
と呟く彼の声も、咎めるというよりむしろ呆れた調子になっているので余計に居た堪れない。
「すみません…」
「わざわざこんなのを持ってきたってことは得意なんじゃなかったのか?」
「いえ…、昔から下手の横好きで……」
「他にはないのか?」
「他に?」
「こういうゲームの類だ」
「僕は持ち合わせてません」
というか、そんなに色々買ったって仕方ない状況だったのだ。
友達とするなら、友達が持っているものを買っても仕方なかったし、そして、僕に付き合ってくれる友人はそれぞれに、得意のゲームを持っていたりしたのだ。
五目並べとかトランプとか将棋とかバックギャモンとか人生ゲームとかモノポリとか麻雀紛いのゲームとか。
「…もう一回だ」
そう言って彼は改めて石を並べ始めた。
お気に召したと言うことなんだろうか。
首を傾げていると、
「やっほー! みんな来てるわね!」
と涼宮さんが登場した。
反射的にだろう、びくんと体を竦ませ、早くも涙目になりかかった朝比奈さんに対しては、
「みくるちゃんも今日はちゃんと来たのね。感心感心っ」
と言うに留めた。
今日は何事もないと言うことだろうか。
それとも、やはり何か企んでいるのだろうか。
びくつく僕らをよそに、涼宮さんはテーブルに広げられたオセロを見ると、
「キョン、あんたボードゲームなんてするの?」
「今日のこれが生まれて初めてだ」
「あんたのことだからそうでしょうね」
彼のことをよく知っているらしい彼女らしくそう呟いた後、彼女はまるで年の離れた弟を心配するような優しい調子で、
「で、気に入ったわけ?」
と聞いた。
それに対する返事は、
「興味深い」
という、今ひとつピントがずれているような気がするものだったけれど、涼宮さんには十分だったらしい。
「あっそ」
素っ気無く返しながらも楽しげに目を細めた。
「ああそうだ、ハルヒ」
団長席に陣取った彼女に、盤面から顔を上げた彼が声を掛けた。
「何よ」
「生徒会に、新しい同好会を作る申請書を出さなきゃならんから書けって言っただろ」
「まだ書いてなかったの?」
「お前な、午後の休み時間に言われたことがもう終わってると思うなよ」
「オセロなんてして遊んでるからてっきり終わってると思ったのよ」
「書ける範囲は書いてある。が、ちょっと分からんところがあってな」
「はぁ?」
本気で馬鹿にしているような調子の声を上げた涼宮さん相手に、彼は嫌そうな顔ではなく、どこか面白がるような声で言った。
「このSOS団とやらの目標と活動内容を教えてもらいたいんだが?」
その質問に、涼宮さんは薄く笑った。
なんていうか、どこかの悪役のような笑顔である。
「そんなの、決まってるでしょ」
すっくと立ち上がった彼女が、不安定な事務椅子の上に器用に飛び乗り、
「SOS団の活動内容、それは、」
すぅっと大きく息を吸い、そのまま台詞を溜めに溜める。
それこそ、何を言っていたのか忘れそうなほど長い溜めの末、彼女は高らかに宣言した。
「宇宙人や未来人や異世界人を探し出して一緒に遊ぶことよ!」
一瞬呆然としたものの、なんとなく納得してしまったのは、彼女が入学して一発目にやらかしたという自己紹介の噂を、転校生の僕すら聞き及んでいたからだろう。
そしてやっぱり、超能力者が入っていないことが気になったので、
「超能力者はいいんですか?」
と聞いてみると、涼宮さんはにやっと笑って、
「そうね、SOS団としてはそれも外しちゃいけないわ」
と言った。
どういう意味だろう。
ちなみに僕以外の各人の反応はと言えば、朝比奈さんはびっくりした様子で目と口をそれぞれ真ん丸く開いており、そんな顔でさえ愛らしいことこの上なかったし、彼は彼らしくため息混じりに首を振っていた。
僕が特に気になるような反応を示したのは長門さんで、いつもなら何事にも動じない様子で読書を続けているはずの彼女が本から顔を上げ、涼宮さんを見つめているのには少なからず驚かされた。
何かひっかかるものでもあったのだろうか。
宇宙人と言えば、と僕は彼に目を向けた。
自称宇宙人は僕の視線に気付いても、特になんのリアクションも寄越さず、取り出していた申請用紙を困ったように見つめるばかりだ。
あれを直接書くのはためらわれると言うことなんだろう。
本気で申請するつもりがあるとしたら、だけれど。
しかし、それにしても涼宮さんは面白い人である。
同じようなことなら僕だってずっと思っていた。
でも、思ったからと言って口に出来るものでもないはずだ。
冗談交じりに口にすることさえ躊躇われるのは、そんなことはあり得ないと僕たちは既に知ってしまっているからなのだろう。
それなのに、こんな風に堂々と主張出来るなんて。
「いっそ羨ましいですよ」
と僕が言ったのは、帰り道の途中、朝比奈さんに対してだった。
「驚きましたね。本気であんなことを言えるなんて……」
と感心しきりの朝比奈さんに、
「思っててもなかなか言えませんよね」
そう同意を示せば、彼女は心強そうに微笑んで頷いた。
それに目を細めながら、僕は言う。
「朝比奈さんも、せっかくですから楽しみませんか?」
「…え?」
驚いたように顔を上げた彼女に、僕はいくらか慌てつつ、
「いえ、セクハラまがいのことをされてしまっている朝比奈さんは嫌かも知れませんが、こんな機会、滅多にないと思うんです。涼宮さんのような人と出会うことも、こんな風にして集まれることも。朝比奈さんも、超常現象などに興味があるんですよね?」
「う、うん…そうですけど……」
「だったら、一緒に楽しんでしまいませんか。本当に超常現象に遭遇したり、未来人や宇宙人や超能力者と出会うことは難しいかもしれません。でも、そうでなくても楽しいことをしてくれそうだと、涼宮さんを見ていると思うんです」
「……そうですね」
と朝比奈さんは頷いてくれた。
「涼宮さんなら、って、あたしも思います」
「僕たちはまだ高校生なんです。少しくらい羽目を外して楽しんでもいいと思いませんか?」
「…そうですね」
今度こそ、朝比奈さんは笑顔になってくれた。
しかしそれをいくらか翳らせ、心配そうな顔をした朝比奈さんは、縋るような上目遣いで僕を見つめ、
「でも、あんまり酷いことをされそうになったら……古泉くん、助けてくれますか?」
「任せてください」
軽く請け負ってしまったのはやはり、朝比奈さんの上目遣い効果によるものだとしか思えない。
あの瞳でお願いされては、逆らえる人間はそうそういやしないだろう。
「全力を尽くしますよ」
「うふ、お願いしますね」
「お願いされました」
顔を見合わせて小さく笑いあっていると、まるで朝比奈さんとお付き合いでもしているようで、この状況を誰かに写真に撮ってもらって、田舎の悪友たちに見せびらかしてやりたいような気持ちになった。

あくる日、珍しくも早々にホームルームが終わり、他に用事もなかったので、僕は急ぎ足で部室に向かっていた。
たまには他の誰よりも――というか、彼よりも――早く部室に行ってみたかったのだ。
ところがである、開いたドアの中には既に彼と長門さんがいて、思わず脱力した。
「遅い」
とこれまた決まり文句となりつつある言葉を投げつけられる。
「あなたたちが早すぎるんですよ…! たった今、終業のチャイムが鳴ったところですよ!?」
と反論すると、彼は黙ったまま何も答えない。
「…ちゃんと授業は受けてるんでしょうね?」
「受けてるとも。なあ、長門」
同意を求められても、長門さんは小さく頷くだけだ。
ため息を吐きながら僕は自分の席に座り、彼と向き合った。
既にオセロを広げていた彼と、特に会話もないままオセロに突入する。
時々飛んでくる言葉と言えば、下手だのもっとよく考えろだのといった類のものだけである。
どうせならもう少し優しく指導してください。
「甘ったれるな」
とどこまでも彼は手厳しい。
脱力に加えて、敗北感で打ちひしがれそうになりかかっていると、朝比奈さんと涼宮さんが一緒にやって来た。
「今日は一緒にいらしたんですね」
と僕が言うと、涼宮さんは満面の笑みを見せて、
「あたしがみくるちゃんを迎えに行ってあげたのよ」
……ええと、手に提げた大きな紙袋もあいまって、非常に嫌な予感がするんですけど。
「さあみくるちゃん!」
がっしりと肩を掴まれた朝比奈さんは、さながら怯える小動物のようである。
「ひゃいっ」
辛うじて返事をしたものの、裏返った声が愛らしい。
「新しい衣装を持ってきてあげたわ。今すぐ着替えましょ!」
「ひっ、い、衣装ですかぁ!?」
「さっさと脱ぎなさい! 脱がないんだったらあたしが脱がせてあげるから」
「ひえぇぇぇ!!」
呆然としている僕らの目の前で、涼宮さんが朝比奈さんの制服に手をかける。
なんとか止めなくては、と思ったのは、朝比奈さんと交わした昨日の約束を思い出したからだ。
しかしながら、相手は涼宮さんである。
反抗するにも気合がいる。
その気合を何とか溜めて、
「っ、す、涼宮さん!」
と叫んだ時には、朝比奈さんの制服の下に隠れていたピンク色のフリルとリボンが目に入った。
「いやあああ!! みっ、見ないでぇ!!」
「すっ、すみませんでした!」
慌てて飛び出した廊下では、彼が窓にもたれるような格好で悠然と立っており、
「遅い」
と本日二度目の言葉を頂戴した。
……ううう。
僕が自己嫌悪に陥っている間も、部室の中からはなにやら騒々しい声が響いてきている。
「ほらほらっ、早くしなさいよ!」
「ひえぇ!」
「うりゃうりゃっ」
「きゃあああ!!」
「もうっ、邪魔臭いんだから」
「せ、せめて自分で…っ、いやぁ!!」
……何をしているんだろうか。
いや、着替えだとは分かってるんですけどね。
…居た堪れないんで逃げていいですか。
「逃げるな」
と彼に一睨みされた。
「それに、もうそろそろ片付くだろ」
その言葉通り、騒ぎが収まったかと思うと、最上級に上機嫌な顔をした涼宮さんが顔を出し、
「もう入っていいわよ」
一体何が待ち受けているのだろうかと、いろんな意味で不整脈になりそうな心臓を抑えつつ部室に足を踏み入れ、そしてこれは平凡な男子高校生としては当然だと思うのだけれど、絶句した。
メイドさんがいた。
エプロンドレスに身を包んだ朝比奈さんは、今にも泣き出しそうな顔で僕を見つめ、そして恥ずかしそうに目を伏せた。
酷い目に遭わされ、そして今も恥ずかしくて堪らないのだろう朝比奈さんには悪いのだけれど、すみません、物凄く可愛らしいです。
常でさえ、清楚さと危なっかしさの同居する朝比奈さんが、慎ましやかでありながらどこか挑発的でさえあるメイド服姿になるとこれほどまでに破壊力が上がるものかと、目眩のようなものを感じる僕の横で、彼はなんともなさそうな顔をしていた。
…本当にこの人は宇宙人なのかもしれない、なんて思ったほどだ。
「どう、可愛いでしょう」
と涼宮さんが得意げに言ったのに対して、彼は平然と、
「まあ、それはいいとして」
よくありません、という朝比奈さんの小声での抗議すら無視して、彼は涼宮さんに言う。
「何でメイドの格好をさせる必要があるんだ?」
「やっぱり萌えと言ったらメイドでしょ」
…なんかまた意味さえ分からないことを言い出してしまったぞ。
「そういうものなのか?」
絶対違うと思うんで、
「そうよ」
なんて涼宮さんの主張を素直に信じないでください。
「これでもあたしはけっこう考えたのよ」
涼宮さんは得意げに言った。
「学校を舞台にした物語にはね、こういう萌えキャラが一人は必ずいるものなのよ。言い換えれば萌えキャラのあるところに物語は発生するの。これはもはや必然と言っていいわね」
などと語る涼宮さんに気付かれないよう、僕はそっと朝比奈さんに尋ねた。
「大丈夫ですか?」
「古泉くん……」
うるうると瞳を震わせる朝比奈さんは、無防備極まりない。
僕だって普通の男子高校生なんだって分かってます?
少しでも警戒してもらおうと、僕は下心半分みたいな気持ちで、
「でも、本当に可愛らしいですね」
と言ってみた。
一瞬、驚きに目を見開いた彼女の顔が、かぁっと赤く染まる。
うん、可愛い。
そんな風に調子に乗って朝比奈さんと見詰め合っていたからだろうか。
「古泉くん! みくるちゃんを独り占めなんてしてたらあたしが許さないわよ! ほらっ、写真撮るんだからどいてどいて!!」
と涼宮さんに蹴り飛ばされそうになった。