夏幻の月
  5.変化の九月



結果的に、僕が苦労することはまるでなかったまま、彼の功績により僕たちは無事にループを脱した。
そのせいか、彼は非常に疲れてしまった様子だったけれど、僕はまだ疲れて倒れるような真似をするわけにはいかない。
ここからが、僕にとっては本番だからだ。
彼女の本体とやらも、宿題の追い込みにかかっていたのか、8月31日は深夜になっても彼女はやって来なかった。
その代わりのように、今日、9月1日は比較的早い時間にやってきた。
「こんばんは」
夕食時に現れた彼女は、照れ臭そうに笑って、
「早過ぎたかな? ごめんね」
と言ったけれど、
「謝らなくていいですよ」
小さく頷いた彼女は、僕を見つめて微笑み、
「…ループ脱出おめでとう」
「あなたこそ、お疲れ様でした。…おめでとうございます」
僕がそう言うと、彼女は複雑そうな顔になった。
まだ、あのループに続いて欲しかったのだろうか。
「ううん、そうじゃないよ。あたしだって、そろそろなんとかしてって思ってたから、丁度よかったとは思う。思うけど……でも、終っちゃうと、惜しくなるものじゃない?」
「…そうかもしれませんね」
そう答えた僕は、手早く食事を終えると、いつもならよっぽど疲れ果ててでもいない限り、さっさと洗うはずの食器を流しに置いて、ソファに座った。
彼女に紅茶を出す間もなく、彼女を座らせて、正面から言った。
「もうずっと思っていましたが、もう、我慢出来ません。言わせてください」
「なに…?」
不安そうに揺らぐ綺麗な瞳を見つめて、僕は告げた。
「あなたに会いたいんです」
「…今、会ってるでしょ」
意味が通じなかったわけではないだろうに、彼女は誤魔化すようにそう呟き、目をそらした。
でも、このまま逃がしたくはなくて、僕は彼女の顔を覗き込むようにして、
「本当のあなたに、です」
彼女は不機嫌な声で低く呟くように、
「……無理だよ」
「どうしてです?」
「本当にあたしのことなんて、好きになってもらえない。どうあっても、好きになれないよ…。それどころか…、あたしの正体をお前が知ったら、きっと、このあたしのことまで、き、嫌いに、なる、に、決まってるから……」
「なりません」
「なる…っ!」
そう言った彼女が、涙をこぼす。
泣かせたいわけじゃなかったのに、また泣かせてしまった。
でも、これもきっと、今のこの不安定で不確かな関係のせいなんだろう。
「泣かないでください」
彼女に触れることも出来ない以上、僕にはそう言うしか出来ず、涙を拭うことはおろか、受け止めることさえ出来ない。
そんな風に限界を感じるたびに、思うのだ。
やっぱり、会いたいと。
彼女に触れたい、と。
「前にも言ったけど、あたしは本体とお前の理想で出来てるんだよ? 見た目はお前の理想を映し出してるだけだし、話し方なんかは本体の理想――自分が、こうだったらいいのにっていう、願望でしかないの。だから、本体はあたしと似ても似つかない。全くの別人みたいなものなの。おまけに本体には、無意識でしかないあたしとしての記憶なんてないんだもん。会ったって、しょうがないよ……」
「でも、最初に僕に会いに来てくれた気持ちは? あなたが本体と呼んでいる表層意識にも共通する気持ちなんでしょう?」
「そう…だけど……」
それが何かと問うような彼女に、僕は精一杯の微笑を見せた。
「僕のことを心配して、労わりに来てくださったんですよね?」
「う、うん…」
「その後、通ってきてくださったのも」
「そうだよ。…最初は、本当にそれだけだったの。ただ、お前のことが心配で、でも、本当のあたしじゃ、お前に声を掛けたって、お前を不機嫌にさせることしか出来ないって分かってたから、お前に嫌な思いをさせることなく、声を掛けたかっただけで…」
「その気持ちだけで、それが本物ってだけで、十分です。僕の知るあなたのうち、どれだけ大きな部分が作り物の、本物のあなたとは食い違う部分であっても、構いません。…あなたに、会いたいんです」
「…っ、」
彼女は、またぼろりと大粒の涙をこぼした。
溢れた雫は、ソファに吸い込まれることもなく、中空で消えていく。
「あ、あたしだって、お前が本当に受け入れてくれるなら、本物のあたしとして、お前に会いたいよ…! 会って、触れたい。触って欲しい。ちゃんと、愛し合いたい。見てるだけ、しゃべるだけなんて、全然足りないよ…! 足りて、ない…っ……」
感極まったように、彼女が僕に向かって手を差し出す。
その手を取ることも出来ない。
悔しそうな顔をして、彼女は僕に顔を近づけてきた。
本当なら触れ合うほど近づいても、視覚以外には何も感じられず、唇が触れ合うことも、鼻先がぶつかることもない。
それが酷く切なくて、悲しくて、僕まで泣きたいような気持ちになりながら、
「本物のあなたがどんな人であれ、きっと僕は好きになります。僕はまだまだ未熟な人間ですから、戸惑ったりしてしまうかもしれませんけど、でも、きっと、あなたと出会った後のように、少しずつでも言葉を交わせば、間違いなく、僕は改めてあなたと恋に落ちますよ」
そう断言すると、彼女は泣きじゃくりながら頷いてくれた。
「…そんなに泣かないでください」
「…だい、じょぶ…っ……。嬉し涙、だから……」
そう言って笑いながら、彼女は泣き続けた。
泣きながら、
「好きだよ」
と何度も繰り返した。
「愛してる。お前が、好き」
「僕も、あなたを愛してます。あなたが好きです」
「本当に、本物のあたしのことも、愛してくれる? 好きになってくれる?」
「はい。約束します」
「大好き…っ、大好きだよ…!」
泣きじゃくりすぎて、段々と泣き喚くようにさえなりながら、彼女は側にいてくれた。
いつもなら、少し都合が悪くなったり、あまりに感情が揺れたりするとすぐに消えてしまったはずなのに、離れずにいてくれた。
僕も、彼女の泣き声を、不快だなんて欠片も思わず、耳を傾け続け、頷き続けた。
「好きって、言って。何度も、言い、聞かせて…っ! 今ここに、いる、あたしだけじゃ、なくって、本物のあたしにも、届くくらい、何度も、言って…」
ねだられるままに、僕は心を込めて囁き続けた。
「好きです。あなたが好きです。あなたに会いたい。触れたい。あなたを抱き締めたいです。あなたが泣いていたら、あなたの涙を拭わせてほしい。あなたと一緒にいたいんです。一日中だって、いえ、一生を共に過ごしたい。それくらい、あなたが好きです。愛してます。愛してるんです…」
届いてほしいと、願いながら、祈りながら、ひたすらに。

そんな調子でほとんど一晩過ごした結果、僕は眠い目を擦りながら登校することになった。
彼女のためだと思えば一晩の徹夜くらいどうってことはないとは思いながらも、31日の宿題地獄が祟ってか、流石に少しばかり体が重かった。
いつもよりいくらか遅い時間に通学路を歩いていると、彼の姿が見えたので、
「おはようございます」
と声を掛けて、一瞬、驚きのあまり硬直した。
それくらい、彼は酷い顔だった。
目は真っ赤に充血し、目の周りもぐしゃぐしゃになってしまっている。
まるで、一晩泣き明かしでもしたかのように。
「どうしたんです? 何かあったんですか?」
思わずそう聞くと、彼は恥かしいのか、顔を赤らめながら、
「分からん。目が覚めたらこんなことになってた」
とため息を吐いた。
その言葉に、どきりとさせられる。
それはつまり、眠っている間に泣いてしまったということだろう。
……そんな、まさか…。
「……あの、」
殊更に耳元へ唇を近づけて囁くと、彼がびくりと竦みあがった。
その顔が、驚くほどに、赤い。
「なっ、なんだいきなり!」
「…いえ……。ただ、本当に大丈夫なのかと思いまして…」
「大丈夫だろ、これくらい」
そうぶっきらぼうに言いながらも、彼は僕から離れようとはしなかった。
歩みを緩めることも、速めることもしないまま、いくらか近すぎるほどの距離を保ち続ける。
……本当に、彼、が、彼女、なのか…?
戸惑ったのは、彼の普段の態度が彼女とはあまりにも懸け離れているからだ。
僕は、勿論自分の言動のせいだと言うことは分かっているけれど、彼に嫌われているはずだから、そんなことはありえないと思うのに、赤くなって目をそらす彼の、その目の角度が、彼女とあまりに似通っているように思えた。
思い返せば、彼女が口を滑らせ、あるいはヒントとして与えてくれた情報に、彼は合致するんじゃないか?
彼に心配されて、声を掛けられたら、僕はどんな反応をしただろう。
特に、出会ってまだそれほど間もないあの頃なら、彼女と出会った頃なら、僕にもまだ余裕がなくて、きっと、彼のことを彼自身ではなくて、涼宮さんの鍵という風にしか見れてなかったはずだ。
それならきっと僕は、迷惑がっただろうし、僕ではなく涼宮さんのことを考えて欲しいくらいのことは言ったかもしれない。
少なくとも、素直に喜ぶことは出来なかったのは間違いない。
彼女は、閉鎖空間のことも知っているようだった。
それどころか、SOS団のほかのメンバーのことを分かっているような節もあったように思える。
それに、あのループを終らせることになった、彼のあのアイディア。
あれもまた、彼女と話したことじゃなかったか?
天体観測の日、彼女が消えるのと同時に彼は目を覚ました。
その前に、僕が冗談で彼女を傷つけてしまったあの言葉を、確かに聞いていたのは彼一人きりだ。
目を覚ました彼の目元が濡れていたのが、欠伸のせいじゃなかったとしたら?
そして、今日のこの反応。
一晩中囁き続けた言葉が、彼の表層意識に影響を与えるまでに響いたのだとしたら。
「古泉? お前こそ、顔が赤いぞ?」
怪訝な顔をする彼に、僕は更に顔を赤くしながら、
「いえ、なんでもないです。気にしないでください」
と反射的に言ってしまったけれど、その瞬間、彼が不機嫌に眉を寄せ、顔を背けたのを見て失敗したと分かった。
僕がこんな風に、彼に対してごまかしを続けるから、こんな複雑な事態を招いてしまったと推測されているというのに、本当に僕は反省が足りない。
悔やみながら、僕は今晩彼女に確かめようと決めた。
そうして、待ち侘びた夜の9時過ぎ。
ふわりと今日もやってきてくれた彼女は、嬉しそうに微笑んでいた。
「届いたよ…っ! ちゃんと、届いた…!」
「やっぱり、彼があなただったんですね」
「うん」
にっこりと笑って頷いた彼女だったけれど、はっとした様子で笑顔を引っ込めたかと思うと、落ち込んだように、
「…でも、やっぱり、嫌い? 本物のあたしのことは……」
「嫌いだったら、こんなことになると思います?」
僕は笑いながら彼女を鏡の前に連れて行った。
そこに映る彼女の姿は、もう彼女と言うには相応しくないことになっていた。
「……俺……?」
そう。
彼女はもう彼女じゃない。
ちゃんと、彼だ。
これまで以上に、本物に近い、彼。
本当に彼が彼女だったのだと確かめた僕の目の前でその姿が変わったように、自分の姿の変化を自覚した途端、彼女の声も変わった。
耳慣れた、そして、心地好く響く、彼の声に。
「今日一日、考えました。あなたのこと、それから、本物の彼のことを。そうしたら、分かりました。…あなたが、彼でよかったと、彼に好かれていると、そのことを自分が喜んでいることが」
「…ほんと、か?」
不安そうに言う彼に頷くと、彼が泣きそうに笑った。
「嬉しい」
率直に言葉を口にするところは、姿や声や話し方が変わっても変わらない。
「好きだ。…古泉、お前のことが、好き……」
「僕も、あなたが好きです。愛してます」
「ありがとな」
彼の嬉しそうな笑顔を、現実でも見たいと思いながら、僕は言う。
「僕の方こそ、お礼を言わせてください。…僕を、案じてくれてありがとうございます。僕を好きになってくれて、ありがとうございます。あなたが好きです…」
「ん」
嬉し泣きしそうになりながら、彼は笑ってくれた。
その彼に、僕は聞く。
「あなたに、ちゃんと告白してもいいですか?」
「…それは…どうだろうな」
難しい顔で、彼は考え込んだ。
「まだ、自覚出来たばかりなんだ。勿論、無意識としてはずっと好きだったわけだし、それがあのループの間に少しずつ表層に出てきたりもしてたから、そのうち受け入れて、開き直ると思うんだが……こんなに急に告白されて、素直に頷けるかが分からん。…お前も知っての通り、本物の俺は全然素直じゃないからな」
自分のことのはずなのに、いや、だからこそか、彼は困りきったようにそう言った。
「断られてしまうでしょうか?」
「…むしろ、お前の正気を疑いそうだ」
「なるほど、ありえそうですね」
と言いながら笑ってしまったのは、彼のそんな様子がありありと思い描けたからだ。
そんな姿を想像して、微笑ましいような、愛しいような気持ちになってしまえるくらいには、僕はちゃんと本物の彼も好きらしい。
「正気を疑われても、負けません。だって僕は、本当は好きでいてくれているということを知ってしまったわけですからね。これくらい優位にあって、僕が負けると思います?」
「…そう、だな」
くすぐったそうに頷いた彼は、
「じゃあ、お前の判断に任せる。我慢出来ないって言うならすぐにでも告白したっていいだろうし、逆に開き直るのを待つのもいいと思う」
「一度開き直ってしまえば、あなたは本当に強いですからね。あの柔軟性にはいつも本当に感服してたんですよ」
「そうだったのか?」
きょとんとした顔で問われ、僕は笑って頷いた。
「ええ。……それから、今なら、分かりますよ。あなたが言っていた、あのループの意味も」
あの間に、蓄積されたのはきっと、ただの記憶だけじゃないのだろう。
あのループがあったからこそ、育ったものがあるのではないかと、思えるようになっていた。
そうでなければ、たったの三ヶ月ほどで、こんなにも気持ちが変わることなんてありえない。
それに、この気持ちの変化は、彼に対するものだけではないのだ。
SOS団の他のメンバーに対する考え方が、ほんの一ヶ月前より変わっている気がする。
勿論、軟化する方向で。
それが他のメンバーにも同じように起きているとしたら、あのループの意義は本当に大きい。
「分かってもらえてよかった」
「では、告白する時期については好きにさせてもらいますね。多分、早々にさせていただくかと」
「ん」
「ただ、気になることがひとつあるんです」
「なんだ?」
「……願いが叶い、もうあなたが出て来る必要もない、ということになったら、あなたは一体どうなるんですか?」
「さあな」
と呟いて、彼は少しの間考え込んだ。
そうして、躊躇うようにしながらも、
「…多分、出て来る必要がないなら、出て来れなくなるんじゃないか?」
「やはり、そうなりますか…」
ずきりと胸が痛む僕に、彼は平然と、
「でも、それでいいんじゃないのか? 元々、こうやって出てくることの方がおかしいんだし」
「しかし、」
「言ったろ? 俺は別に、本体の別人格として存在するわけじゃない。俺は俺で、本体と同一なんだ。俺が出てくるってことは、本体が不満を持ってるってことだ。それよりは、出て来ない方がいいと思わないか?」
理屈は分かる。
でも、僕が先に好きになったのは、今目の前にいる彼の方なのだ。
もう会えなくなるなんて、そんなのは悲しすぎる。
「そうと決まったもんでもないだろ? お前が余りにつれなくて、不満が消えないかもしれないし、逆に本体が、素直になれない自分に焦れるって可能性もあるんだから」
からかうように笑う彼には、躊躇いの色も未練も気配もない。
それ以上にあるのは、喜びだ。
「当たり前だろ? ちゃんと愛してもらえるなら、そっちの方がいいに決まってる」
だから、と彼は困ったような笑顔で僕を見つめ、
「そんな情けない顔、すんなよ。もし今触れるんなら、殴るか叩くか引っ張るかしてるぞ」
と言いながら、実際にそうするような真似をする。
「お前がそう思ってくれてる以上に、俺の方が思ってるんだからな。お前に触れたい、触れて欲しい…って」
「…いいん、ですね?」
「いいって言ってるだろ。お前こそ、さっさと理解してくれ。
そう言った彼は、僕にキスをするような真似をしてから、
「…本当にキス出来る時を、待ってるから」
と言い残して姿を消した。