夏幻の月
  4.繰り返す八月



彼が帰省先から戻ってくるなり、涼宮さんは忙しく毎日の予定を組み始めた。
振り回される団員という立場からすると忙しくてならないけれど、それなりに楽しくもあったし、なにより、現実に満足し、現状を楽しんでくれている限りにおいては、あの厄介な空間も発生しないので万々歳だ。
それなのに寂しいのは、そのおかげで彼女と過ごせる時間が減ってしまったからだろう。
遅くまで遊んでいれば当然帰宅は遅くなるし、疲れているので早く寝たくもなる。
彼女も、僕を案じて僕を寝かしつけようとばかりするので、会話する時間は夏休み前半と比べると格段に減ってしまった。
「先に寝てもいいんだよ?」
今夜もやってきてくれた彼女は、現れるなりそう言って、心配そうに僕を見つめた。
「疲れてるんでしょ?」
と。
僕はと言うと、いつも通りに紅茶を差し出しながら苦笑した。
「あなたに会いたいですし、見ての通り、宿題もしなくてはなりませんから」
「宿題かぁ……」
「…あなたはどうですか?」
出来るだけさり気なく聞いたつもりだったけれど、実際は酷く緊張していた。
彼女にそんな風に探りを入れるような真似をするのはいけないことのような気がしていたし、遠回しな言葉はストレートなそれよりも悪い印象を与えるような気もしたのだ。
しかし彼女は気付かない様子で軽く笑って、
「全然。やらなきゃって思ってるのは思ってるんだけど、あたし、頭も悪い上に計画性もないから、ついつい先送りしちゃって」
と言って僕の隣りに腰を下ろした。
「僕でよろしければ、見て差し上げるところなんですけどね」
「お願い出来たらありがたいのに。友達とか呼んで、皆で一緒に宿題なんてするのも、楽しそうだよね」
「ああ、そうですね。でも僕は……あなたと二人きりがいいですけど」
「嬉しいけど、恥かしいからやめてよ」
くすぐったそうに笑った彼女に、
「すみません」
と謝り、二人揃って微笑んだところで、彼女は僕にむかって、どこか悪戯な笑みを見せ、
「でも、なんか意外かも。お前のことだから、宿題なんてさっさと終らせてるかと思ってた。優等生だし」
「優等生でも、宿題なんてものは面倒だと思うんですよ。それに、集中してさっさと終らせるよりは、毎日少しずつ進めた方が楽ですからね」
「えらいなぁ」
本当に感心した様子で呟いた彼女に、
「もっと凄い人がいますよ。夏休みが始まってすぐに、三日で宿題を終らせてしまったという方が」
「そんなの、都市伝説か何かだと思ってた。本当なら、それも物凄いよね」
そう笑って、彼女は僕が広げたノートを見つめ、小さく声を立てて笑った。
「何度見ても、汚い字」
しみじみとした呟きで、からかう様子はなかったけれど、そう言われるとやっぱり恥かしくなる。
「そう言わないでくださいよ」
「だって、意外なくらい汚いんだもん。…これはこれで、味があって好きだけど」
「味…ですか」
「うん。綺麗過ぎる、型通りの字よりは、これくらい特徴がある方が印象に残っていいと思うよ」
そう言いながら、彼女は指先でそっと文字をなぞった。
その仕草が酷く優しくて、愛しげで、胸が熱くなる。
衝動のままに彼女を抱き締めたくすらなるのに、それは叶わない。
熱くなった胸を、きつく締め付けられるような気持ちがした。
思わずシャーペンをミシリと音がしそうなほど強く握り締めた僕に、彼女は不思議そうな顔をして、
「古泉?」
と聞いてきた。
その表情に、何かが頭を過ぎる。
まただ、と思ったのは、その感覚が初めてではないからだ。
ここ数日、何か酷い既視感めいたものを感じている。
理由も何も分からないけれど、目眩にも似たそれに悩まされているのは、おそらく僕だけではない。
彼も、朝比奈みくるも、時折何か違和感を感じているような顔をしているのを見るから、多分そうなのだろう。
夏の暑さのせいだと、思おうとしていた僕だったけれど、ふと思いついて、彼女に聞いてみた。
「このところ、なんだか変なんです」
「変? 体調が悪いのか?」
心配する彼女に首を振り、
「既視感のようなものが酷いんです。…あなたは、何か知りませんか?」
突然の根拠のない問いかけに、彼女はきょとんとした顔で、
「どうしてあたしに聞くの?」
僕は慌てて笑顔を作り、
「すみません、なんとなく、聞いてみたくなっただけなんです」
「なんとなく? ……うぅん、そっか。もう、そんなに…」
何か納得したように呟いた彼女に、僕が首を傾げた時だった。
僕の携帯が音を立て、涼宮さんをのぞく、SOS団の誰かからの着信を告げたのは。
反射的に電話に出た僕へ、彼女は小さく微笑んで姿を消した。
電話の向こうから聞こえてきたのは、本物の幽霊かと思うようなすすり泣きで、僕はそのまま慌てて服装を整え、家を飛び出す破目になった。

次の日は、生憎天体観測のため、彼女には会えないはずだった。
遅くまで起きていることになるし、僕がほかの人と会っていると彼女は現れないものだったから。
ところがだ。
涼宮さんが寝てしまい、朝比奈みくるも眠り、長門有希がどこかへ姿を消した。
さらに、彼もうとうととまどろみ始めた時になって、不意に彼女が現れたのだ。
「来ちゃった」
と小さく舌を出す彼女は本当に可愛らしい。
でも、
「…僕は、怒ってるんです」
怒鳴りださないように、必死に感情を抑えた声は低く響いた。
彼女は困ったように頷く。
「……うん、分かってた」
「あなたは、知ってたんですね。僕たちが同じ時間を繰り返していたことを」
表層意識でしか物事を認識出来ない僕たちさえ気づいたのだ。
深層意識のあらわれであるという彼女が気付いていないはずがない。
それどころか、これまでのループの記憶を持っていても不思議じゃない。
「うん。…お前の思ってる通りだよ。あたしは、全部覚えてる。なかったことになっちゃった分も、ちゃんと、覚えてるよ」
「どうして、言ってくださらなかったんです!」
音量は抑えたつもりだけれど、怒鳴るような声が出た。
一瞬身を竦ませる彼女に、ずきりと胸が痛んだけれど、彼女は気丈にもそのままの姿勢を保ち、僕をじっと見つめた。
「言いたく、なかったの。だって、知ったら、お前のことだから、絶対自分を責めるでしょ?」
「…それは……」
そうかもしれない。
実際僕は、自分の無力さに打ちのめされてさえいた。
愛しい人、大切な人を苦しめながら、それに気づけないままでいた自分を、呪うほどに罵っていた。
そんな僕なのに、彼女は優しく言葉を掛けるのだ。
「お前を悩ませたくなかった。それに……きっと、このループだって、必要なことなんだよ。必要だから、してるの」
「必要なんて…っ、ただ、彼女がワガママに、自分勝手に振舞ってるだけじゃないですか!」
何か意味があるなんて思えやしない。
大人しくしてくれているかと思ったら、全然違って、実際にはいつも以上のとんでもない傍若無人さを発揮しているってだけだったんだ。
大体、夏休み終了間際の子供のわがままをそのまま実現したようなこの現象に、彼女の自己満足以外の何があるって言うんだ。
「確かに、意味まで意識してやってるわけじゃないのかもね。でも、このループのおかげで変わってきてることがあるって、あたしは知ってるから」
「変わってきてる? 何がです?」
苛立ちながら言葉をぶつけても、彼女は優しく、
「色々、だよ。本当に、色んなことが変わってきてるの。それは、凄くいいことだと思うから、あたしには止められないの。……ううん、止めたくないのかも」
だって、と彼女はかすかに声を震わせた。
「止めなかったら、ずっとお前と一緒にいられるから」
「……っ…」
思わず息を呑んだ。
それだけのことで、彼女は、気が狂いそうになるほどのループを甘んじて受けているというのか?
たった、それだけで。
「ワガママで、ごめんね。…うん、あたしの方がよっぽどワガママだよ。世界中の人が大変なはずで、分かっちゃった人はもっと大変だって分かってるのに、あたしは、まだ思っちゃってる。このままこの時が続いてくれたらいいのにって」
「そんな……。だって、17日からこっち、会える時間はどんどん少なくなってるじゃないですか!」
「確かに、一日のうち、会える時間は減っちゃってるけど、でも、それだって積み重なったら凄く長い時間なんだよ。毎日、お前に会えて、何度、好きって言ってもらったかって、思うだけで、あたしは、本当に、幸せで……」
でも、と彼女はまるでしゃくり上げるように体を痙攣させた。
「でも……リセットされる瞬間、楽しかったことがほとんど全部、ただほんの少しの残滓を残して、消えちゃう、あの瞬間は、本当に、怖くて、怖く、って……」
かたかたと震え始める彼女の体を抱き締めることも出来ない。
縋るところもない彼女は、ただきつく、自分の体を抱き締めた。
「17日に戻るだけじゃなくて、もっと前に戻っちゃったら、全部なかったことに、なっちゃったらって、そう、思うと、怖くて堪らなかったよ…」
「だったら、どうしてもっと早くなんとかしようとして下さらなかったんですか…」
「だって、それさえ乗り越えたら、いつまでだってお前といられると思ったんだもん…!」
泣きそうな顔をしながらも、彼女は泣かなかった。
「どうして…そんな……」
「あたしだって、不安なんだよ!」
叫ぶようにして、彼女は告げた。
その悲愴ですらある声が、僕の胸に突き刺さる。
「あたしは、お前に触れもしない。一緒にご飯を食べることも出来ない。ご飯を作ってあげることも出来ないし、本体がほんのちょっとでも寝てくれない限り、お前の帰りを部屋で待ってることだって出来ない。あたしがお前にしてあげられることなんて、少しの間、話すことくらいじゃない。それなのに、いつまでもお前が、あたしのことを好きでいてくれるなんて、思えないよ…! 思えるわけ、ない…っ……。いつかは、あたしじゃない、手で触れられて、何だって出来る、本物の女の子を好きになって、あたしのことなんて、忘れちゃうんだって、こと、くらい、…あたしにだって、分かるもん…!」
そんなことはありません、と、否定の言葉を口にするのは簡単だったかもしれない。
でも、僕には言えなかった。
軽々しく、そんなことを言ってはならないことくらい、僕にでも分かったから。
「それ、に、このままじゃ、だめって、あたしでも、思うから…。お前が、このまま、それこそ、幽霊みたいなあたしと、付き合ってて、いいことなんて、ないもん…。ちゃんとした、女の子と、付き合った方がいいってことくらい、分かる、から…っ、でも、それでも、嫌だよ…!」
何も言えず黙り込む僕をなじりもせず、彼女はしばらく唇を噛んでいた。
けれど、不意に、
「――そうだよ、怒ってるのはお前だけじゃないんだよ。あたしだって、怒ってるの」
とどこか虚脱したように呟いた。
その瞳にも声にも、力がなく、まるでもやでもかかったような濁りが感じられた。
「はい? 何に…ですか?」
怒ってる?
彼女が僕に?
どうして、と戸惑う僕を、
「…聞いちゃったんだから」
と彼女は恨みの込められた瞳で睨み、
「……冗談でも、やめてよ。他の人に、アイラブユーって言うなんて、言わないで」
泣きそうな声で告げた。
僕は驚き、それからまるで長年連れ添ってきた愛妻に浮気を咎められた甲斐性なしの中年男のように不整脈を起こす心臓を抑えながら、
「……聞いてたんですか?」
と問い返した。
「…うん。…心臓が止まるかと、思った……」
苦しげに俯いた彼女は、それでもややあって顔をあげたかと思うと、僕をきつく見つめ、
「あんなこと言っちゃ、やだ。やだよ。軽いジョークでも、なんでも、嫌。あたし以外に、冗談でも、好きなんて、言わないで。言うって、言わないで……」
じわりと潤んだその瞳から、今度こそ、涙が溢れた。
まるでスローモーションのようにゆっくりとそれが顎まで伝い落ち、彼女がしゃくりあげた拍子に、弾け落ちた。
「ごめんなさい…」
謝りながら手を伸ばしても、彼女の涙を拭うことすら出来ない。
そんな自分が歯痒くてならなかった。
「すみません。もう、言いません。あなた以外の誰にも、冗談でだって、言いませんから」
「…ほんと、に……?」
「はい」
何に誓ったっていい。
命を懸けてもいい。
「僕が好きなのは、あなただけですから」
はっきりと告げると、彼女はほっとしたように微笑んで、そのまま姿を消した。
タイムリミットでも来たのだろうか。
…せめて、もう少し、ちゃんと話せたらよかったのに、と歯噛みしたところで、
「ぅ……あぁ…?」
と小さな声が聞こえ、彼が目を覚ましたようだった。
大きく欠伸をして、そのために滲んだのだろう涙を指先で軽く拭いながら、
「悪い、寝てたみたいだな」
「いえ…」
短く答えて顔を背け、まるで星を見つめようとするように空を見上げたのは、まともな応対が出来るような状態じゃなかったからだ。
彼はどこか怠惰に体を起こしたかと思うと、僕の方を見て、
「……何かあったか?」
と小さく呟くように言った。
その声の小ささは、彼なりの優しさなのだろう。
聞こえなかったフリも出来るような、でも、確かに耳に届いた小さな声。
僕はその厚意に甘えて、聞こえなかったフリをした。
彼は少しして小さく息を吐いたかと思うと、
「なんか飲んでくる」
と言って屋上から出て行った。
そんな風に気を遣われてしまうほど、僕は酷い状態だったのだろう。
せめて、涼宮さんが目を覚ます頃までには、いつもの調子を取り戻したいと思いながら、僕は痛む胸を抑えた。
なんとしてでも、ループを脱したい。
そうして、彼女ときちんと話し合いたい。
いや、消えてしまうかもしれないループの中ではない、確かな未来がある状態で、彼女に告げたい。
「あなたに会いたい」
と。