夏幻の月
  3.二人の八月



鍵となる彼が帰省してしまったからか、涼宮さんが僕たちを呼び出すこともなく、穏やかな日々が続いていた。
すっかり自分の思いを自覚するに至り、愛しい彼女にさえ色惚けしているとかなんとか言われるようになってしまった僕としては、呼び出される心配がないだけ夜更かし出来、彼女と長く過ごせるのが嬉しくてならなかった。
彼女の方も、どういうわけか現れる時間が少しばかり早くなっていた。
「本体がちょっと疲れてるみたい。って言っても、遊び疲れなんだけど。でも、そのおかげで早く寝ちゃうから、あたしも早く来られるって訳」
「そうだったんですか」
うん、と頷いた彼女は、いつものようにソファに座りながら、
「お前は、早く寝なくて大丈夫?」
「ええ、大丈夫ですよ。夏休みですから、少しくらい寝坊させてもらってもいいかと思いまして」
「困った奴」
と言いながら、彼女は小さく忍び笑いを漏らした。
そんな風に、彼女はいつもよく笑う。
声を立てて派手に笑うことは滅多にないのだけれど、ちょっとした時に見せる微笑はいつも綺麗で優しい。
その眼差しにも慈悲が溢れているように思える。
そんな眼差しを、どこかで見たような気がするのに、どこで見たのか思い出せない自分が歯痒かった。
「別に、思い出さなくていいよ。それで、あたしでも本体でもない別の誰かを思い出されたら、面白くないし」
そう苦笑しながら、彼女は紅茶を入れたカップに手を伸ばした。
「うーん……やっぱりだめか」
その手はカップも紅茶もすり抜けてしまう。
「感覚はなくても、一応触れるまでは出来るんだから、持ち上げられるようにならないものかな? そうしたら、飲む真似くらい出来るのに」
「無理はしなくていいですからね?」
心配になってきた僕が言うと、彼女は緩やかに微笑んで、
「無理なんてしてないって。ただ…ね」
ただ?
「……カップくらい動かせるようになったら、紅茶だって飲めるようになるかも知れないし、そうしたら、お前にも触れるかも知れないでしょ?」
「それ、って……」
じわじわと胸の中を熱いものが占めていく。
それは、彼女が浮かべた満面の笑みと共に最高潮に膨らんだ。
「あたしだって、お前のことが好きなんだもん。もっと色々したいって、思うよ」
「…それなら、」
僕はソファから立ち上がって彼女に向かって手を差し出した。
「ねえ、これからデートをしませんか?」
「でー…と………って、ええええ!?」
本気で驚いているらしい彼女の、大きく見開かれた目も、ぽかんと開いた口も可愛らしくて愛しい。
「デートですよ。一緒に外を散歩するだけでもいいんです。どうです? …それとも、やっぱりだめですか?」
「だめなんて、そんなこと、全然ないよ。うん、むしろ、…したい、よ?」
恥ずかしそうにしながらも、彼女ははっきりと言ってくれる。
「したいけど…でも、いいの? 迷惑にならない? 前にも言ったと思うけど、見るだけなら、他の人にだって、あたしは見えちゃうんだよ? お前に、彼女がいるって噂が立っちゃうんじゃ……」
「噂が立ってもいいですよ」
彼女がまんまるく目を見開くのを見つめながら、僕は自然に込み上げて来るままに、笑みを浮かべて答えた。
「だって、彼女がいるのは事実でしょう?」
「……ん、そうだったね。嬉しいよ」
そう言いながら、彼女は立ち上がった。
「ほんとに、デートしてくれる?」
「ええ。あなたが嫌でなければ」
「嫌なわけないだろ。…すっごく、嬉しい。大好き」
そう出来たなら僕のことを抱き締めたかったんだろう。
彼女の腕は、僕の体を素通りしたけど、気持ちはよく伝わった。
「僕も、あなたが大好きですよ」
「ありがとう」
彼女の浮かべる笑みが愛しい。
僕は、作り笑いとは全然違う笑みを、自分が浮かべていることを自覚しながら、彼女と共に夜の街へと繰り出した。
一緒に歩いて話すくらいしか出来ないデートで、手も繋げなかったけれど、それでも僕は幸せだった。
彼女も、幸せそうに笑ってくれた。
「お前は、プールとか行かないの?」
「あまり興味がないものですから」
「へぇ、お前はスポーツとか得意で、好きで何かやってるかと思ってた」
「泳ぐことは好きですよ。でも、プールよりは海に行きたいんです」
「海かぁ……」
羨ましそうに呟く彼女に、
「一緒に行けたらいいですね」
と言ってみたのだけれど、彼女は困ったように顔をしかめた。
何かまずいことを言ってしまっただろうか。
「ううん、そうじゃない。そうじゃないんだけど……でも、うん、……やっぱり、だめだなぁって、思っちゃった」
「何がですか?」
不安に駆られて問うと、彼女は黙って首を振った。
「ごめん、言えない」
「…そう、ですか……」
「ごめんね。…ごめん……」
何度も申し訳なさそうに繰り返す彼女に、僕は慌てて、
「いえ、いいんですよ。言えないことはあって当然だと思いますし。…でも、もし、黙っていたくなくなったら、僕に話してもいいと思えたら、その時は教えてくれますか…?」
「……うん、約束する」
「はい」
頷いて、僕は彼女が元気を取り戻すまで待った。
彼女は、しばらく黙ったまま歩いていたけれど、やがて顔をあげてくれたかと思うと、
「お腹空かない?」
と聞いてきた。
「お腹、ですか? …そうですね、少し減りましたけど…」
「じゃあ、何か食べよう。あたしは食べれないけど、お前が食べてるのを見てるだけで十分だから」
「…はい」
彼女の眼差しが余りに優しくて、僕はそう頷いていた。
普通に考えるなら、食べられないという人の前で見せつけるように食べるなんて悪趣味に思えるのだけれど、彼女がそういうのなら構わないと思った。
「お前、好きな食べ物ってある?」
「色々ありますよ? 甘いものも好きですし、辛いカレーとかスープなども、好んで食べますね」
「じゃあ、嫌いなのは?」
「特にありません。なんでも食べますよ」
「えらいえらい」
からかうでなく、彼女はそう笑顔で言ってくれる。
僕は、照れ臭いような嬉しいような複雑な気持ちになりながら、
「そんなに偏食してるように見えます?」
と拗ねるように言ってみたのだけれど、それに対して彼女はあっさりと、
「見えるよ」
と返してくれた。
「そ…うですか」
「そうですよ。だって、お前が自炊してるってこと自体、意外だったし」
「そんなに、してないように見えるんですかね?」
「見えるよ。お前って、生活とかに凄く無頓着に見えて、だから心配になったんだから」
そう微笑みながら、彼女は僕を見つめ、
「だから、ちゃんとしててよかった。意外で驚かされたけど、安心もした」
「そんなに心配かけてました?」
「うん」
はっきり頷いた彼女は、そのくせとても楽しそうに、
「本体は多分、今も心配してると思うよ? 夏休みをどうやって過ごしてるんだろうとか、暑いけど夏バテせずにちゃんと食べてるかとか、ね」
「それでですか? 夜食を勧めてくださったのは」
「んー…まあ、そのせいもあるのかな?」
考え考え答えた彼女に、僕は思い切って質問してみた。
「前から気になってたんですけど、あなたと本体の方は、意識を共有してるんですか?」
「その質問はちょっとおかしいかな? だってあたしは、別に本体とは違う人格とかそういうのじゃなくて、ただ単に、本体の無意識が勝手に出歩いてるだけみたいなもんなんだから」
「別人格というわけではない、ということですか?」
「そう」
と頷いた彼女は、
「あたしが『本体』なんて言い方をして区別するから誤解させちゃったのかな? でも、そうなんだ。あたしは、素直になれない本体に代わって、普段抑圧されてる無意識の部分が出て来ちゃってるようなもんなの。その分、本体とは違うところが強調されちゃってるけど、基本は同じだよ。ただ、あたしが無意識である以上、あたしが本体の、つまりは普段の顕在化した意識がどんな風に感じて、どんな風に考えているかを把握することは出来ても、逆は出来ないんだよね。だから、本体はあたしが出歩いてるってことも全然気付いてないと思うよ。……ああ、本当に可能性の話になるけど、本体が夢として見てる可能性は、ないとも言い切れないんだけど」
「では、本体、というよりむしろ、表層意識と言った方が正確なわけですね」
興味深い、と思いながら呟くと、彼女は軽く笑って、
「呼び方はなんでもいいよ。というか、お前ってやっぱり理屈っぽいな」
「お嫌いですか?」
前にそんなことを言われた覚えがあったのでそう聞いてみると、彼女は笑顔のままで首を振った。
「嫌いじゃない。お前らしいなって思ったよ。それでいいのか、よく分かんないけど」
「…どういう意味でしょう?」
首を傾げた僕に、彼女はほんの少しばかり寂しそうな顔で、
「だって、あたしや本体の知るお前ってのは、作り物なんだろ?」
「……どうでしょうね」
僕は独り言のように呟いた。
馬鹿丁寧に喋る、フェミニストぶった少年古泉一樹が本当に僕自身かと言われたら、違うと言った方がきっと正しい。
でも、作り物と言えるほど人工的であるかと問われたら、それもまた違う気がした。
作られた仕草や言葉遣いは確かに人工物の作り物かもしれない。
でも、僕の言葉は僕自身のものであり、そこまでは流石に強制も矯正もされていないから。
「理屈っぽく考えてしまう僕というのは、間違いなく僕自身ですよ」
「そっか。ならよかった」
と彼女は優しく微笑む。
「もし、理屈っぽいところも作り物だったら、それをお前らしいって言っちゃうのは何か違う気がしたんだ」
「ああ、そういうことだったんですね。…大丈夫ですよ。僕の中で作り物の要素があるとしたらそれは、本当に限られた極一部のことですから」
「本当に?」
疑う様子を隠しもしない彼女に、僕は苦笑しながら答えた。
「ええ、本当です。それに……作り物が本物になる時だって、あるでしょう?」
歪められるとか型にはめられるというだけでなく、人はそうして変わることがある。
たとえば、なんにでもどんな要求にでもイエスとしか答えてはならないという自己変革方法だってある。
そうすることで、後ろ向きな人間が積極性を持つというのだ。
勿論、それがうまくいく人もあれば、合わない人も多いのだろうけれど、この品行方正な優等生の仮面というのは、存外僕には合っていたようで、段々と違和感もなくなってきている。
そのうち、独り言どころか、頭の中でも敬語で考えるようになりそうだと思うほどに。
「嫌じゃない?」
「嫌ではありませんよ」
「それなら、本当によかった」
安堵した様子で呟いた彼女に目を細めたところで、彼女は恥ずかしくなりでもしたのか、
「なあ、夜食はそこの店でどう? 野菜たっぷりのスープだって」
と誤魔化した。
「いいですね」
と頷きながら、そんな風に僕のことを気遣ってくれる彼女への愛おしさを募らせた。
そんな風に、僕と彼女の夏休みは過ぎていこうとしていた。
何事もなく、穏やかに。
そのまま穏やかに終る……はずだった。