夏幻の月
  2.蜜月めいた七月



七月に入ってしばらくは、期末試験があったことに加えて、あれこれちょっとした事件が起きたこともあり、それなりに慌ただしく時間が過ぎ去っていった。
現実に満足しているからか、閉鎖空間の発生頻度も低い。
それは、発生のたびに問答無用で借り出される身としては喜ぶべきことなのに、どうしてだろう。
僕は、それを寂しく感じていた。
彼女に会いたいと、何故だか強く思っていた。
会っていないと、彼女の印象は本当に薄くなってしまう。
確かに見たはずの彼女の顔も思い出せない。
服装も、髪型も、声も、何一つ。
じっくり見つめたはずの手の形がどんなものであったかさえ、思い出せない。
そのことが、どうしようもなく不安をかきたてる。
だから僕は、本当に久しぶりに彼女と会えた時、思わず満面の笑みで、
「お久しぶりですね」
なんて言ってしまい、彼女を大いに驚かせてしまった。
彼女はぽかんとした声で、
「…お前でもそんな顔するんだ……」
「い、いけませんか?」
そんな風に言われると急に恥かしくなって態度を取繕おうとしたのだけれど、だめだった。
彼女の前だからか、それともここが学校でもなければ、涼宮ハルヒの関係者といるわけでもないからだろうか。
敬語を使うのがやっとのようにさえ、思えた。
「いけなくなんかないよ。ただ、珍しいなって。ううん、初めて見た」
くすくすと楽しそうに笑う彼女は、可愛い。
「…可愛いですね」
思わず思ったままを呟くと、彼女はまた驚いたような顔をした。
「っ、いきなり何言い出すかと思ったら…」
その顔が見る間に赤くなっていく。
そんな反応に、自分が少々でなくピントのずれたことを言ってしまったことに気付いた僕は慌てて、
「すみません、その、他意はなくってですね、ただ、あなたと会っていない時は、どうしてもあなたの顔が思い出せないものですから、つい……」
「…それがさっきの発言にどう繋がるのかよく分かんないけどさ、」
呆れたように言いながら、彼女は僕を見つめた。
「忘れちゃうのは仕方ないんだ。だって、あたしはニセモノだから」
「…ニセモノ…ですか?」
どういう意味だろう、と首を傾げると、彼女は困ったように笑って、
「あたしは、作られた存在だから、本体とは似ても似つかないの」
「そうなんですか?」
「うん。顔も、声も、何もかも違うよ」
「それじゃあ、あなたを探すことは不可能なんでしょうか」
「え?」
きょとんとした顔をした彼女に、僕は小さく笑う。
照れ臭くて、だから、照れ隠しに笑って見たのだと思う。
「あなたを探したいんです。ここしばらく会えなかったからこそ、余計に強くそう思います。もっとあなたに会いたい、と」
僕が言うと、彼女は困ったように、そうでなければ拗ねたように呟く。
「…探さなくったって、お前が気付いてないだけで、会えてるよ」
「でも、僕には分からないでしょう? …あなたに、毎日だって会いたいんです。あなたの顔を忘れたりしたくないんです」
「…どうして?」
問われて、僕もどうしてだろうと思った。
彼女は可愛い。
でもそれは作られたものだという。
だから、彼女の外見に執着するのは間違っていると思うし、そうと知る前から、僕は彼女の外見を理由に、彼女に会いたいなんて思っているわけでもないと思う。
ただ、彼女と過ごした時間は、短くて、回数も少ないけれど、とても暖かくて優しくて、心地好いものだった。
だから、かもしれない。
「…あなたといると、楽しいんです。…いえ、違いますね。あなたといると……寂しく、ないんです」
僕が呟くように告げると、彼女は軽く目を見張った後、優しく微笑んだ。
「ほんとに?」
「本当です」
「だったら…嬉しいな」
そう、本当に嬉しそうに呟いた彼女は、
「閉鎖空間が発生しなくても、お前に会いに行ってもいい?」
「出来るんですか?」
「うん、だって、あたしが来ることと閉鎖空間の発生に直接の因果関係はないから。…あたしはただ、お前に会いたいって、会って、ちょっと話したいなってそれだけで、来てるから。閉鎖空間が発生すると、特に来たくなるんだ。…お前が心配で」
「そうだったんですか?」
「そうだよ。…お前、いつも笑ってて、何考えてるか分かんないし、心配もさせてくれないでしょ? だからだよ」
「でも…本当にいいんですか?」
「いいよ。それとも、お前の部屋に行くのは迷惑? それなら、どこかで待ち合わせてもいいけど…」
「いえ、それは問題ありませんけど……でも、そこまでしてもらって、いいんでしょうか?」
「いいんだって。嫌なら、言わないし。それに……少しは、あたしのこと、気にしてくれてるってことだけでも、嬉しいから」
そうはにかむように言った彼女に、僕は衝動のまま告げた。
「少しなんてもんじゃありませんよ」
「…ほんとに?」
「ええ。……正直なところ、あなたのことばかり気にかかっているくらいです」
「それって……あたしが好きってこと?」
驚くように言った彼女に、
「…きっと、そうです」
と頷いてから自分で自分に驚いた。
そうだったのか?
…いや、反射的にそう言ってしまったからにはそうなんだろうと思うけれど、でも、どうしてだろう。
やっぱり僕は寂しかったんだろうか。
ひとりきりの部屋で暮らすことも、誰にも本音を明かせないことも、苦しかったんだろうか。
ずっと平気だと思っていたけれど、本当は、平気なんかじゃなかったんだろうか。
だから、彼女が気になって…?
「嬉しい」
僕の混乱を他所に、ぽつりと彼女は呟いた。
それこそ、感激のあまり泣きそうな顔をして。
そのくせ、美しく微笑んで。
わななく両手でそっと顔を覆って。
思わず見とれた僕を、その澄んだ瞳に映して、
「…やっと、分かった。多分、あたしは、お前にそう言ってもらうために作られたんだ」
「…どういう、意味でしょうか…?」
「だって、本体じゃ絶対に言ってもらえないから。そんな言葉」
僕がそれに対して何か言うより早く、彼女は明るい笑顔を見せ、
「ありがとう。本当に嬉しい。…また、明日、ね」
と言い残して消えてしまった。
こうして、自分の気持ちすらはっきりと掴めないままに、僕たちの関係は少しばかり形を変えてしまったようだった。

次の夜、9時を少し回った頃に、彼女は僕の部屋に現れた。
「こんばんは」
という言葉と共に、突然姿を現すのは変わらないけれど、部屋の明かりの下で見る彼女は、いつもといくらか違って見えた。
いつもより、現実感があるとでも言えばいいんだろうか。
いつも被っていた大きな帽子も、現れたのが室内だからか、なくなっていた。
「こんばんは。よく来てくださいましたね」
そう言いながら、僕は彼女に椅子を勧め、用意していた紅茶を差し出した。
彼女は困ったようにそれを見つめて、それから僕に向かって、
「あたし、お茶なんて飲めないよ?」
「分かってます。…でも、少しくらい何かしておもてなししたかったんです」
らしくもなくそんなことを言ってみると、
「…ありがとう」
と彼女が微笑む。
その微笑だけで、暖かいものが胸に満ちた。
おそらく、幸せとかいう類の感情が、戸惑いそうなほどに溢れてくる。
やっぱり僕は、彼女が好きなんだろうか。
「何? 変な顔して…」
不思議そうな顔をした彼女に僕は苦笑して、
「ええ、いえ、ちょっと、考え事を……」
「内緒にしないでよ」
拗ねたように唇を尖らせて、彼女はソファから身を乗り出し、
「ほら、教えて。何、考えてたの?」
「本当に、大したことじゃないんですよ。ただ…」
恥ずかしくなって目を伏せながらも、僕は彼女に逆らえないような思いで、正直に答えた。
「やっぱり、あなたのことが好きみたいだなって…」
それに対する返事は少しの沈黙と、やけに実感のこもった響きを伴う、
「…なんか、意外だなぁ」
という呟きで、僕は大いに焦らされる。
「な、何がですか!?」
「だって、」
くすりと小さく笑って、彼女は答えてくれた。
「お前、好きとか言うだけで照れるような奴に見えないから。可愛いとかそういうことも、恥ずかしげもなく言いそうなのにな」
「僕に対してどういうイメージを持ってるんですか…」
いや、普段の学校における僕を見ているなら仕方ないかもしれませんけどね。
それにしたって、なんなんだろうそのイメージは。
「ごめんごめん」
笑いながらも謝ってくれた彼女は、楽しそうな顔で、
「安心しちゃった。お前、人気があるから女の子と付き合い慣れてて、それで軽い気持ちであんなこと言ったんじゃないかって思ってたから、そうじゃないって分かって嬉しい」
「…あなたこそ、どうなんですか?」
「あたし?」
びっくりした顔をしてる彼女に、
「お付き合いの経験くらい、あるんじゃないんですか?」
「ないない」
快活に笑って、彼女は手まで振って否定した。
「だってあたし、生霊みたいなもんだし。本体だって、お付き合いの経験なんて全然ないもん」
「そうなんですか?」
「うん。もてるようなタイプじゃないし」
「それを言うなら、僕だってそんなにもてたりしませんよ?」
「嘘吐き」
即答されてしまったけど、事実ですよ。
「告白されたことだってろくにありませんし」
「一度や二度あるだけでも大したもんだって。なんか、感覚ずれてない?」
そう笑う彼女は、本当に可愛らしくて、ずっと見ていたいような気持ちになる。
「ほら、それはもういいから、もっといろんなことを話そうよ。もっと、お前のことを聞かせて? あたし、お前のことを全然知らないままなんだから」
「…そうですね」
頷いて、僕たちは話を続けた。
一日のうちのほんの少しの時間、およそ一時間ばかりが、僕たちの短い、けれど毎夜の逢瀬の時になった。
会っても、触れられることはなく、とりとめのない話をするのがやっとの日々。
それでも僕は幸せだった。
彼女の本体とやらがどこの誰かということさえ、気にならなくなってしまったほどに、彼女を愛しいと思った。
時に閉鎖空間が発生しても、そこから出れば彼女が待っていてくれた。
一度会って、話した後でも、彼女は現れた。
「お疲れ様」
どこか申し訳なさそうに言ってくれる彼女に、僕は首を振る。
「平気ですよ、これくらい。…それに、閉鎖空間が発生すれば、もう一度あなたに会えますから」
「ばか。…それで体を壊したりしないでよ?」
「…はい」
そんな風に注意されることすら嬉しくて、にやけながら頷けば、彼女は拗ねたような顔をする。
「もう、ほんとに分かってる?」
「分かってます。でも……あなたが幽霊だったら違ったかもしれませんね」
「どういう意味?」
首を傾げる彼女に、僕は笑って、
「あなたが幽霊だったら、死ぬことすら嬉しくなってしまいそうですから」
「ばか」
もう一度言って彼女は僕に背中を向ける。
「…あたしが死霊じゃなくて本当によかったね。お前、案外色惚けする奴みたいだし」
「色惚けとは酷いですね。…それもこれも、あなただから、ですよ」
「どうだか」
「本当です」
「だとしても、むず痒いからあんまり言わないでよ」
「そうですか?」
頷いた彼女は、実際くすぐったそうな顔をしながら、それでも笑って、
「…嬉しくも、あるけどね」
と言ってくれた。
彼女は、驚くほど素直だ。
こちらがどぎまぎさせられるほど、ストレートに言葉をくれる。
心配なら、
「心配するだろ。もっと体を大事にしなさい」
と言うし、逆に嬉しければ、
「嬉しいな。…もっと言って?」
と照れる以上に甘えてくれる。
元々の性格によるのかな、と思っていたのだけれど、どうやら違ったらしく、
「本体は全然素直じゃないから、あたしは素直にしてるんだと思うよ? 言ってみたら、あたしの性格は本体の理想が強く出てるわけだから」
「理想、ですか」
「そう。自分がこうだったらいいのになっていう感じ、かな。それか、本当はこうしたいのに出来ないってのが出てる感じ。全部が全部じゃなくて、本体と似てるところもあるんだけど、それは本体がコンプレックスを持ってない代わりに、頓着もしてないところってことであって、別に誇ってるってわけでもないのがねぇ……」
と苦笑した彼女は、
「それより、もっと他の話をしようよ」
と話をそらした。
本体の話はあまりしたくないようだ。
毎晩会えるならそれでいいと、この頃の僕は確かにそう思っていたはずなのに、いつからだろう。
それが変わってしまったのは。