夏幻の月
  1.はじまりの六月



決して順調とも平凡とも言いかねる僕の人生が、誰かに翻弄されるかのように、またしても大きな変化に見舞われていた高校一年の梅雨の頃。
僕は、あまりにも自分の思うようにならない自分の人生に疲れていたように思う。
その突飛な能力がなくとも係わり合いになりたくないほど傍若無人な女性に振り回され、敵対勢力でこそないものの、いまだ距離感を図りかねている二つの違った組織の関係者と毎日のように顔を突き合せる日々。
おまけに、そこには自分の立場も何も分かっちゃくれないおかしな奴までいると来た。
そんな中、団長様のご機嫌を損ねることなく、かつ、彼に少しでもいいから自分の持つ影響力について分かってもらえるよう尽力するなんていうことは、本当に神経を使う仕事で、たまたま同い年だったからというだけの理由で送り込まれた僕は、それこそ神経を日々磨耗させていた。
誰だって、こんな立場に置かれたらそうなっていたに違いない。
確信を持ってそう言える。
勿論僕だって、全く楽しくないわけじゃないとも。
面倒ごとばかりとはいえ、まるで家中をぴかぴかに掃除した対価として与えられるちっぽけな銅貨一枚程度に似た、本当にかすかなご褒美らしきものがなかったわけでもない。
超能力者なんて、なりたくてなれるものじゃないし、年若い僕などはそれなりに気を遣ってもらえているようで、今のところ、惨い命令を出された覚えもない。
そうなると、普段は関わることもないような人と接する機会を与えられることもある機関という組織の人脈というのは、なかなかに面白くもあったし、給料だって文句なしの金額であるように思う。
それに、あの厄介な能力と言う属性を取り除いてしまえば、涼宮ハルヒという少女は魅力的と言えなくもなかった。
その外見もさることながら、天真爛漫で、明朗快活、バイタリティに溢れる姿を見ていると、羨ましくなるほどだ。
ワガママで自分勝手なところも勿論あるのだけれど、それだって、自己保身や私利私欲と言うにはあまりにも純粋な、そうであるがゆえに理解し難いほどの真っ直ぐさを持っている。
だから僕は、彼女に辟易することがあっても、彼女を嫌いにはなれないようだった。
とはいえ、今日のように夜中に飛び起きる破目に陥ると、恨み言のひとつも言いたくなる。
それを本人にぶつける代わりに、その代理であるところの神人にぶつけられるだけぶつけ、これでスッキリして明日も人畜無害な顔をしていると思いながら、欠伸などしながら閉鎖空間が消え去るのを見守った。
灰色の幕が壊れて消えても、空は暗い。
今が深夜と言って誰からも異論が出ないような時間帯であるせいだ。
悪い夢でも見たんだろうか、と思いながら僕がその場を離れようとした時だった。
「こんばんは」
突然、そう声を掛けられた。
振り向くと、さっきまでは誰もいなかったはずの場所に、見たことのない少女がひとり、ぽつんと立っていた。
白い大きな夏帽子を目深に被り、真っ白いワンピースを着た彼女の顔だちはよく見えない。
彼女は一体いつの間に現れたのかと驚いている僕に、彼女は心配そうな声で、しかしそれを押し隠すように唇を笑みの形にして、
「…お疲れ様。いつも、ありがとう」
と告げた。
その言葉の意味も意図も理解出来ず、戸惑うしかない僕に向かって軽く頭を下げた彼女は、そのまま消え失せた。
それこそ、煙かなにかのように、すっと。
人間本当に驚くと声も出なくなるものらしい。
それどころか、恐怖を感じる間もなかった。
彼女の立っていた場所に立ってみても、何も起こらない。
まるで、一瞬の幻だったかのようにさえ感じられる。
でも、違う。
「…幽霊……?」
お盆にもまだ遠いのだけれど、思わず呟いた言葉が、一番しっくりくる名称のように思えた。
涼宮ハルヒが望むなら、幽霊が現れたって不思議じゃない。
しかし、それにしてはあまりに唐突過ぎる気がした。
彼女が最近、幽霊がどうのと騒いでいた記憶もない。
加えて、一体誰の幽霊だかも分からないし、何より謎なのは彼女の言葉だ。
幽霊に労われ、お礼を言われる覚えなんてない。
わけの分からないことだらけだ。
しきりに首を捻りながらも、僕は一応、幽霊らしきものに遭遇したことを機関に報告した。
そんなことがあったせいで、自宅に帰った後も、僕はなかなか寝付けなかった。
別に、怖かったわけじゃない。
ただ、あの幽霊が気になっただけだ。
どうして彼女は現れたのか。
何故僕にあんなことを告げていったのか。
他のメンバーに聞いたところでは、彼らの前には現れなかったらしい。
つまり、僕だけに姿を見せ、言葉を掛けていったことになる。
でも僕は、あんな少女に覚えなんてない。
クラスにもあんな子はいない。
前の高校や、中学、小学校まで遡ったって、いないはずだ。
はずだと…思う。
段々朧気になっていくのは、彼女の印象と言うものが驚くほどに残っていないからだ。
今も、思いだせるのはあの白い帽子と白い服だけ。
服だって、一体どんな形だったのか、どこかにポイントが入ってたかなんてことは全然思い出せなくなっている。
声がどんなものだったか、ということも思い出せない。
異常なまでに薄い印象こそ、彼女が人ではないことの証明のように思えた。
あまり眠れないまま登校し、それでも僕は何食わぬ顔をして一日を過ごす。
部室に行ってもそれは変わらない。
…いやむしろ、それまでよりも更に気をつけているだろうか。
少しの失敗もしないように、「僕」らしく過ごす。
時間つぶしとして一緒にオセロをしている彼を見ても、何の感情も表さないように注意する。
――正直に言ってしまうと、僕は、何を考えているのか分からない宇宙人や、存在意義すら窺い知れない未来人以上に、彼が苦手だ。
彼は、本当になんの特殊能力もない、ただの一般人であるらしい。
それなのに、涼宮ハルヒに選ばれた。
選ばれてなお、何も失わずにいる。
ただ、与えられてばかりの彼が、羨ましいのを通り越して妬ましいのかも知れない。
なんの力もない。
特徴もさしてない。
性格は極普通で、ほんの少しお節介過ぎるような、お人好し過ぎるようなところもあるけれど、それだって度が過ぎるほどではない。
図々しさもあれば、不平不満を漏らすようなところもある。
つまりはただの人間だ。
それなのに、どうして、と思う。
以前の僕とどれほど条件が違っただろうか。
分からない。
でも、僕は超能力者として選ばれ、あるいは奪われ、彼は鍵として選ばれ、あるいは与えられた。
同い年の、しかもまだ思春期真っ只中の真っ当な男子高校生として、彼に対して嫌悪とも憎悪ともつかない、曖昧なマイナス感情を抱いたとしても、なんら不思議はないだろう。
今も、一緒にオセロなんてしながら、彼の視線に苛立つ。
涼宮ハルヒのいるところで朝比奈みくるを必要以上に見つめないでもらいたい。
人の前で延々不機嫌な顔をしないでもらいたい。
涼宮ハルヒにもっと気を遣ってほしい。
何より、僕の方を見るのをやめてくれないものか。
何が言いたいのか分からないが、僕とは立場が違うんだから、言いたいことがあるなら言えばいいだろうに。
大体、言いたいことがあれば言い過ぎるほどに言う人じゃなかったか?
気を遣うことが出来るなら、僕じゃなくて涼宮ハルヒに遣ってくれ。
そんなことを思いながら、しかしそれを滲ませないようにして、僕は聞いた。
「どうかされましたか?」
彼は軽く眉を寄せ、それから目をそらした。
「なんでもねぇよ」
「そうですか」
だったらこっちを見るのもやめてもらえませんかね、と口に出来たらどんなに楽か。
面白くない、と思いながら、僕はそれを顔に出さないよう、細心の注意を払った。

その、数日後である。
今度は夜の9時過ぎ、まだ涼宮ハルヒが眠っていない頃に閉鎖空間が発生した。
ということは、原因は悪夢なんて程度のものじゃなく、意識的な何かだろう。
察するに、今日の放課後、彼と軽くやりあったことが原因なんだろうか。
後で怒るなら、相手の前で本気で怒っておけば閉鎖空間だってここまで拡大しないだろうに。
厄介だな、と思いながら仕事を終えた僕が、閉鎖空間の消滅を確認し終えるのを待っていたかのように、また声がした。
「こんばんは」
目を向けると、この前と同じ少女が立っていた。
幽霊だろうに、脚もちゃんとあるし、浮いているということもない。
こうして向かい合っていると、ただの人間にしか見えないくらいだ。
不躾にも観察する目を向ける僕に、彼女は気を悪くした様子もなく、
「今日もお疲れ様。大丈夫? 疲れてない?」
と言葉を掛けて来た。
答えていいものか、と戸惑いながら、軽く頷いて見せると、彼女がほっとしたように思った。
口元くらいしか見えないのにどうしてそう思えたのかはよく分からない。
ただ、そうじゃないのかと感じられた。
「そっか。でも、あんまり無理しないでね?」
そう言って、彼女はまたしても消え失せた。
やはりなんの痕跡も残さずに。
状況は、この前とそっくり同じだった。
僕の前にしか現れなかったことも、消え失せた様子も。
掛けていった言葉も、ほとんど変わりやしない。
相変わらず、目的も何も分からない少女に、僕は首をひねる他なかった。
そんなことが、何度か続いた。
決まって、閉鎖空間が発生した後、彼女は現れる。
まるでそれが出現条件であるかのように、現れて、言葉を掛けては消えていく。
しかし、どうやら無害そうだと思った僕は、何度目かに彼女が現れた時、思い切って声を掛けてみた。
我ながら、豪胆だと思う。
これが涼宮ハルヒの影響だとしたら、恐ろしいものがあるくらいだ。
「幽霊さん」
そう、言ってみた僕に、彼女は一瞬驚きを見せた後、不貞腐れるような顔をしたようだった。
「幽霊じゃないよ」
「違うんですか?」
「違う。だって、別に死んでないから」
「じゃあ、生霊ですか?」
僕が問うと、彼女は指を顎に当てて、
「うーん……」
としばらく唸っていたけれど、
「そう、なるのかな? あたしの本来の体は今寝てるわけだし」
「そうなんですか?」
「うん。寝てる間だけ、あたしは出て来れるんだ」
「まだ10時ですよ。随分早寝なんですね」
「うん、なんでかな? お前が大変そうだなって日は、早く眠くなるみたい」
女の子らしい格好と喋り方に似合わない二人称に、僕がいくらか違和感を抱いている間に、彼女は小さな笑みを浮かべて消えてしまった。
「またね」
という一言を残して。
いつもより長い間出現していたけれど、タイムリミットが来たということだったんだろうか。
それとも、本体とやらが目を覚ましたので帰らざるを得なかったのか?
分からない、と思いながらもこれまでほどもやもやしたものを抱かずに済んだのは、分からなければもう一度彼女に会えた時に聞けばいいと思ったからかもしれない。
このところ、閉鎖空間の発生頻度は落ちている。
それでも、少なくとも週に一度くらいは、彼女と接触する時間があった。
次の時は、
「こんばんは」
と決まりきった挨拶の言葉を掛けられたので、
「こんばんは。あなたこそ、毎度ご苦労様ですね」
と言ってみると、彼女は笑ったようだった。
「あたしは、好きで来てるだけだから。お前こそ、大丈夫?」
「ええ。…今日も、お話しませんか?」
「…いーよ」
人気のない路地裏に腰を下ろして、僕は彼女に尋ねた。
「あなたは、閉鎖空間のことをご存知なんですか?」
「知ってるよ」
あっさりと彼女は答えた。
「それは、あなたの本体という人も?」
「うん、本体が知らなきゃあたしも知らないよ」
「そうかもしれませんね。それで…どうして僕のところにだけいらっしゃるんです?」
「だって、あたしは他の超能力者のことなんて知らないから」
「では、どうして僕のところへわざわざ生霊になってまで来てくださるんでしょうか?」
彼女は少し考え込んだ素振りを見せたが、それはどちらかと言うと照れ隠しのようなものだったらしい。
「…それは、やっぱり、お前のことが心配だから、かな。で、本体じゃなくてあたしが来ちゃうのは、本体だとお前に近づけないからじゃないかなって思う」
「近づけない…ですか」
どういう意味だろうと首を傾げると、彼女は少しばかり悲しそうな顔をして、
「本体のあたしがお前に近づくのはおかしいし、お前も迷惑そうな顔、するから」
「すみません」
反射的に謝った僕に、彼女は首を振る。
「いいんだって。それで当然だもん」
そう言われると、これ以上謝っても彼女が居心地を悪くするだけのように思えて、僕は話題の転換を図った。
「あなたの姿は、僕にしか見えないんでしょうか」
「ううん。多分だけど、他の人にも見えるよ。でもあたしは生霊みたいなものだから。…ほら」
と言って彼女が伸ばした手は、地面のアスファルトに難なく潜った。
同じように僕に伸ばされた手は、暖かさどころか、冷たさすら感じさせることなく素通りするだけだ。
「体がないから、触れないの。っていうか、動かせない、って言った方がいいのかな? 力を込めようとするとすり抜けちゃうんだから。でも、触ってる感覚も全然ないから、触れてないって言うのかな? よくわかんないけど、でも、これはこれで面白いよ」
「不思議ですね」
「こんなもんじゃないの?」
そう笑った彼女は立ち上がる。
「そろそろ帰った方がいいよ。明日も学校でしょ? 寝坊したりしたら、イメージが崩れて悪いんじゃない?」
悪戯っぽくそう言って、彼女はまたしても消え失せた。
それが、僕たちのはじまりだったのだと思う。