光は消えない 6



目を覚まし、鈍い痛みを訴える重い腰を上げると、隣りには既に古泉の姿はなかった。
いつものことだが、面白くない。
別に、寝顔を見ていたいとか、目覚めるとベッドに一人ってのは寂しいなんて感傷的な理由があるわけじゃない。
こういう時、過保護なところのある古泉がどうしているのか、予測が付くから、面白くないのだ。
案の定、俺がベッドから下りようとするより早く戻ってきた古泉は、
「おはようございます」
と笑顔で言いながら俺の動きを制し、
「大丈夫ですか? 湿布でも貼っておきます?」
と聞いてきやがったが、
「誰のせいだと思ってんだ、お前は」
「僕のせいだと分かっているから、湿布を用意したんですけど」
「そうじゃなくて、案じるくらいなら、もうちょっと抑えてくれ」
「無理です」
断言しやがった。
「無理ですよ」
念押しするな。
「あなたが、あんまり可愛らしいからいけないんですよ」
そう言って、古泉は俺の頬にキスをする。
うっとりと、酷く幸せそうに。
つられるように古泉を見つめ返せば、もうひとつキスをされる。
「…好きです」
「分かったって」
「でも、言いたいんですよ」
甘ったるく囁く古泉だったが、流石に朝からもう一度なんて無謀なことを仕掛けてくるつもりはないらしく、
「朝食にします?」
と聞いて来た。
「ああ」
「ここで食べますか? それとも、向こうで?」
「ベッドの上で食事するのは病気の時だけで十分だ」
と返して、俺がベッドから下りると、支えるように腰に手が添えられる。
「いいって」
振り払おうとした俺を、古泉は悲しそうな目で見た。
ちょっと待て、その目は反則だろう。
まるで俺の方が悪いみたいじゃないか。
「しんどいんでしょう? …そういう時くらい、過保護になってもいいじゃないですか」
駄目押しするように優しい声で囁かれ、負けた。
「…お前はいつも甘やかしすぎだ」
そう毒づくように呟きながらも、それ以上邪険にも出来ず、古泉に支えられたまま、椅子に座らされた。
不器用な分、丁寧にしようと心がけてくれているからか、古泉の作ってくれる食事は見た目の荒っぽさに反してうまい。
ゴツゴツした野菜の入ったカレーは、少しばかり辛いくらいなのがいい。
古泉がいつものように心配そうな顔で聞いてくる前に、俺は小さく、
「うまいな」
と呟いた。
それだけで、幸せそうに微笑む古泉は俺なんかよりよっぽど可愛いと思うのだが、これに関しては言い始めると古泉が俺に負けじと延々恥ずかしい言葉を並べ立て始めるので黙っておいた。
のんびりと食事を終えた後、俺は立ち上がり、皿を洗いに立った。
「別にいいんですよ?」
という古泉には、
「これくらいさせてくれ。大体、目が見えなくなったって、皿くらい洗えるし、料理だって出来るもんなんだぞ。まだ見えるってのにあまり甘やかすんじゃない」
と言って黙らせた。
ついでに、
「お前は、どこに出かけるか決めてろ」
と言ってやれば、古泉は小さく笑って機嫌を直した。
良くも悪くも扱いやすい。
俺は古泉に背を向けているのをいいことに、自然に任せて笑みを浮かべる。
別に、笑っているのを見せたくないわけじゃない。
迂闊に見られて、その理由を聞かれたくないだけだ。
皿洗いをしながら、俺は古泉らしい気の遣い方に目を細める。
前は、適当に放り出してあったはずの洗剤もスポンジも、他の細々したものまで、いつの間にやら置き場が固定されている。
それも多分、俺のためだと思うと、自然に笑みがこぼれた。
愛されていると思う。
そこに疑念を挟む余地はない。
俺がそれに幸せを感じていることも。
程よく冷えた手をタオルで綺麗に拭って、俺はテーブルに戻った。
点けっ放しのテレビは、日曜日らしく囲碁番組をやっているが、別にそれが見たかったわけじゃない。
ただ単に、政治系の討論番組や子供番組、行けもしない遠方を舞台とした旅番組なんかと比べたら、それの方がいくらかマシと言うだけだ。
古泉のおかげで、囲碁もいくらか分かることだしな。
ぼんやりと白石と黒石の攻防を眺めていると、古泉がぽつりと呟いた。
「久しぶりに、自転車で出かけませんか? 多少ですが、暑さも和らいで来ましたし」
「いいな」
「…このところ、あなたは出かけると言えばバイクばかりで、僕のことを置いていってくれましたしね」
拗ねたように言う古泉に、
「一人で出かけられる時間も限られてるんだから、それくらい許してくれ」
と笑えば、古泉は唇を尖らせた。
「そう言われたら文句も言えなくなるじゃないですか」
「悪い」
夏休みを利用してバイクの免許を無事に取得した俺は、中古のバイクであちこち走り回って夏を過ごした。
まだ免許を取ったばかりだから二人乗りは出来ず、結果として古泉は置いてけぼりになりがちで、どうやら寂しく思っていたらしい。
「チャリで出かけるのはいいが、俺は家に取りに帰らなきゃならんぞ」
ここにもバイクで来たからな。
「必要ありませんよ。二人乗りすればいいでしょう?」
……それがしたかったのか。
「だめですか?」
「だめじゃないが……途中で交代させろよ」
「…分かりました」
渋々ながら頷いても、まだ嬉しいらしい古泉は、本当に締りのない顔をしている。
そんなひとつひとつの表情を、俺はもう覚えちまっている。
だからと言って飽きたりすることもなく、むしろより一層愛しさを感じるのは不思議なのかそれとも当然なのか、経験の浅い俺にはよく分からんが、多分、悪いことではないんだろう。
「行くならさっさと行くぞ。昼飯はおごらせてやるからな、勤労少年」
高慢に言い放っても古泉は嫌がらない。
むしろ喜んでしまうあたり、どMかと罵ってみたくなるんだが、それをやると泣かれそうな気もするのでやめておく。
この数ヶ月で、色々と変わったと思う。
俺も、古泉も。
俺が、失明しちまうことに関して泣いたのはあの一回きりで、あれからは少しも気に病まなくなったのだが、それだって古泉のおかげだと分かっているし、だからこそ、俺は古泉が許容してくれる限り、それから自分のプライドが邪魔しない範囲で、古泉に甘えるようになっている。
古泉の方はというと、少しずつだが、ずっと被りっ放しだった優等生の仮面が剥がれ落ちつつある。
俺が見たいとねだったからだろうか。
表情の変化もずっと幅が広がり、情けない顔も拗ねた顔も、隠さずに見せてくれる。
付き合うようになって、前と違うところが見えてくるようになってきた。
強引なところもあれば、変に自信のないところ、頼りないところもあるということだって、分かってきた。
強引さに振り回されたり、あるいは落ち込んだ古泉をあれこれ手を尽くして慰めなければならないことになったりしながらも、不思議なほどに愛情ばかりが深まっていく。
たまに、鬱陶しいと思っても、100%そう思っているのではなく、精々半分くらいしかそうは思わない。
残りの半分は、当然のように愛しさだの嬉しさが占めている。
今だって、
「そんなに襟ぐりの広いシャツを着たら、キスマークが見えますよ」
などと言ってくる古泉に苛立って見せながらも、本当はそんなに嫌じゃないのだ。
「だったら最初からつけるな」
噛み付くように言っても、古泉は楽しそうに笑っている。
「すみません。でも、あなただって、好きでしょう? キスマークをつけられるの」
「後で困るのは俺なんだぞ」
不貞腐れて見せれば、古泉は一層笑みを深めて、鎖骨の下に残したキスマークを愛しげになぞった。
「いいじゃないですか。…わざわざ他人にまで鎖骨を見せ付けなくても。僕だけの特権、ってことにしておいてやってください」
「全く……お前は本当に独占欲が強いな」
呆れ半分、嬉しさ半分で呟けば、古泉は意地の悪い流し目を寄越し、
「お嫌いですか?」
「…嫌いじゃないから、さっさと服を選べ」
素直に白旗を揚げた俺の頬にキスをして、古泉は俺が着ていたTシャツを遠慮なくむしり取った。
それから着せ替え人形よろしく着せられたのは、見覚えのある淡い青色の半袖シャツだった。
元からゆったりしているそれが、余計にだぶついているのは気のせいじゃあるまい。
「サイズが合ってないと思うんだが?」
抗議の意味を込めて睨む俺に、古泉は子供を説得するような調子で柔らかく、
「これくらいなら大丈夫ですよ。よく似合ってます」
と述べる。
何より雄弁なのはその目だ。
おそらく、可愛いだのなんだのと思っているのだろう。
ため息を吐きながら、
「不公平だ」
と呟いてみた。
「何がですか?」
「お前は俺に自分の服を着せてご機嫌かも知れんが、俺としてはお前との体格差をまざまざと見せ付けられるようで面白くないし、何より、俺の服をお前に着せるってのは難しいだろ。だから、不公平だと言った」
「ああ、そういう意味でしたか。――では、これでどうです?」
そう言って古泉は、昨日のあれこれの前に外されて以来、ベッド脇のサイドボードの上に放置されていた俺のチョーカーを取ると、手早く身に着けた。
いくらか長い後ろ髪を、軽く持ち上げて留め金を止める仕草がやけに色っぽ……いや、なんでもない。
とりあえず、画像どころか動画として脳内フォルダに保存した。
思わず少しばかり顔を赤らめながら、その本当の理由を誤魔化すべく、
「お前はどうしてそういう恥かしいことをすぐに思いつくんだ」
「それを言うならあなたの方こそ、どうしてそうやることなすこと一々可愛らしいのかとお聞きしたいですね」
くすくすと楽しげに笑って、古泉は俺の手を取る。
「さて、準備も出来ましたから、出かけるとしましょう」
「…そうだな」
諦めと共に頷いて、俺たちはこれ以上時間を無駄にしないようにするべく、部屋を出た。
古泉が自転車置き場からチャリを引っ張り出してくるのを待って、古泉の後ろに乗る。
「しっかりつかまっててくださいね」
と言われるまでもなくがっちり腰に手を回してつかまってると思うんだが、これでまだ足りないのか?
「足りない、って言ったらもっとしがみついてくれます?」
「冗談はほどほどにして、さっさと行け」
これ以上の密着は物理的に不可能だ、馬鹿者。
楽しげに笑った古泉が、もう一度だけ俺がちゃんとつかまっているのを確認した後、チャリをこぎ出すと、涼しい風が感じられ始めた。
まだ残暑も厳しく暑いってのに、こんだけ密着してる俺たちはどう見えるんだろうな。
二人乗り慣れしてないようにでも見えたらまだいいんだが、これで噂になったらどうするんだろうか。
なったところで、今更古泉を手放せやしないことは分かりきってるので、全く以って自虐的な思考だ。
俺はそれを振り切るように、古泉の腰をきつく抱きしめた。
「スピード緩めますか?」
俺が怖くなったとでも思ったのか、そう聞いてきた古泉に、
「いや、むしろもっとこげ」
と言ってやる。
「了解しました」
軽い笑い声が、風に乗って耳へと届く。
ぐんとスピードを上げると、更に風が強くなる。
その風の感触も音も心地好い。
暑いはずなのに、古泉の体温は離れがたいほどに気持ちがよくて、頬を押し付けるようにしてしがみついた。
会話はほとんどなかった。
信号なんかで止まる時にちょっと言葉を掛けられたり、行き先に関して少し話したりしたくらいだ。
それでも、楽しかった。
感じる風は、バイクの方が強いし、スピードだってある。
暑いんだからしがみついてたら嫌になるはずだ。
それなのに、こっちの方がいいと思った。
そうして、しばらく走った挙句、土手でチャリを止めた。
どうやらまだ衰退の気配もなく生い茂る夏草の間に影を落とす木を見つけ、その下に腰を下ろすと、いくらか乾いた川風が吹き抜けていった。
「気持ちいいですね」
「だな」
「…腰、大丈夫ですか?」
「…疲れた」
そう返して仰向けに寝転がると、古泉も横になった。
「天気もいいですし、少しお昼寝でもしますか?」
「そうだな…」
こちらを見つめてくる優しい笑顔を横目に、俺はそっと目を閉じた。

また、あの夢を見た。
俺はやはり古泉のあの部屋にいて、だが、今回はひとりきりで家にいるようだった。
部屋の中には俺以外の気配はない。
俺はひとりで、食事の支度をしていた。
見えなくても案外分かるもので、ためらうことなく手を動かし、包丁を使う。
今はガスのはずのコンロも、電磁調理器に変えられているようで、余計に危なげなく扱っているようだ。
温かいスープを味見して、にんまりと笑って電源を切る。
後は帰りを待って盛り付けるだけ、ということらしい。
手を伸ばして、時計のボタンを叩くと、
「7時18分です」
とデジタル処理された音声が時間を告げる。
もうそろそろ帰ってくる時間だろう。
そう思うだけで、幸せで、楽しみで、お手軽だなと思いながら、笑みがこぼれた。
そんな夢から覚めて体を起こすと、古泉がまだ眠っているのが見えた。
常に、と言っていいほど俺より先に目を覚ますこいつの寝顔を見るのは珍しい。
どこか無邪気であどけない寝顔を見つめていると、それだけで何か堪らないような気持ちになってくる。
愛しいだとか好きだとか、とにかくプラスの感情が溢れて、それで胸がいっぱいになり、他の何もなくなるような感覚に包まれる。
今見た夢のせいもあるのだろう。
本当に、将来、ああなれたら。
古泉の帰りを待つ、それだけでなく、夕食の支度や他にも家事をしながら、古泉を待てたら。
そんな風に、ただ支えられるだけではなく、助け合いながら、暮らしていけたなら。
それに勝る幸せはないに違いないと思いながら、俺は古泉の寝顔を見つめた。
それをしっかりと脳裏に刻み付けて、それから、もういいかと古泉に顔を近づける。
寝息の音を聞きながら、至近距離で古泉を見つめる。
キスしたい、と思った。
そうしたら、古泉を起こしてしまうだろうし、これだけよく眠っているんだからもっと眠らせてやってもいいとは思ったのだが、我慢出来ない。
それくらい、愛しくてならない。
だから俺は、そっと触れるだけのキスを落とし、さっと身を引いた。
古泉は少し身じろぎした後、薄く目を開く。
眠りを妨げられたってのに、酷く嬉しそうな顔をして目を細めながら、優しい瞳で俺を見つめる。
「…どうせなら、起きてる時にしてくださいよ」
「起きてる時にもしてるだろ」
「そんなこと、滅多にないじゃないですか」
「うるさい」
言いながら、もう一度古泉にキスをしてやると、一度は驚きに見開かれた目が細められるのが見えた。
「…これで、文句ないだろ」
「はい」
嬉しそうに笑って、古泉は俺を抱きしめる。
「愛してます」
それには流石にうるさいなんてことは言えず、俺は黙って頷き、求められるままキスをした。