光は消えない 2



俺に、発症の予兆、あるいはその初期症状とでも言ったらいいものが現れたのは、高校2年の初夏のことだった。
定期的に通っている眼科で、そう言われても、目の前が真っ暗になるような感覚は訪れなかった。
はあ、そうですか、と頷いただけだった。
いつか来ると言われていたそれが、案外早くやってきただけの話だ。
とはいえ、全くショックじゃなかったというわけでもない。
早かったな、と。
もう秒読みが始まるのか、と。
どこか遠くで思ったと言う程度には、ショックを受けていたらしい。
いざ発症となると、案外忙しくなるもので、俺は少しずつ身の回りの整理を始めた。
発症したらすぐに見えなくなるわけでもないのだが、どうせ見えなくなってしまうのなら、くだらないメモや人の目に触れさせたくなりものは見えるうちに処分しておくべきだろう。
見えるうちにじっくり見ておきたいというものもあった。
公的にも色々と申請しなくてはならないものなんかがあって、ばたばたしたりもした。
そうこうするうちに、初夏の涼やかな風は盛夏の熱風に変わり、過ごしやすいとは言いかねるような気候になったのだが、だと言うのに俺は、暇を見つけては自転車であちこち走り回るようになっていた。
理由は簡単で、単純さの余り、笑いたくなるほどである。
目が見えなくなったら、自転車には乗れない。
だから今のうちに乗っておきたかったという、ただそれだけだ。
そうして、吹き抜ける風やら、重いペダルの感触、背中を伝う汗まで、記憶に刻み付けておきたいと思った。
遠くに見える景色も、あまり変化はない。
昔からほんの少しずつ変化してきたものの、なじんできた景色であることに変わりはない。
それが、泣きたくなるほど綺麗で、美しいものに思えた。
もしかすると俺は、ただひとりになりたかったのかもしれない。
そうして、改めて考えたかったのかもしれない。
これからどうするのか。
何かやりたいことはないのか。
やり残したことはないのか。
考えれば考えるだけ浮かんできた。
自転車で漕ぎ出すたびに思い浮かぶものを忘れないように抱えて帰り、また時間を見つけては自転車を漕いだ。
勉強にも積極的になった。
本を読むことにも貪欲になった。
今しか出来ないとなれば、俺のような怠惰な人間であっても、案外必死に食いついていけるものであるらしい。
今日も今日とて、部室で本を読みながらオセロをしていると、古泉がなにやら心配そうな笑顔を作って言った。
「なんだか、最近お忙しそうですね」
「…まあな」
胸がかすかに疼く。
この期に及んでも、俺はまだ、両親以外の誰にも病気のことを明かしていない。
妹にすら、秘密にしている。
谷口や国木田は勿論のこと、SOS団の誰にも言っていない。
そのせいで、胸が痛んだ。
発症したといっても、まだ視野は大して狭まっていないし、以前と変わらない生活を送ることも出来ている。
変化は緩やかで、この調子なら、高校在学中くらいは余裕でこのままいけるんじゃないかという見込みだから余計に、俺は言わないままでいたいと思っていた。
気を遣われたくないというのが、かなりわがままなことであることくらい、分かっている。
実際俺のばあさんは、祖父がぎりぎりまでその病気のことを黙っていたことを、かなり怒ったらしい。
はじめから知っていたら、もっと出来ることがあったのにと、いまだに悔やんでいる。
ただ、ばあさんには悪いのだが、俺には祖父の気持ちの方がよく分かった。
知られてしまえば、知らなかった頃には戻ってもらえない。
忘れてくれといっても、忘れてはもらえないだろう。
それなら、知られないままで、それまでと変わらずに過ごしたいと思うのだ。
改めて思い出を作るより、自然に生まれていく思い出の数々を、記憶に刻み込みたいと。
「お前がいつまで経っても上達しなくて退屈だから、平行作業してるんだろ」
と俺は古泉に嘘を吐く。
古泉は苦笑して、
「すみません」
と謝った。
別に謝らなくてもいいんだがな。
そう思いながら、俺は古泉の表情をも記憶する。
長門が本を読んでいる姿も、朝比奈さんの表情も、ハルヒのきらきらした瞳も、何もかも、全部。
可能な限り覚えておきたい。
いつかは忘れてしまうのかもしれないが、忘れたくない。
忘れないよう、強く記憶にとどめたい。
今の俺は、本当に欲張りで貪欲だ。
やりたいことが溢れている。
失明したら絶対に出来なくなってしまうことがあるなら、それまでにしておきたくて堪らないのだ。
全部やってやったぞと言う達成感を持って、新しい世界に行きたいとでも言ったらいいのだろうか。
だから、あれこれ画策している。
学校側に事情を話せる余裕が出来たらそれで許可を得てバイクの免許を取り、あちこち走ってみたいとも思っているし、一人で行動出来るうちに、あえて一人きりでいろんな場所に行っておきたいとも思う。
知りたいことも多いし、見ておきたいことも多い。
一日一日が酷く短く思えるほどだ。
だらだらと眠ることさえ惜しく思える。
とにかく、やっておきたいことがいくらでもあった。
たとえば、目が見えなくなった時にどうやって生活するのかということも考えなくてはならないことだ。
必要最低限のところは調べればすぐに分かるし、知ってもいる。
だが、それ以外の部分――たとえばゲームなんかの娯楽に関することだな――では、自分で工夫する方法を考えなければならん。
本を読み、文字を目で追いながら、俺はオセロの石を手の中で転がして考える。
チェスや将棋は、記憶力さえきちんと働かせられたら、失明しても出来るだろう。
実際、そうしている人もいると聞く。
記憶力がいいとは言い難い俺では少々骨が折れそうだが、試みたいとも思う。
オセロは……どうだろうな。
記憶していけばなんとかなりそうな気もするが、あれこれひっくり返すのは混乱しそうな気もする。
なんとかして、白と黒を区別できるように工夫したらいいだろうか。
たとえば、片面に凹凸をつけるとかな。
他のはどうだろう、と古泉のボードゲーム置き場に目を転じかけ――、俺はそこで、首を傾げた。
…なんで必死で知恵を絞ってるんだ、と。
俺は別にボードゲームが好きなわけじゃない。
ただ、古泉との付き合いで、部室での暇つぶしとして、やっているだけだ。
その証拠に、家では妹にしつこくねだられない限り、しやしねえ。
ここでだけ、この部室でだけだ。
それも相手は古泉だけで。
それなのにどうして、俺は失明してもまだする気でいるんだろうか。
高校の間くらいは、持つだろうと言う見込みなのに。
卒業すれば、ボードゲームなんて関係ないだろ。
そう思うと、胸の中がきしんだ。
疼痛とは違う痛みに、眉が寄る。
「…どうかしました?」
古泉が怪訝な顔をこちらに向けるのへ、
「…いや、なんでもない」
と返すが、それも嘘だ。
なんでもないわけがない。
きしきしと胸は痛むし、掴みきれない感覚に頭痛まで発生しそうですらある。
ゲームが出来たって、妹と遊ぶ気はない。
親父とするつもりもない。
するとしたら、やっぱり目の前にいるこいつだろう。
失明しても、俺はこいつとゲームがしたいのか?
それとも、失明しても、こいつと付き合っていくつもりでいるんだろうか。
それはおそらく、卒業後のことなのに。
まさか、あの先日見た夢を本気にしちまっているんだろうか。
卒業してもずっと、こいつといるなんて、馬鹿げた夢を。
もう既にほとんど内容も覚えていない夢だってのに。
…分からんな、と思いながら、俺は盤上に石を置く。
それからぱちぱちと音を立てながら、石をひっくり返していく。
「これはまた、大量に取られてしまいましたね」
と笑った古泉は考え込むように手の平で石を弄び、もったいぶるようにそれを盤上に置いたが、さっきのは考え込むフリに過ぎず実際には何も考えていなかった――とでも思いたくなるような場所に置いた。
「お前、少しは考えろよ」
「考えたつもりなんですけど……」
「こんなところに置いたら、後で困るだろ。取れる石がなくなるぞ」
言いながらも、俺は容赦なく自分の手を進める。
古泉がいくらか情けない笑みを浮かべる、その笑みも記憶に刻む。
……ああそうだ、朝比奈さんのコスプレ写真コレクションもちゃんと消さないとな。
急いだことはないかもしれないが、忘れないようにせねば。
そんな風にして、俺は少しずつ準備を整える。
見えなくなってしまった時に備えて。

その頃、俺はまた妙な夢を見た。
やはり、視覚情報のない、真っ暗な夢だ。
大人しく座った俺は、何も見えないくせに目の前に真っ直ぐ手を伸ばした。
まるでそれが見えているかのように瞼の裏に描き出されるおぼろげな映像。
暗闇に映るのは、チェス盤だ。
その向こうには、古泉がいるのが分かる。
「お前はいつまで経っても上達せんな」
「あなたの上達の方が早いだけですよ。僕だって、少しは強くなってます」
「嘘吐け」
そう笑いながら、ナイトを動かす。
討ち取られたポーンを古泉が弾き出し、自分の手を進めながら、
「ポーンをaの4へ」
と言うと、描き出された映像のポーンが進む。
「…頼むから、本気で上達してくれ」
面白くない、と呟いても、古泉は気を悪くする様子もない。
「あなたは本当に見えているように動かしますね」
「そうでもないだろ。時々、ずれてるのをお前が直してることくらい、知ってるんだからな」
「それが分かるだけたいしたものだと思いますよ」
そう笑った古泉が、じっとこちらを見つめているのが分かる。
「…穴が空くぞ」
もう一手、ルークを動かしながらそう言うと、古泉は声を立てて笑う。
「よく分かりますよね。本当は見えてるんじゃないですか?」
「んなわけあるか。…お前の行動パターンなんて、お見通しなんだよ」
呆れながら呟けば、古泉が破顔一笑した。
現実では見ることのないような、明るい笑みだった。
どうしてか、その笑顔は実際に見えているかのようにはっきりと見えた。
本当に古泉が笑っているのか、なんて疑いを、夢の俺は微塵も抱かなかった。
古泉を心から信頼しきっているのが分かって、いっそ気恥ずかしくなるくらいだ。
「一手一手頭の中にスコアを描けるなんて、いい記憶力ですよね」
「慣れだろ、こんなもん」
「違うと思いますよ?」
くすりと笑った古泉は、やけに甘ったるく、
「チェスなんて、僕としかしないのに」
と囁いた。
「…他のやつとして欲しいのか?」
「そんなまさか。…いえ、あなたがしたいんでしたら止めませんけどね」
そう言っておいて、古泉は複雑そうに続けた。
「嬉しいですよ。あなたが失明してしまったら、ボードゲームなんて出来なくなるとばかり思ってましたから」
「実際出来なくなったのもあるだろ」
「それはそうですけどね。でも、十分ですよ。チェスも将棋もオセロもダイヤモンドゲームも出来るんですから」
「時間がかかるがな」
「いいんですよ。元々、ゲームをするのはあなたとコミュニケーションをとるためなんですから」
「…そうかい」
「あなたとするから、楽しいんです」
そう強調する古泉が、優しく微笑む。
そのくせ、
「…あなたは、どうですか?」
と聞いてくる声はやけに自信なさげで、笑いたくなった。
「……楽しくなけりゃ、するわけないだろ」
「そう言っていただけて、嬉しいです」
「へらへら笑ってないで、さっさと手を動かせ」
「すみません。話す方が楽しくて」
「じゃあ、やめにするか?」
「それも勿体無いんですよね」
「…言っとくが、そうやって時間稼ぎしたところで、俺の記憶があやふやになったりすることはないぞ」
「そんな卑怯なこと狙ってませんよ」
文句を言いながらも、古泉の声は笑っている。
それとも、幸せそうにしているとでも言えばいいのだろうか。
「……ああでも、ちょっと試してみたいですね」
いくらか意地の悪い声に、意地の悪い笑み。
「古泉?」
夢の俺が怪訝な顔をすれば、古泉はあえてにっこりと笑ったようだった。
「試してみて、いいですか」
そう言った古泉が移動した気配がした。
そうして、手が触れ合う。
優しく抱きしめられ、唇を塞がれる。
「…お前、な…ぁ……」
文句を言っているくせに、夢の俺の声は甘い。
「すみません。我慢出来なくなりました」
そう笑った古泉の甘い香りが鼻を掠めて目が覚め、俺はまたもやのた打ち回る破目に陥ったのだった。
一体何が起こってるんだ?