この作品は、短編「光は消えない」を加筆修正したものです
元の作品と重複する部分も多くみられますが、
違う部分もありますので、
適当に楽しんでいただけたなら幸いです
物をじっくり見るのは、俺の癖のようなものだ。 ひとつひとつのものを、あるいはほんの少しの仕草を、表情の変化を、見落とさないように努める。 酷使しようがしまいが、いずれは見えなくなる可能性が高いこの目に、精一杯の仕事を、一生目が見えるままの人間に負けないくらいの働きをさせてやりたいなんて思ったわけじゃないのだが、気がつくと、それが癖になっていた。 大抵のものは、目を閉じても思い描ける。 だからだろうか。 俺の夢はあらゆるものがはっきりしているように思う。 登場人物の顔がぼやけてよく分からないということは滅多にないし、街なら街でよく見知った場所ならば綺麗に見える。 そんな夢の話をすると、ハルヒは意外そうな顔をして、 「へー、じゃああんた、明晰夢とか見るタイプ?」 と聞かれた。 明晰夢ってのは、夢を夢として認識して見ている夢だ。 そういう夢だと、夢を思う通りに変えたりすることも可能らしいが、それ、俺の話と関係あるのか? だが、実際どうだろうな。 一度、高一の5月頃に酷い明晰夢を見て、目が覚めてから床の上でのた打ち回ったというような記憶はあるが、あれは非常に特殊な例だろう。 だから俺は、 「そういうのは見んな。ただ、朝起きて、はっきり記憶が残ってることは多いし、よく言うようなシュールな夢はあんまり見ない。筋書きがおかしいって程度なら見るが、物の形が歪んだりってのはないな」 と答えた。 「それはそれでつまんないわね」 そう言いながらも、ハルヒは何やら考え込み、 「じゃあ、夢と現実がごっちゃになることとかある?」 と聞いてきた。 「……ああ、そういえばそういうことなら覚えがあるな」 ぽつりと呟いただけで、ハルヒは身を乗り出してきた。 「たとえば?」 「子供の頃に見た夢と現実がごっちゃになったことがある。最近になってもたまにあるな。あるはずだと思って本を探してたら、それは夢で見ただけで、現実にはまだ買ってない本だったとか」 「どうせなら、予知夢とか見りゃいいのに」 「かもな」 と笑ったものだが、まさかそのせいだったのだろうか。 その晩俺は、予知夢めいた、奇妙な夢を見たのだ。 正確に言うと、見たとは言えないのかもしれない。 何しろ、夢の中で俺の目は既に見えなくなっていたんだからな。 だから、与えられる情報は音声が主で、他にもかすかな匂いだとか身体感覚があるにはあったが、薄いものだった。 真っ暗な視界を、恐れてもいいはずだってのに、夢の俺はそれをなんら恐ろしいと思っていなかった。 そのまま体を起こしても、何も怖くはない。 極普通のことのように、受け入れていた。 何の不自由もなく。 そこへ突然、人の声がした。 「おはようございます。今日は早く目が覚めたんですね」 優しく柔らかな声は、やけに耳慣れたものだった。 それを不審に思ったっていいし、そもそもいきなり声を掛けられたんだ。 もっと驚いたっていいはずだってのに、夢の俺は少しも動じず、小さく笑ったようだった。 「たまにはな。…というか、家の中くらい一人でも平気なんだから、そう慌てて駆けつけて来なくてもいいんだぞ」 どこをどうしたら慌てて駆けつけてきたなんてことが分かるのか説明してもらいたいくらいなのだが、夢の俺にはそれが分かったらしい。 多分、相手の声の調子とか足音などで分かったんだろう。 「それは分かってますよ。過保護にするばかりがいいことではないってことも、重々承知してますとも。でも、いいじゃないですか、少しくらい。…あなたを起こすのが、僕の楽しみなんですから」 「あほか」 毒づきながら、その声に毒気はない。 まるで、好きだとでも告げるような柔らか味を含んでいた。 「今日はお休みですから、一日一緒にいられるんですよ」 「昨日聞いた」 「散歩にでも出ませんか?」 「そうだな……」 「遠出したければ車を出しますよ。それとも、バイクにします?」 「あー…それならバイクの方がいいな」 「今日は結構暑いですよ? 大丈夫ですか?」 「いいんだよ。乗ってりゃ涼しいから」 「分かりました」 答えたそいつは小さく笑って、そっと俺を抱き締めた。 いつものことだとでもいうのか、夢の俺はいきなりのそれにも驚きやしねえ。 「あなた、二人乗りするの好きですよね」 「バイクが好きなんだよ」 「自転車でも好きじゃないですか」 「一人じゃ乗れんからな」 「僕も、好きですよ。あなたを乗せて走るの」 「はぁ?」 「いつもなかなか頼ってくださらない、あなたがぎゅっとしがみついてくれるでしょう?」 小さな笑い声が顔に触れる。 「そうしなきゃ落ちるからだ」 「でも、嬉しいです」 ふわりと唇に何かが触れる。 「愛してます」 「…知ってるっつうの」 「でも言いたいんですよ」 「分かったから、さっさと飯」 「はい」 名残惜しげに離れて行った腕に、かすかな寂しさを感じたところで目が覚めた。 「…なんつう夢だ」 思わず呟いたね。 目が見えなくなっているのはまだいい。 そういうことだってあり得るだろう。 その可能性は他の奴らと比べて俺の方がぐっと高い。 だがしかし。 「なんで俺が古泉といちゃつかねばならんのだ…!」 夜中だからと気を遣いながら小声で叫んだ俺は、去年妙な夢を見た時以上の勢いで床を転げまわった。 ただの夢だ、ああそうだとも。 言い聞かせながら、ハルヒの発言を思い出し、更に複雑な気分に陥る。 これがもし本当に予知夢だったら、と思うといくらか血の気が引いた。 なんでそんなことになるんだ、ありえんだろう。 しかし同時にこうも思う。 夢が願望のあらわれだとしたなら、俺は古泉とあんなこっぱなことをしたいという願望があるということになっちまう。 それならまだ予知夢の方が……マシじゃないな、ああ、全然マシじゃない。 どっちにしろ酷すぎる。 神様ってのが残酷だと思うたびに、俺はハルヒ=神様説なんてぶっとんだものに同意してやりたくなるのだが、今回も強くそう思ったとも。 夢見が悪かったせいもあって、その日の俺の機嫌は低空飛行を続けた。 放課後になり、部室に行けば朝比奈さんの笑顔とお茶に癒されて、いくらかマシな気分になったものの、古泉を見るとどっとテンションが下がった。 いや、古泉は悪くない。 悪くないのだが、そうなってしまうことについては容赦してもらいたい。 「今日は、いつにもましてご機嫌麗しくないようで」 茶化すような調子で言った古泉を軽く睨んでやると、古泉はいつもながらの作り笑顔を浮かべていた。 「夢見が悪かったんだよ」 「それはそれは。…一体どのような夢を見たんです?」 「誰が言うか」 「あなたがそこまで言うなんて、どんな夢なんでしょうね」 面白がるように言ってはいるが、それ以上聞き出そうとするつもりはないらしい。 大人しく引き下がった後は、いつものようにオセロを引っ張り出してきた。 そうしてちらりとこっちを見てくる。 …お前な、横着せずに口で言え。 「だって、あなたには通じるじゃありませんか」 そう言って笑う顔は楽しげで、あまり作り笑いっぽくなかった。 少しばかりのぞく甘えに似たものに、くすぐったくなるのは、夢のせいだ。 あの夢の古泉も、こんな顔をしているんじゃないかと思うくらい、似たような声を出していた。 甘えと好意の滲んだ声。 ……って、それはそれで古泉に失礼な話だな。 こいつが俺に対して抱く好意なんて、仲間意識程度のもんに過ぎないだろうに。 すまん古泉、と口に出して詫びる代わりに、誘いに応じてやることにした。 ただし、素直に応じてやるのは癪だったので、 「チェスなら付き合ってやる」 と言ってやると、古泉は機嫌を悪くもせずに、いそいそとチェスを取り出してきた。 こういう時に思うのは、こいつもそれなりに、「普通の高校生」として過ごす時間を楽しんでいるんじゃないかということだ。 それも、大して無理をすることもなく。 それなら、少々の不自然な作り笑いや面白くない隠し事にも、目を瞑ってやってもいいかと思うくらいには、俺もこいつを気に入っているのだろう。 さて、俺には物をじっくり見るということのほかにも癖がある。 点字をなぞる癖だ。 なぞるだけで読めないのならまだ普通なんだろうが、俺にはちゃんとそれが読める。 それが読めなくなったりしないよう、鈍ることのないよう、俺は点字があるとそれに触れて読んでみる。 そうして読めることを確認しては、安堵とは言い難いため息を漏らすのだ。 今日も今日とて、ハルヒに連れて行かれたデパートで、エレベータのボタンを押した俺は、習慣的にその横に浮き出た点字を読んだ。 『うえ』 ときちんと読み取れるということは、鈍っていないようだが、これを使う日はいつ来るんだろうな。 いや、使わないままでいた方がいいに決まってはいるんだが。 思わずため息を吐けば、 「なによ、辛気臭いわね」 とハルヒに言われ、 「ああ、すまん」 反射的に返した俺を、心配そうにいくつかの目が見ていた。 あえて笑顔を浮かべながら、俺は答える。 「別に、大したことじゃない。月曜提出の課題を忘れてたことを思い出しちまってな」 「馬鹿ね。それくらい、帰ってちゃっちゃと片付ければいいのよ」 「全くだ」 ハルヒに同意を示しながらも、俺の胸は小さく疼く。 この世の中に、何一つ秘密を持たない人間が存在しないのならば、おそらく全人類共通の疼痛であろうそれを感じながら、俺は今日も、秘密を秘密のまま隠匿することを選んだ。 言ってしまえば、この疼痛からは解放されるのかもしれない。 だが、それによって何かが変わってしまうのは間違いないことだと、俺の不足がちな頭ですら予想出来る。 だから俺は、何も言わない。 言わなくていい。 今は必要のないことだ。 この秘密は、まだしばらく抱えておけばいい程度のものでしかない。 極個人的な問題だからな。 そこには、宇宙人も未来人も超能力者も神様も何も関係ない。 ただ、俺がそのように生まれたというだけの話である。 あまり一般には知られていないことだと思うが、年を取るにつれて段々と視野が狭くなっていき、やがては失明するという病が存在する。 原因はいまだによく分かっておらず、治療法も確立されていない。 かといって奇病というほど珍しいものではない。 遺伝とは無関係に出てくることもあるのだが、少々遺伝的要因が強いのか、ある家系に多く出たりもする。 ……俺にも、その要素が受け継がれていた。 発症がいつになるかは人それぞれなので一概には言えないのだが、高齢になってから発症する人もいれば、まだ幼いうちに発症し、人生の大半を光に乏しい世界で過ごすことになる人もあると言う。 発症してから、完全に全盲になるまでの期間も人それぞれで、数年のうちになる人もいれば、何十年とかかる人もあるという。 全盲までには至らない人もいる。 手術で治る人も、薬で治る人も、進行を止められる人もいないわけじゃない。 そうは行かない人の方が多いようだが。 うちの家系だと、俺以外にも、俺の祖父がこの病を持っていた。 俺が生まれた頃にはまだいくらか光を感じられたようだったのだが、俺が物心のついた頃にはすでに失明していた。 だから祖父は、妹の顔を知らない。 ただその小さな顔を撫でては、可愛い可愛いと顔をほころばせていた。 「いいか、」 と祖父は俺の名を呼んだ。 説教するような調子だが、別に説教をするわけではない。 むしろ、申し訳のなさのようなものが滲んでいたのは、俺の持つ病の因子が、間違いなく祖父から受け継がれたものだったからだろう。 「目が見えないからといって、何も見えなくなるわけじゃない。余計なものが見えなくなって初めて分かるものも多い」 どこか哲学的ですらある言葉は、まだ幼い俺にはよく分からなかった。 今でも、ちゃんと分かっているのか怪しいもんだ。 ただ、なんとなく分からないでもない。 見えるものが全てなんて馬鹿げたことは思わないし、視覚情報が実はたいしたものじゃないことも分かっている。 何より、祖父は失明してなお新しいことにチャレンジするような人だったし、人生を楽しんでいたから、俺もどうせならそうなりたいと思った。 祖父は、俺に色々なことを教えてくれた。 点字を教えてくれたのも祖父だし、脳内に地図を作ることを教えてくれたのも祖父だった。 そうすれば、目が見えなくなっても、ひとりで出歩けるからと。 点字にせよ、脳内地図にせよ、いつか使う日が来るかもしれない。 そんな日は一生来ないかもしれない。 来ないのが一番いい。 それは当然だ。 だが、来たとしてもそれはおとなしく受け入れるだけのことだ。 諦めるんじゃない。 逃げるんじゃない。 むしろ、受け入れることこそが、真正面からこの病に向き合うことだと思う。 光が感じられなくなることで見えてくるものもあると、祖父は口癖のように言っていた。 あるいは俺は、その新しい世界を見てみたいのかもしれない。 見えないことで知る、世界の美しさとやらを。 |