大混乱

古泉一樹と言うやつは本当に謎だらけで訳の分からない人間だということくらい、それなりに長く、それなりに浅からぬ付き合いのおかげでよく分かっているつもりだった。
それはおそらく、あいつが作られたキャラクターを演じている面があるからだと、そう思って納得もしていたのだが。
……素の状態であるはずの部分を見るほどに、分からなくなるのは何でだろうな？
本当に、古泉は分からない。
ノーマルな性嗜好の持ち主のはずだってのに、俺と付き合うことを了解してくれたことも分からないし、俺を好きだと言ってくれるのも分からない。
それが、葛藤の末とかいうならまだ分からないでもないのだが、案外すんなりと受け入れたのが理解出来ない。
これまでに俺が好きになったやつだって、ノン気は大抵、冗談だろうと笑い飛ばしたり、引くのが当たり前で、戸惑いもしないやつなんていやしなかったってのに。
古泉はまるで、性別なんて大した問題ではないとばかりに、受け入れた。
本当に、なんなんだろう。
そうして、性別なんて関係ないとばかりに振舞ってくる。
俺のことを好きだと言ってくれた。
思いがけない、それこそ俺が夢想だにしなかったことすらしてくれた。
だから、俺のことを好きだというそれを疑うのは失礼だろうと言う程度に、ちゃんと認識しているつもりだ。
それでも、分からない。
何で古泉はこんなに、俺なんかにまで優しいんだろう。
優しくされたくないわけじゃない。
酷くされたいわけでもない。
俺にそんな被虐趣味はない。
ただ、俺が好きになってきたやつも付き合ってきたやつも、古泉とはあまりにタイプが違った。
それは外見とか性格だけではなく、俺に対する扱い方もそうだ。
あまりに優しくされすぎると、かえって不安になる。
嘘や絵空事や、そうでなければ俺の身勝手でわがままな夢なんじゃないかとさえ思えてしまうから。
それなのに古泉は、
「かばん、持ちますよ」
と言い出した。
帰り道での突然の発言に驚き、
「へ？」
思わず間の抜けた声を上げるほどに戸惑う俺にも構わず、いきなり俺のかばんを取り上げた古泉は、優しく笑う。
作り笑いとは少し違う、柔らかな笑みに思わず見惚れたが、俺は慌てて理性を呼び戻し、
「いいって」
と取り返そうとしたのだが、古泉はすばやく反対側にかばんを持ち替えると、
「だめです。持たせてください。僕がそうしたいんですから。…ね？」
くすくすと、悪戯する子供のように笑いながら、軽く小首を傾げて言われると、俺に勝ち目は全くなくなる。
ああくそ、かっこよすぎだろ、こいつ。
俺が抵抗しなくなったのを見て取った古泉は上機嫌に、
「こうでもして、態度で示さないと、あなたには通じないようですからね」
なんて、ちゃっかり俺に責任を転嫁する。
居心地が悪くなりそうなほどに優しくされてから、一転して図々しさを見せられると、こっちも甘えていいんじゃないかと思えてしまいそうになるのだが、これだってきっと古泉の作戦なのだろう。
そんな風に人の気持ちを操るなんて、こいつは本当に人の扱いがうますぎるんじゃないか？
そこに不安を感じると、もうひとつ余計な不安が頭をもたげてくる。
俺にだってこんな風に優しいんだから、他の……女子にはきっともっと優しくするんだろうな、なんて。
馬鹿げたやきもちだ、なんて笑い飛ばしたい気持ちは俺にだってある。
だが実際、不安なんだ。
知れば知るほど、作っていないキャラクターであっても古泉は優しくて魅力的だし、そうであるほどに、俺なんかと付き合ってくれるわけが分からなくなる。
「どうかしましたか？」
心配そうに顔を覗き込まれて、俺は慌てて首を振った。
「いや、別に」
古泉が俺に何か言おうとしたところで、ハルヒがこちらを振り向き、怒鳴った。
「こらキョン！　古泉くんに何させてんのよ！」
あーあ、見つかったか。
そういうことだから俺のかばんを返してくれ、と俺が言うより早く、古泉がにこやかに、
「いいんですよ、涼宮さん」
とハルヒに反抗するようなことを言い出したので、俺は本気で目の玉が飛び出るかと言うほどに驚かされた。
驚く俺には構わず、古泉は極々普通の調子で、
「罰ゲームなんです。今日も僕が連敗記録を更新してしまったものですから」
と朗らかに嘘を吐いた。
嘘を吐いておいて、俺には悪戯っぽくウィンクを寄越す。
「そういうことなら仕方ないけど、古泉くんってどうしてそんなに弱いの？」
と言うハルヒには、古泉は作り笑顔のままで、
「彼が強い、ということでしょう」
と大法螺を吹く。
そんな風に古泉がハルヒを誤魔化すのを見ていると、どうしてだろう、腹の中がぎゅっと冷えていくような気がした。
何でだろうな。
古泉が俺のために嘘まで吐いてくれたことは嬉しいのに、そんな風に簡単に嘘を吐けるのかと思うと悲しくて、苦しくなってくる。
ハルヒみたいに、俺も騙されているだけなんじゃないかと思えてくる。
あるいは、ハルヒよりはほんの少しだけ巧妙に、ただ、好きなんて言葉で誤魔化して。
俺を騙す理由なんてないと言えるのならまだいいのかも知れないが、考えようと思えばいくらか思いついてしまうのがまた辛い。
古泉が本当に俺を好きなのだとしたら、そんな風に疑うのは失礼だし、それだけで愛してもらえる価値がなくなるようなことだろうとも思う。
それでも俺は、疑ってしまうのだ。
本当は、俺のことなんて好きじゃなくて、むしろ嫌いで、ただ、何か目的や理由があって俺を騙そうとしているのだとしたら、古泉が俺と付き合ってくれるのも分かるなどと、自虐的なことを、そうと自覚しながらも思ってしまう。
それくらい俺は、自分に自信がなくて、…恋人に優しくされるのに慣れていない。
騙されているのだとしても構わないと思うほどには、俺は古泉に夢中で、でも、そうなら徹底的に騙して欲しいと願うほどには、現実を知っている。
冷静になろうとすればするだけ、思うのだ。
俺は古泉に好きになってもらえるほど、価値があるのか、と。
「…また何か変に考え込んでるでしょう？」
たしなめるような声と共に、突然頬を抓まれて竦みあがった。
「ちょっ……ハルヒたちの前で何を…！？」
「あなたこそ、何言ってるんです？　涼宮さんたちとはさっきもう別れたじゃないですか。あなたもちゃんと挨拶していたのに…」
呆れたように言われ、
「す、すまん。ぼーっとしてた…」
と謝ったが、古泉の顔は曇ったままだ。
俺の頬を抓んだまま――そろそろ放してくれ――、難しい顔で俺を見つめて、
「悩み事なら、ちゃんと相談してください」
と言う。
いくらか厳しい声と口調なのに、優しさが感じられて、胸の中がざわつく。
「だが…」
迷惑だろ、と言おうとした俺の頬を軽く引っ張って俺を黙らせ、古泉は面白くなさそうに言う。
「…僕とあなたの関係って、何でしたっけ？」
「……恋人、なんだろ」
体を要求するためでなく、そんなことを持ち出されるのは初めてで、恥ずかしいのか嬉しいのか分からない気持ちになる。
それを言葉に出したつもりはないのに、古泉にはお見通しらしい。
深いため息を吐きながら俺の頬から指を離したかと思うと、
「全く……今まであなたと付き合った全ての男をぶち殺してやりたくなりますね」
ぎょっとするほど思いがけない言葉に目を剥くと、古泉は悪戯っ子のように笑って、
「驚きました？　僕って案外過激なんですよ」
その笑みに、言葉に、心臓が落ち着きを失ったように弾む。
「だから、こういうこともしてしまえるんです」
と古泉は俺のかばんを見せ付けるように持ち上げて、
「返して欲しいですか？」
「そりゃ…まあ、」
返してもらわんと困るが、一体何をするつもりなんだ？
「では、返して欲しかったらついて来てくださいね」
「……は？」
俺の戸惑いなどわざとらしく見ないふりをして、古泉は先に立って歩き出した。
いくらか早足なそれに置いて行かれまいと駆け寄れば、古泉は面白がるように薄く笑っていた。
「なんだよ？」
「いえ、可愛らしいな、と思いまして」
「なっ…！？」
「ところで、本当にいいんですね？　僕はこのままあなたを僕の部屋に連れて行くつもりなんですけど」
「……かばんを返して欲しいからな」
強がるように言ってみたところで、古泉には通用しない。
くすくすと笑われるだけだった。
しかし、そんな風に少々強引に部屋へと誘われたりする方が、俺にとってはよっぽど普通で自然なことのように思えた。
だから、さっきまで感じていた不安をいくらか薄れさせ、おとなしく古泉についていったのだが、古泉はやっぱり訳の分からないやつだった。
小奇麗なマンションの小奇麗に整えられた一室に俺を連れてきたかと思うと、一人暮らしだってのに立派な応接セットのあるリビングに通され、ソファに座らされる。
コーヒーを出しながら言った言葉は、
「あまり隅々まで見ないでくださいね。…慌てて片付けた分、よく見るとぼろが出ますから」
というものだった。
……なんというか、予想外だ。
「お前が自分で掃除してるのか？」
「ええ。…掃除や洗濯くらいしますよ」
そう小さく笑って、古泉は俺の隣に腰を下ろした。
「あなたは、結構綺麗好きですよね？」
「別に、そんなことはないと思うが…」
「前にあなたの部屋にお邪魔した時、綺麗にしてると思ったんですよ。聞いたら、自分でされてるとのことで、驚きました」
「…それ、夏の話だろ？　なんで覚えて…」
「覚えてますよ。…あなたのことなら」
そんな言葉は嬉しいのに、どうしてか胸が痛い。
疑う気持ちが膨らんできて、溢れそうになる。
「そんな顔、しないでください」
優しく頬に触れられて、泣きそうになった。
「言いたいことがあるなら、言ってしまってください。黙っていられる方が、僕も、苦しいですから」
そう言って、慰めるようなキスを頬に落とされる。
なんでもない、と無理に頭を振ると、古泉は困ったような顔をしながらも、
「…じゃあ、言えると思ったら、いつでも言ってくださいね」
と譲ってくれる。
そうして、何もなかったかのように、
「今度、どこかへ出かけませんか？」
なんて話してくれる。
それに安堵しながら、
「どこかってどこだよ」
と聞けば、
「どこへでも。…あなたとなら、どこだって楽しいでしょうから」
と言われる。
…いっそのこと、そんな風に優しくするのをやめてくれと言えたらいいのに。
優しくされることが、俺の胸を痛くする。
苦しくする。
優しくするくせに、俺のことを部屋に誘ったくせに、何もしないのは、やっぱり、そういうことなんだろう？
古泉は、チョコレートだ。
それも、カカオ９９％とかいうチョコレートに違いない。
甘そうな見た目で騙して、酷く苦くて、そのくせ、その中毒性で獲物を捕えて逃さない。
「お金がかかるのが嫌なら、手作りのお弁当でも持って、ピクニックなんてどうでしょう？」
やめてくれ。
その楽しそうな顔だって言葉だって、きっと嘘なんだろう？
本当は、男なんて、俺なんて、一緒に歩きたくもないんだろ？
いっそ、そう言って欲しい。
嘘だって言って、本当を少しの間だけでいいから見せて欲しい。
「僕がお弁当を作ったら、食べてくれますか？」
声も言葉も優しいのに。
本当に楽しそうに見えるのに。
それがどうしようもなく俺の不安をかきたてて、限度を越えさせた。
「…っ、もう、いい、から……」
ぼろりと涙がこぼれたが、止めることも拭うことも出来ない。
「どうして泣くんです…？」
心配そうな、どこか傷ついたようにすら見えるその目が、その目に囚われることが、怖い。
苦しい。
痛い。
気持ち悪くて吐きそうになる。
それくらい、感情が暴走して、コントロールを失う。
「本当に、俺のことが、好き、なのか…？　か、からかって、遊んでるとかじゃ、なくて……？」
嗚咽を上げながら問えば、古泉は俺以上に苦しそうな顔をして、俺を抱きしめた。
「本当に、あなたが好きですよ」
「なら、なんで……何も、して、来ないんだよ…！」
泣きじゃくる俺の背中を撫でる手は暖かくて優しくて、苦しくなるばかりだ。
「…だからこそ、大事にしたいって、分かりませんか？」
困ったように古泉は囁く。
幼い子供に言い聞かせるように、優しく。
「愛してるから、大切にしたいんです。何もかもしてあげたくなるんです。自分のことよりも、あなたのことを優先させたいんです。…あなただけ、ですよ。こんな風に思うのは」
そう言った古泉を見つめると、
「本当です」
と念を押される。
その目はどう見ても真剣そのもので、嘘なんて欠片もない。
もともと、嘘なんてどこにもなかったんだろう。
それを分かっていてなお、俺は疑ってしまう。
慣れないから、という、ただそれだけで。
古泉を見ていればすぐに分かったはずだ。
ハルヒたちといる時の作り笑いとは全然違う顔を、俺にだけ見せてくれていたことが分かっていたんだから。
それなのに、俺はどうしても、信じきれなくて……。
「…ごめ、ん…」
「謝らなくていいですよ。僕の不徳のなすところでしょうから」
優しくそう言いながら、古泉は俺の額に口付ける。
「本当に、あなたにだけですからね。優しくしたいと思うのも、どんな願いも聞き入れたいと思うのも」
「ん…」
俺が頷いたのを見て安心したとでも言うのか、古泉は小さく笑って、
「自分が尽くすタイプだったなんて、初めて知ったくらいなんです」
と冗談めかして言ったが、目が本気だ。
「尽くさなくていいんだぞ？」
むしろ、慣れなくて困るから止めて欲しいくらいなんだが…。
「僕がしたいんです」
そう言って、古泉は俺のまぶたにキスを落とす。
涙の跡をたどって、くすぐるようにあご先に触れて、でも、唇にはキスしてくれない。
「…古泉……っ、くち、にも…」
「キスして欲しい？」
問われて頷けば、優しくキスされる。
それだけじゃ足りなくて、深いものを求めて自分から口付ければ、それだけでどうにかなりそうなキスをされた。
うっとりしながら、なんとかそのキスに応えたくて舌を伸ばせば委ねられる。
思うままにしていいと譲られるまま、その舌を吸い、唾液を求める。
苦しくなるまで唇を離さずにいて、やっと離れた時には息が上がっていた。
「は……ぁ…」
「なんて顔ですか」
困ったように言いながら、古泉が俺のあごに触れる。
「そんな顔をされたら、我慢が利かなくなるでしょう？」
「我慢…？」
してんのかよ。
「してますよ」
どこか拗ねたような口調が愛しくて、
「…しなくていいぞ」
と言ってもう一度キスをすると、古泉は厳しい顔で、
「何の用意もしてないので、今日はまだだめです」
「用意って、お前な…」
呆れる俺に、古泉はしたり顔で、
「男同士の、と言いますか、たとえ男女間であっても、アナルセックスにはローションとコンドームは必須アイテムですよ。出来れば医療用の薄いゴム手袋なんかがあると、衛生的にもいいですが、流石にそれは無粋ですから、あなたが必要だと言わない限り、用意するつもりはありませんけどね」
と言ってのけた。
…だからお前って何者。
あれか。
男としたことはなくても、女とならアナルセックスも経験済みとか言うのか？
それともやっぱり、変な方向に耳年増とかか？
唖然としている俺に、古泉はにやりと笑い、
「ああ、でも、確か飢えてらっしゃるんでしたよね？　昨日、そのようなことを仰られてましたし」
「…っ！？」
思わず赤面した俺の耳元で、古泉はぞくりと来るような声を響かせる。
「あなたが我慢出来ないようでしたら、今から買いに行きましょうか？　近くのドラッグストアにでも、二人で」
「っ、何プレイだよ…！」
「ふふ、恥ずかしいですか？」
「い、意地が悪いにもほどがあるだろ、お前…」
真っ赤になったままそう毒づけば、古泉は面白がるような笑みを引っ込め、
「すみません、あなたが可愛いものですからつい。…でも、こんなことをしてしまうから、不安にさせてしまうんですよね？　……すみません」
繰り返し謝られると余計に戸惑うんだが、少し、分かった。
多分、こいつは普通に「お付き合い」をしようとしてくれているんだということが。
男同士だとか、他の諸々の要素なんて関係なく、ただ二人だけの当事者として、俺との付き合い方を真剣に考えてくれているのだろう。
そう思うと嬉しくて、胸が痛むのではなく、熱くなった。
だから俺は古泉を抱きしめてキスをする。
「好きだ」
と告げれば、古泉は嬉しそうに笑ってくれる。
「はい、僕もあなたが好きですよ」
その幸せそうな笑みに、蕩かされるかと思った。

本当に、古泉は謎だらけで訳の分からんやつである。
全く無知なのかと思えば妙に詳しいし、優しいのか意地が悪いのかもよく分からない。
しかし…それでも、夢中にさせられるのは、俺がおかしいわけじゃない……はず、だよな？