背中



「自分の内面を見つめようと試みることは、何もない部屋で一人、自分の背中を見ようと試みることに似ている気がします」
ぽつりと、なんのきっかけもなかったというのに突然古泉はそう呟いた。
視線はオセロの盤上に落としたまま、しかし、それを見つめているとは言い難い表情を浮かべた古泉は、俺が止めないのをいいことに話を続けることにしたらしい。
「無理して体を捻っても、結局見えやしないんです。そのくせ、痛みや苦しみを伴い、ともすれば、酷い違和感を次の日まで持ち越すことになってしまう。手で触れられるから、そこがどうなっているのか分かっているつもりでいますが、手で触れても分からない変化、たとえば、色の変化等があっても、自分では分からないのです。何度も試みて試みて、でも出来なくて、結局、ひとりきりで何をしているんだろうなんて、自分を笑うか、そうでなければ諦めてしまうような、そんな感覚に似ていると思うのです」
「……そんなこと、するのか?」
「背中を見ようとすることですか?」
違ぇよ。
「自分の内面を見つめよう、なんてことだ」
「それは、しますよ? 僕だってそういったことを考えてしまう時はあります。それとも、僕がそんなことを考えるのは、おかしいでしょうか」
「似つかわし過ぎるな」
毒づくように呟けば、古泉は薄く笑った。
さっきまでの無表情寸前の薄気味悪い表情よりはずっとマシな気がしたが、自分が笑われているかと思うと面白くもなかった。
「なるほど、似つかわし過ぎますか。それは、かえって嘘臭い、ということなんでしょうね?」
「それに、お前は、そんなことをするまでもなく、自分の内面だの精神面だのについて変に把握しているか、そうじゃなかったらわざと目をそらし続けるかどうかするかと思ってたんでな」
俺がそんな風に、遠慮なしに言っても、古泉は本音を返さない。
「そうですね。僕は基本的にそう強い類の人間ではありませんから、自分の内面を把握したフリをして強がるか、別の言い訳を作って目をそらすかする方が多いかもしれません。それでも……時には、思うんです」
オセロから目を離した古泉は、窓の外を見つめた。
「無駄だと思っても、考えてしまうような時が、あるんですよ。それがどんな痛みを伴うか、分かっていても、ね」
「……馬鹿だな」
「ええ、馬鹿です」
自嘲するように笑った古泉を睨みつけ、俺は言う。
「そうじゃない」
俺が馬鹿だと言ったのは、お前が無駄と知りつつそんなことをする、という部分じゃない。
「鏡を使えば、いいだろ」
「……は?」
きょとんとした顔をした古泉に、俺は何故だか顔が熱くなってくるのを感じつつ、告げる。
「ひとりで何も使わずに背中を見ようとするから、変に体を捻って、結果として首が痛くなったりするんだろ。だったら、鏡を使って見ればいい。内面を見つめることが背中を見ることと同じなら、それだって鏡を使えばいいだろ」
「…鏡、ですか」
その意味を説明しなければならん相手だとは思わないので、俺はそれだけ言って満足した。
実際、古泉にはちゃんと通じたらしく、
「他者を自らの精神面を映し出す鏡として捉えるという考え方がありましたね」
と小さく笑い、
「先ほどの発言は、俺が鏡になってやるよ、ということで、よろしいでしょうか?」
とわざとらしくも確認を求めてきやがった。
ふいっとそっぽを向けば、それすら肯定に受け止めるくらいの強かさと、俺の性格に対する理解の深さを古泉は獲得済みのようで、くすくすと声を立てて笑った。
「でも、あなたになら……」
一体何を言い出すんだ、と気色ばむ俺を前に、古泉はにっこりと微笑み、それから他に誰もいないってのに、内緒話でもするかのように顔を近づけてきた。
すっかり慣れたとはいえ、他に聞かれる心配もないのにそんな風に接近されるというのは初めてのことで戸惑う俺に、古泉は最上級のと言っていいような声で囁いた。
「…直接背中を見て、確かめていただきたいですね」
「っ…!?」
囁かれた声とあいまって、酷くうろたえたが、今のはたとえ話だと自分に言い聞かせる。
ところがだ。
古泉はいきなりブレザーを脱ぐとネクタイを外し、シャツのボタンに指をかけ始めたではないか。
「ちょっ…と、待て!!」
「おや、どうかしましたか?」
にやにや笑っている古泉は、さっきまでのアンニュイな風情などどこ吹く風という有様であり、ある意味非常に勿体無かった。
…じゃなくて、
「何故脱ぐ!?」
「…ああ、別に変なことを企んでいるわけではないんですよ」
嘘吐け、少なくとも俺を驚かすつもりはあったに違いない。
「ちょっと見てもらえます?」
そう言った古泉が手早くボタンを外し、シャツを脱ぎ捨てる。
ストリップとは言えない速さと思い切りの良さで以ってアンダーシャツをも脱ぎ捨てた古泉が俺に背中を向けると、そこには派手な打ち身らしい傷跡が生々しく出来上がっていた。
一面にどす黒く、あるいは紫や青、黄色に染まった背中はいっそ壮絶ですらある。
「おま…っ…!?」
そう小さく呟いて絶句した俺に、古泉は肩越しに苦笑し、
「少しばかりどじを踏んで、この通り、怪我をしてしまったんですよ。どこでしたのかは、言うまでもありませんよね?」
と言うからには俺も行ったことのある、あの灰色の空間でのことなんだろう。
「怪我をして、それでも僕は、……神様を嫌いにはなれないんですよ」
古泉が一瞬見せた躊躇いは、神様という仮初の存在と直接的原因と言ってもいいような個人名の、どちらを使うか悩んだからだったのだろう。
「憎いとも、思いません。思えないんです。…どうしてでしょうね?」
そんなことを考えてたから、あの妙な発言に至ったわけか。
とりあえず聞かせろ。
「はい?」
「それ、ちゃんと治るんだろうな?」
「ええ、見た目は物凄いですけど、言ってみれば単純な打ち身ですし、内臓や骨に損傷はありませんから。ある人には、同情を引くためにわざと怪我したみたいだとまで軽口を叩かれたくらいです」
そう笑った古泉に安堵しながら、
「背中でよかったな」
「そうですね。もっと目立つ場所では、誤魔化すのも大変だったでしょうし」
「顔だったら大騒ぎだっただろうな」
と笑ってやると、古泉も笑って頷き、
「そうですね。その時こそ、涼宮さんに責任を取ってくださいと詰め寄らなければならないかと」
と冗談を言うくらいの余裕はあるらしい。
「ああ、それとも、」
なんて、大仰に声を上げた古泉は、優等生然とした端正なマスクには全く以って不似合いでありながら、ある意味非常に似つかわしくも悪辣な笑みを見せ、
「あなたが、責任を取ってくれます?」
「嫌なこった」
「即答ですか」
苦笑した古泉が、平気そうな顔をしているくせにその実、案外傷ついたらしいのが透けて見えた。
そんなに分かりやすくていいのかね、と呆れつつ、俺としてはわかりやすい方がいいと笑い、
「俺は、お前の顔も好きなんだ。手も脚も、他のどこだってな。だから、……痕になるほどの大怪我なんか、するなよ」
古泉は驚いたように目を見開くと、おそらくどうしようもなく真っ赤になっているだろう俺の顔を穴が空くほどまじまじと見つめた後、晴れやかに破顔一笑した。
「はい」
「ひとりでアホなことを考えて、落ち込むような真似もするな」
「はい。…あなたが、いてくださるんですよね?」
そろりとこちらへ伸ばされる手を、自分の手にそれがたどり着くより早く掴み取る。
「お前が逃げない限り、な」
「逃げる時は、あなたも一緒に来てくださいよ」
「お前と二人で逃避行なんざ、ぞっとしねぇな」
「ぞっとはしなくても、ぞくぞくはします?」
「…古泉、あんまり調子に乗ると……」
「どうなります?」
児童文学の名作に出てくる意地の悪い猫みたいに笑って返事を待つ古泉を睥睨した俺は、
「…今日は泊まりに行ってやろうかと思ったが、取りやめにする」
「その発言は逆効果ですよ」
嬉しそうに笑った古泉に手を引かれ、裸の胸に飛び込む破目になる。
「……今、誰かがドアを開けたら最悪だな」
「そうですねぇ。言い逃れのしようもありませんからね」
そう言いながらも、古泉は楽しげで、腕を緩める気配もない。
「でも…たとえ、噂になっても、それで、他の誰に知られても、反対されても……僕は、悔やみません。たとえ、どんな事態になったとしても、今、こうしてあなたに触れられること、あなたに出会えたこと、あなたを愛せることが、何より幸せですから」
そうかい。
そんな風に完結しようとするのは勝手だがな、
「その幸せとやらを持続させようとする努力をしないのは、ただの愚か者だとは思わんか?」
「そうですね」
「なら、とっとと離せ。そして速やかに服を着ろ」
「でも、離し難いんですよね…」
「あほか」
そう言いながらも、俺もいくらか離れ難く思っちまっていたのだろう。
「…どうしたら、離せそうだ?」
と古泉を調子づかせるだけだと分かっていながら、甘ったれるような薄ら寒さを伴った声で囁いた。
それを、古泉も分かっているんだろう。
一層笑みを蕩けさせながら、
「…あなたからのキスが欲しいですね」
とほとんど迷いも考えもせずに返した。
「……やれやれだ」
呟くのは、ポーズみたいなもんである。
それは分かってる。
分かってやってると、古泉に知られていることすら。
だから俺は、苛立ちを込めて古泉の唇に噛みつき、そのままその腕を振り解いた。
「ほら、さっさと服を着て、帰るぞ」
「僕の部屋に、ですよね」
幸せそうに笑う古泉に、俺はなんとか反撃してやりたくて、
「……言っとくが、怪我人は大人しく寝ろよ」
と言ってやったのだが。

……予想以上にダメージを受けた顔をされたのは、非常に面白くなかった。