高校を卒業して一年あまりが過ぎたある日。 比較的短気で格式ばったことなんて嫌いなはずの涼宮さんから、珍しくも封書で手紙が届いた。 内容の文章まではさすがに形式的ではなかったけれど、彼女がわざわざ僕宛で、手書きの手紙を送ってきたことに、酷く驚かされたことは言うまでもない。 この一年ほどの間に、彼女もいくらか変わったんだろうなと思った。 まあ、その手紙の内容が艶っぽいラブレターだとか、センチメンタリズム溢れる近況報告だとかではなく、SOS団の会合の案内であるところは、相変わらずなんだけれど。 彼女らしい文章と招集理由に思わず目を細めた僕は、自然と高校時代のことを思い出していた。 今はもうない超能力を、惜しむ気持ちはない。 ただ、貴重な経験だったと、いくらか前向きに受け止めることは出来るようになっていた。 もう行くこともなければ、おそらく発生することもない閉鎖空間。 …願わくば、本当に発生していませんように。 僕に感知出来ないとか、そういうことでなく、もうあんな悲しい場所が発生していないことを心から願う。 あの場所は、たとえ戦うのが僕でなくても、発生させるのが涼宮さんでなくても、発生させる側、消滅させる側双方にとって、あまりにも悲しすぎる場所だから。 元気すぎるくらいに元気な団長。 きっと彼女は相変わらずとても元気で、周囲にもその明るさを振りまいているのだろう。 敵対、とまでは言えないものの、決して常に協力的ではなかったはずなのに、そんな僕ですら愛らしいと思わずにはいられなかった、未来人。 もう会えないと思っていた彼女にも、もしかしたら会えるのだろうか。 涼宮さんの招集で、しかも団員全員強制参加と書かれているから、ありえない話ではない。 それから、物静かで、彼女がいるだけで安心出来た、宇宙人。 彼女もまた普通の人として過ごしているはずだけれど、それはそれでどんな風に過ごしているのか興味が湧く。 僕が聞いても、答えてくれるだろうか。 高校時代にはしばしば無視されてしまったけれど、卒業した今ならあるいは、と思わないでもない。 そして――彼。 思い出すだけで、何故か古傷が疼くように胸がずきりと痛んだ。 唯一の一般人は、おそらく最も恵まれていた。 何も失うことなく、不可思議で楽しい日常に溶け込めていたから、そう思う。 僕は、そんな彼が妬ましかったのかも知れない。 高校在学中ずっと、……僕は、彼のことが嫌いで、苦手だった。 同情的に差し伸べられる手は、いっそ憎らしかった。 優しい言葉を掛けられるたび、何も知らないくせにと苛立ちをぶつけてやりたくなった。 実際、そうしてしまったことも、何度かある。 それでも変わらない彼の態度に、僕はまた何度となく苛立った記憶がある。 ……でも、どうしてあそこまで、僕は彼が嫌いで、苦手だったのだろう。 確かに、彼は僕の失ったものの多くを持っていたけれど、それが彼のせいではないことは言うまでもなく分かっていたし、それで彼を憎むなら、僕はむしろ全ての元凶であった涼宮さんを憎んで然るべきだった。 でも僕は、涼宮さんよりも彼が苦手だった。 嫌いだった。 彼が僕を気に掛けていることが感じられると、同情なんかされたくもないと突っぱねた。 そのくせ、彼が長門さんや涼宮さんと親しく過ごしていると、何故だかむかついて、ついつい茶化したりして、彼を苛立たせた。 バレンタインデーにチョコレートを渡してみるなんて、嫌がらせ染みたことをしてみたこともあったっけ。 それは流石に嫌がられたのでその一度きりで止めておいたけれど、次の年に彼が、 「今年は妙なことをやらかす気はないんだな」 なんて言ったので、 「チョコレート欲しかったんですか?」 と皮肉っぽく言ってしまった記憶がある。 それに対する彼の反応は、怒りにか顔を赤く染めて、 「要らんっ」 と怒鳴るというものだったけれど、僕はそれが面白くて、つい笑ってしまったんだった。 …どの思い出も、閉鎖空間や機関に関する記憶と同じだ。 今なら、いくらか苦味を含んではいるものの、笑って思い出せるという点で。 どれもこれも、誰にだってあるような、ちょっとばかり不可解で、青春時代特有のかすかな痛みを伴い、だから今となっては笑うしかない、思い出に変わっている。 だから僕は、この状態なら彼に会っても大丈夫だと思い、連絡先として記されていた、高校時代と変えられていない涼宮さんのアドレスに、了解のメールを送った。 それからしばらくして、僕の携帯が鳴った。 誰からだろうと見てみれば、涼宮さんで、僕は少しばかり驚かされながら、でも、さっきメールを送ったからその確認のためだろうと納得しながら通話ボタンを押した。 「はい、古泉です」 『古泉くん、久しぶりね! 元気だった?』 相変わらず元気いっぱいな涼宮さんの声が耳に触れ、僕もつい笑顔になりながら、 「はい、おかげさまでつつがなく。涼宮さんはどうです?」 『あたし? 元気に決まってるじゃない』 と軽やかに笑った涼宮さんだったが少しばかり声のトーンを落としたと思うと、 『それで、古泉くん、本当に来てくれるのね?』 と確認してきた。 この一年間、忙しさにかまけて一度も召集に応じてなかったからだろうと苦笑しながら、 「はい。団員は全員強制参加、なんでしょう?」 手紙にあった文言を引いて言えば、涼宮さんは笑って、 『うん、まあ、そうなんだけどね。来てくれるならよかったわ。嬉しい』 素直にそんなことを言った彼女に成長を感じた僕に、しかし、彼女は予想だにしない一言を告げた。 『それに、今度こそキョンも参加させるし、それなら古泉くんも来てくれるわよね』 「……どういう意味ですか?」 何か理解しがたいものを感じてストレートに聞き返すと、彼女は戸惑うように、 『え? 古泉くん、ずっとキョンのこと、好きだったでしょ?』 と言われ、思わず演技も忘れ、 「はいぃ!?」 と奇声を上げていた。 いや、もう演技をする必要性はないんだけれども、それでも敬語が癖になってしまっている身としては、これがどれほどの驚きだったか、察してもらえると助かる。 それくらい、僕は驚いたのだ。 僕が彼を好きだった? どうしてそうなるんだ? 『違ったの?』 「えぇと…むしろ、苦手だったと……」 『嘘でしょ?』 そう即断されるとこちらが反応に困る。 「好きでは…ありませんでしたよ、正直なところ」 『うぅん…じゃあ、あたしの思い違いかしら。ごめんね、変なこと言っちゃって』 「いえ……」 僕が彼を好きだった、なんて、どうしたらそんな勘違いが出来るんだろう。 涼宮さんとの通話が終わってもまだ、僕は混乱した頭を抱えて考え込んでいた。 どうしてそんな誤解をされていたんだ? 僕はそんなにおかしな態度を取っていたんだろうか。 …確かに、彼とは内緒話をしなければならないことが多かったから、傍から見れば距離が近すぎて妖しく見えたかもしれない。 でもそれはそうするだけの必要性があったからだし、表面上のことしか知らない部外者ならともかく、それだけであんな判断をするほど、涼宮さんは浅慮な人ではないはずだ。 それにしても、と僕はため息を吐く。 僕は、彼が嫌いだった。 もし僕が彼を好きだったなら、もっとこちらを見てほしいとか、そんなことを思ったんじゃないだろうか。 でも僕は、彼が他を向いている時に少々苛立つことこそあれど、こっちを見ていたり、僕のことを考えていると分かる時の方がよっぽど落ち着かなくて苦手だった。 それに、好きなら、一緒にいたいと思うものだろう。 僕は、彼と一緒にいると妙に緊張してしまうから、彼と二人きりになんて、どんな理由があってもなりたくなかった。 彼のことを好きなんて、酷い誤解だ。 僕はむしろ、彼のことが嫌いで、苦手……で……。 ――何かおかしい、と流石に気がつかずにおれなかった。 論理が破綻している気がする。 気がしているだけではなく、実際そうなんだろう。 誤魔化しを、感じてしまった。 誤魔化しに、気付いてしまった。 結論を先に用意するのではなく、逆に整理してみよう。 僕は、彼のことを思い出すだけで胸が痛む。 彼が他の人といると嫌だった。 彼と一緒にいると、緊張した。 彼に気にかけられると突っぱねていたけど、あれは、…照れ臭く、て、本当は……嬉しかった…の…か…? 「嘘だろ…?」 思わず呟いた。 そんな馬鹿な。 僕が彼を好きだったなんて、そんなこと、あるわけがない。 そう思うのに、彼のことを思うだけで、心臓が痛いくらいに脈打ち、顔が赤く、熱くなる。 なんだこれ、と混乱しながらベッドに突っ伏した。 このまま部屋中暴れまわりたいような衝動が込み上げてくる。 「待て、落ち着くんだ。僕が彼を好き……」 なんてことはありえない、と否定しようとして言葉を口にしたのに、声に出したせいで余計に痛感させられた。 だめだ、どうしようもない。 「好き……好き、です…」 自分以外誰の耳にも届かないと分かっているからこそ呟けた。 そう呟くだけで、どうしようもなく胸が熱くなる。 泣きそうになるのは悲しいからではなく、嬉しいからだろうか。 悲しくは、ない。 むしろ幸福感と言っていいような気持ちに満たされている気がした。 馬鹿みたいに、呟いて、彼の名前を囁く。 滅多に呼ばなかったその名前。 今なら分かる。 呼ばなかったのではなく、呼べなかったのだと。 彼の名前は、僕にとって、自分の名前以上に特別な響きを持っていた。 今だって、それだけで心臓が弾む。 もし、今すぐに心電図検査を受けたら不整脈との診断が下されそうだ。 人を好きになるのは、初めてではないはずだ。 それなのに、こんなにも胸が熱くなるものだと、初めて知ったように思えた。 ただ、その人を好きというだけで、その人に応えてもらえたわけでもないのに、暖かい。 しばらく、それに酔うように伏せていた僕だったけれど、少ししていくらか頭が冷めてくると、厄介なことに気がついてしまった。 この状態で、彼と対面する、ということに。 「…一体どんな顔をして会えばいいんだ…?」 と頭を抱えるしかない。 彼を前にして、平静を装っていられる気がしない。 でも、彼には会いたい。 彼に会ったって、どうにもならないことだって分かってる。 だって、僕は彼に嫌われるようなことばかりしてきた。 だから、彼には絶対嫌われている。 彼から、卒業後に連絡してきたこともあった。 でも僕は、それを無視した。 そのくせ、彼からのメールは綺麗に取ってあるんだから、本当に馬鹿だ。 せめてあの時気がついていれば、もう少し違ったかもしれないのに。 乾いた笑い声と、引き攣れた泣き声染みた声が、喉から同時に溢れ出た。 今更僕が涼宮さんを相手に、キャンセルの連絡を入れられるはずもなければ、断って事なきを得ることよりも彼と会うことを切望してしまっている状態では、急病を装うなどして欠席することも出来ず、つまりはなんら対処も出来ないまま、僕は待ち合わせ場所に向かっていた。 期待と不安と緊張という、おそらく遠足を翌日に控えた幼稚園児と同様の心理によって、ほとんど一睡も出来なかった僕は、それでも電車の中で一眠りすることも出来ないくらい、緊張していた。 どんな顔をして彼に会えばいいのか分からない。 涼宮さんたちが一緒であることが、いっそ救いのようにも思えた。 そうであれば、まだ理性が働き、抑えられるだろうと思ったのだ。 ただ、そんな精神状態であっても、やっぱり何度も待ち合わせた北口駅前に下り立つと懐かしむ気持ちが大きくなり、この分なら何事もなかったかのように過ごせるだろうかと思えた。 …そんな風に思えたのは、ほんの一瞬のことだったけれど。 何しろ、待ち合わせ場所にはどういうわけか、彼が一人で立っていたのだ。 駅ビル出口と広場を繋ぐ横断歩道を渡ってそれに気がついた僕は、そのままくるりと引き返そうとした。 それは反射的なものであり、そうして逃げ帰ってどうするなんてことは少しも考えはしない行動だったのだけれど、彼は案外素早く僕の肩を引っ掴み、 「逃げるな」 とドスの効いた声で言ってくれた。 振り返って見た、彼のどこか苦い笑いが胸に痛い。 「すみません、予想外だったので少々混乱しました」 「何だそりゃ」 と笑う彼は、前と変わりないように思えた。 相変わらず、ほんの少しだけ、僕より背が低くて、体も割と細い。 だからと言って華奢ではなくて、しっかりしている、頼り甲斐のある背中。 そんなものを見つめながら、僕は、自分がどれだけ彼を見つめていたのかということに気づかされた。 細かいところまで、彼のことを覚えていることにも。 それを彼に悟られないよう、僕は出来るだけさり気なく彼の手を肩から外し、わざとらしく辺りを見回した。 「涼宮さんたちはまだですか?」 「ああ、ハルヒたちなら急用でキャンセルらしい」 「……は!?」 今、なんと仰いました? 「急用でキャンセルだ」 そう繰り返しながら彼はため息を吐き、 「だからと言ってさっさと帰れると思うなよ。後でレポートを提出するよう厳命が下されてるからな」 「そうなんですか…」 それは涼宮さんらしいようだが、しかし、この前の電話でのやりとりを思い出すと、いくらかひっかかるものがあるような気もしてくる。 僕が釈然としていないのを見て取ったのか、 「俺と二人なんて、気に食わないだろうが、ハルヒのわがままだからってことで辛抱してくれ」 と言った。 それは、僕が彼のことを嫌っていると彼が思っているということの証のようで、思わず、 「そっ…んなこと……!」 ありません、と否定しかけて、慌てて口をつぐんだ。 言うわけにはいかない。 僕が何を言うのかと首を傾げる彼を直視しないように気をつけながら目をそらした僕は、 「…我慢出来ると、思いますか」 ――って、こんなこと言うつもりなかったのに!! とっさのこととはいえ、何を言ってるんだろう。 これじゃ、もうすぐに帰らなきゃならないじゃないか。 まだ、…ただ一緒にいるだけでもいいから、彼といたいのに。 しかし、今更言いつくろうことも出来ず、それどころか何と言えばいいのかということも分からず、黙り込むしかない僕に、彼は苦い顔で、 「じゃあ、ハルヒの命令だ。たとえ副団長でも、当然拒否することは認められん。お前があのけたたましい喚き声で一時間でも二時間でも罵られたいなら、これ以上止めはしないがな」 「…では、仕方ありませんね」 そう渋々といった様子を装いながら答えつつ、ほっとしていた。 もちろん、胸はずきずきと痛んでいた。 わざわざあんな、彼を傷つけるような、彼の誤解を深めるようなことをしなくてもいいのに、どうしてこうなんだろうかと自己嫌悪のあまり、僕の体重くらい支えられそうなロープを探しに行きたくなるくらいだ。 どこか白けた空気のまま、僕たちは歩き出した。 やることは、難しいことではない。 高校時代と同じく、不思議を求めて街の中を探索するだけだ。 『あたしたちが卒業したから、不思議の方だって油断してるに違いないわ!』 なんて、実に彼女らしい。 その独特の言い回しを思い出しながら、僕がつい目を細めると、 「…ハルヒのことでも考えてたのか?」 と隣から言われ、 「どうして分かったんです?」 あなた、やっぱり超能力者か何かですか? 「そんな気がしただけだ」 そう言いながら、彼は不快そうに目をそらし、 「悪かったな。ハルヒと会うのを楽しみにしてたんだろうに、いたのが俺なんかで」 「いえ、別に……」 本当に、気にしないでもらいたかった。 なにせ、僕としてはあれだけ迷ったり、ぎりぎりまで欠席しようかなどと卑怯なことを考えていたくせに、いざ彼と歩き出すと楽しくてならなかったのだ。 ただ歩いているだけでも、隣に彼がいると思うと嬉しい。 まるでデートみたいだ、なんて思ってしまうと、くすぐったくて、にやけそうになるのが困りものだったけれど。 だから、 「あなたが謝ることではありませんよ」 と言ったのに、彼はますます眉間のしわを深いものにし、 「嫌なんだろ、俺といるのが」 「そんなわけは、」 ありません、と言うより早く、いきなり足を止めた彼に、 「あるんだろうが!」 と半ば怒鳴るような調子で言われて、驚かされた。 どうして、何を、彼は怒っているのだろう。 全然分からない。 分からないのが悲しいのは、自分の鈍さゆえに彼を傷つけてしまったのかもしれないと思うからでもあるし、それほどまでに僕と彼の間が分かたれてしまっているのだと自覚させられるからでもあった。 「正直に言えよ」 唸るように彼は言った。 今にも僕の胸倉を掴みにかかりそうなくらい、身を乗り出し、 「もう、演技する必要なんかないだろ。お前のしがらみは全部なくなったはずだ。はっきり言っちまえばいいだろ!?」 「そう、言われましても……」 何を言えというのだろう。 彼と一緒に過ごすことについてなら、僕は正直に言っている。 嫌なんてことはない。 むしろ、嬉しくてたまらない。 それなのに、彼はくしゃりと顔を歪め、 「それとも、俺はまだ、お前と友人にすらなれないのか。敬語を使ったりして…。嘘じゃないにしても、本当でもないお前しか、知ることも、出来ないってのか…」 「…知ったって、面白いものではありませんよ」 むしろ、余計に嫌われるに違いない。 こんな、男なんかに、好意を寄せられてると知ったら、気味悪がるに決まってる。 そう思いながら口にした言葉は、どこか硬質な響きを持っていた。 「はっきり言えばいいだろ…っ、俺のことなんか、き、嫌いなくせに…!」 そう言った彼の顔が、まるで泣き出しそうに歪んで見えた。 そう思った瞬間、彼の目から雫が伝い落ちる。 まさか。 涙なんて、彼が、流すはずが…あるはずが、ない。 そう思うのに、雫が次から次へとこぼれていく。 まるで、僕を責め咎めるように。 その一粒一粒が、胸に突き刺さるようだった。 それが涙なんだと認めざるを得なくなった僕は、随分とタイミングを逸した気がしつつも、 「な、泣かないでください…」 と彼をなだめにかかったのだけれど、触れようとした手は力いっぱい振り解かれ、叩き落された。 「やかましいっ、お前のせいだ」 「じゃあ、どうしたら泣き止んでくれるって言うんですか」 どうしたらいいのかなんて、僕には全く分からない。 分かるはずがない。 こんな風に泣かれるのなんて、初めてだ。 ましてや、彼が泣くのなんて、見たのも初めてなのに、どうしたらいいのかが分かるはずもない。 彼は泣きながら僕を睨み上げ、 「お前が正直に言えばいい…!」 と泣き出す前と変わらず、僕を咎めた。 こうなると、僕には選択肢などなくなる。 あったところで、選べるはずもない。 だって僕は、彼に泣いていてほしくないのだ。 そのために、自分が更に嫌われたとしても、彼が悲しい顔をしているよりはずっといい。 そう思うくらいには、僕は彼が好きで。 だから、 「……分かりました」 と答えた。 彼が驚いたように僕を見る。 「本当か?」 「ええ、でも、」 僕はため息を吐きながら辺りを見回した。 そそくさと目をそらす、通りすがりの人々から彼を守るように、彼の泣き顔を自分の体で隠しつつ、 「その前に、移動しませんか? まるでホモの修羅場みたいになってますし、流石に人目が痛いです」 「……」 しばらく沈黙した彼は、今度こそ顔を真っ赤にして、 「――だっ、誰のせいだぁ!!」 と叫んだ。 泣きじゃくり、足取りもおぼつかない彼をなんとかなだめつつ、公園まで連れて行き、ベンチで落ち着かせた。 その間、彼が子供のように呟き続けた僕への、馬鹿だの阿呆だの彼らしくないまでに稚拙な罵り文句を半分聞き流したのは、やっぱり僕もいささか混乱していたと言うことなんだろう。 どうせなら一つ残らず記憶に刻み付ければよかったのに。 しかし、彼がそんな風に、本当に子供のように振舞うところなんて、見たこともなかっただけに、ショックも大きかったのだ。 ただ、それでも僕はやっぱり、彼が好きだと思えた。 そんな風に意外なところを見せられても、幻滅するどころか今まで以上に愛しくなってしまう。 しゃくりあげる彼をなだめるという大義名分で、彼の背中を撫で擦れることすら嬉しくて、変態でごめんなさいと胸の中で手を合わせた。 彼の呼吸が落ち着き、涙も収まってきたと思うと、彼は恨みがましく僕を睨みつけ、 「さっさと言え」 と言った。 どうやら、興奮して口走ったこととして取り消してくれるつもりはないらしい。 僕は彼から目をそらしながら、 「……正直なところを聞いて、それであなたはどうするんですか?」 取り消してもらいたくて、そんなことを僕は言った。 それくらい、言いたくなかった。 言うことで、これまで以上に彼に嫌われるのが、どうしても、嫌だった。 もう、これ以上はないというほどに嫌われているのかもしれないけど、それでも、更に嫌われる可能性があることを口にするのが、恐ろしかった。 「僕が、あなたのことをどう思っていたところで、それであなたに何か迷惑でもかかると仰るんですか? もう、ほとんど接点もないんですし、そもそも接点なんて、あってなきが如しだったではありませんか。今更、僕があなたについてどのような感情を抱いているかということを知って、あなたに何かメリットがあるとでも仰るんですか?」 話しながら、彼の顔がだんだんと赤くなっていくのは分かった。 怒っているんだろう。 でも、僕は止めなかった。 怒った彼が、もういいと言ってくれるのを期待した。 聞きたくない、と言ってくれるのではないかと。 でも彼は、僕を睨みつけるばかりだ。 「聞いたって、あなたにとって愉快なことは何もないと思いますよ。むしろ、不快なだけかと。それなら、聞かずにおいた方が、お互いのためではありませんか? どうしても気になるというのでしたら、これだけお伝えしておきます。…あなたのことは、別に嫌いではありませんよ。それで、十分でしょう?」 彼は口を開いた。 でも、言葉は出てこない。 迷うように、ためらうように、それでも強くきつく僕を睨みつけてくる。 突き刺すような瞳が、肌に痛いくらいだった。 やがて、彼は諦めるようにため息を吐き、うつむいた。 「……なんかもう、俺は酷い馬鹿みたいじゃないか」 ぽつりと、独り言のように彼は呟く。 「やっとお前が来るって言うから、俺も予定を空けて来たってのに。…一年以上も経ったし、それなら普通に会えるかと、期待もしてたんだぞ。それなのに、ハルヒたちが来ないせいで気まずいし、お前はお前で相変わらず俺を嫌ってるらしいし」 そんな言葉に、期待してしまいそうになる自分が嫌だった。 まるで僕のことを好きみたいじゃないか、なんて、酷い勘違いだ。 彼が僕を好きなわけがない。 ただ彼はお人好しで、人に嫌われると言うことが滅多にないからこそ、自分のことを嫌っていると思っている、僕のことを気にしてくれたというだけに過ぎないと分かっているのに。 期待するなんて、馬鹿だ。 そんな自分に苛立って、思わず口走った。 「ですから、あなたのことを嫌ってはないと言ったでしょう? 僕はただ、あなたのそういう思わせぶりなところが、嫌いなだけですよ」 その途端、彼の顔がまたもやくしゃりと歪んだ。 泣き出しそうに、酷く傷つけられたように。 こんな顔をさせたくなかったのに。 そんなつもりじゃなかったのに、またやってしまった。 もう少しうまく言えたはずだ。 もっとうまく取り繕えたはずだ。 それが出来なかったのは、彼が相手だからかもしれない。 彼だから、彼に特別な思いがあるから、自分を欺き続けることが出来なくて、中途半端な嘘が、彼を傷つけてしまう。 どうせ嘘を吐くなら、完璧に吐けばいいのに。 苛立ちに任せて、 「…くそっ……、嫌になる…」 と吐き捨て、拳でベンチを叩いた。 その痛みよりも、驚き、身を竦ませた彼の反応に、我に返る。 「あ、お、驚かせてしまってすみません。最近、気が緩んでしまってまして、つい、地が……」 「だからっ、」 言い訳しようとした僕をさえぎって、彼が涙の滲んだ目で僕を睨む。 「その敬語を止めろって、何度言えばいいんだよ! 俺のことなんか嫌いなんだろ。だったら、敬語なんて、」 「さっきから何度も言ってますけど、別に嫌ってなんかいません。あなたこそ、僕なんて、お嫌い、でしょう?」 勢いあまってそう言ってから後悔した。 嫌われていると分かっていても、彼の口から聞きたくなんかない。 そう思うのに、言ってしまった。 言うんじゃなかったと悔やむ僕に、 「……嫌いだと、思うか?」 と彼が聞いてくる。 「嫌われていることくらい、分かってます」 それで当然のことばかりしてきたから、それくらいのことは分かる。 これで嫌われてなかったら、お人好しより上の表現が必要になると思う。 「予想を裏切って悪いがな、」 彼は偽悪的に笑って、挑発するように僕を見た。 「別に、嫌いじゃない」 その言葉に驚かされながら、僕は彼を見つめる。 その目にはどこか痛々しいものがあったけれど、嘘や冗談を言っている様子はなかった。 「じゃあ、何です?」 「お前が先に言え」 というのが彼の返事だった。 「お前が言ったら、…俺も、言ってやる」 「…聞いたら絶対に後悔しますよ」 「分かってるさ、そんなことくらい。だが、聞かなきゃ納得することも出来ん」 苛立ちを含んだ彼の言葉に圧され、僕は白旗を揚げた。 「…分かりました、僕の負けです」 「言うんだな?」 「ええ、後悔はどうぞお一人でなさってください」 そう言って、僕は彼に向き直った。 正面から彼を見つめるだけで、心臓が飛び出しそうになるけれど、告白するつもりなら、堂々と向き合って言うべきだろう、と乏しい恋愛経験ながらも思ったのでそうする。 出来れば、全力で目をそらしたいくらいだと思いながら、 「僕は、」 とはっきり告げると、彼は自分から言い出しておいて、怯えるように身を竦ませた。 「あなたが、」 ぎゅっと目をつぶる彼にほっとしたのは、あのまま見つめていたらどうにかなりそうだったからだ。 それでも、言いやすいとは決して言えない言葉に、僕は気を持たせるためでなく、たっぷりと間を取らざるを得なくなり、痺れを切らした彼が薄く目を開きかけたところで、 「――好きです」 と告げた。 「……は?」 ぽかんとした顔で、彼が僕を見る。 自分の耳に手をやってるのは、それがおかしくなったからではないかと疑っているからだろうか。 「好きなんです。ずっと、好きだったんですよ、あなたのことが。友人としてでなく。――気持ち悪い、でしょう?」 そこまで言ってやっと意味が通じたとばかりに目を見開き、顔を赤らめた彼が、 「だ、…って、なんで、そんな、友人付き合いすら、まともに出来やしなかったってのに……」 と戸惑いの声を上げる。 「友人になりたいと思ったことがないと言えば嘘になります。でも、僕はそれ以上に、あなたの友人になんて、他の方々と同列の友人になんて、なりたくなかった。もっと、特別な存在でありたかった。……実際、あなたはまだ僕のことを気にかけていてくださったみたいで、嬉しいですよ。高校時代に嫌な奴でいた甲斐があったというものですね」 言いながら、笑みがこぼれた。 自嘲の笑みに似てはいる。 でも、違う種類の笑み。 僕は心底、嬉しかったのだ。 彼がここまで、僕のことを気にかけていてくれたことが。 それがたとえ、どんな種類のものであったとしても。 「これで、あなたの嫌な思い出としてであっても、あなたの記憶の中に僕がはっきりと残れるだろうと言うことも、嬉しくてなりません」 皮肉でなく、そう言った。 言ってしまった。 もう、おしまいだ。 不思議と、悔やむ気持ちはなかった。 それ以上に、達成感に似た感覚があった。 だから僕は、これ以上彼を不快にしたくない一心でベンチから立ち上がり、そのまま帰ろうとした。 これで涼宮さんに叱られたって構わない。 叱られるなら、僕一人にしてもらおう。 そう思いながら足を踏み出したところで、 「待てよ!」 と呼び止められたばかりか、背後から抱きつかれて、今度こそ心臓が止まるかと思った。 「え、あ、あ、あのォっ!?」 うわ、恥ずかしい。 声が裏返ってしまった。 それくらい、驚かされた。 「俺だって、」 彼の声がくぐもって聞こえるのは、僕のシャツの背中に、彼が顔を押し付けているから、だろうか。 「…お前の、そういう、一方的に決め付けるところが、嫌いなだけだ」 期待した直後のそんな言葉に、奈落に突き落とされるような心持がした。 「嫌いなら、放してくださいよ。自分がどれだけ残酷なことをしているか、分かって、」 「だから最後まで聞けよ!!」 彼が怒鳴り、胸に回された腕に力が込められる。 僕が黙ると、彼はしばらくためらうように黙った後、 「……そこくらい、なんだよ。嫌いなのは」 と囁くような小さな声で告げた。 「それ…は……」 「…分かれよ、この、馬鹿……」 罵りの言葉のはずなのに、力はない。 むしろ、甘く響いたように思ったのは、錯覚、だろうか。 「……期待して、しまいますよ」 「するだけ無駄だ」 ぴしゃりと言っておいて、彼は僕の背中に顔を摺り寄せたようだった。 背中がむずがゆい。 「…期待するまでも、ないんだからな」 ――好きだ、と、呟くように告げられた。 「そんな頃もあったんだよなぁ……」 パソコンをいじっていると、その当時、涼宮さんに、レポート提出出来ない旨の反省文を書こうとして四苦八苦したらしい痕跡のデータが出てきたせいで、そんなことを思い出していた。 あの頃は本当に初々しかった、なんて言うと随分年月が過ぎたようだけれど、僕はまだ大学を卒業すらしていない。 というか、目下のところ、期末試験のレポートに苦しめられている最中であり、その逃避として、古いデータを整理していたのだ。 そろそろ現実に戻らないとやばい。 そう思ったってのに、 「何がだ?」 とたまたま遊びに来ていた絶賛遠距離恋愛中の恋人に声をかけられ、レポートに戻れなくなった。 「いえ、……あなたに告白した時のことを思い出してただけ」 「ああ、お前がツンデレ青年だった頃の話か」 ツンデレって。 酷い言葉を選んで軽口を叩くくせに、甘えるように僕の背中へもたれかかってくる彼の体温も重みもいとおしい。 でも、されるばかりだとそのまま押し潰されてしまうので、それをぐいぐいと押し返しつつ、 「あなたこそ、そうだったろうに、よく人のことが言えるね」 「やかましい。というか、あの頃のお前の態度で、どうやって秘めた好意とやらに気付けと言うんだ」 と渋い顔をする彼に、僕も笑って、 「無理だろうねぇ」 と答えるしかない。 「何せ、自分でも直前まで自覚してなかったんだから」 「何だと?」 彼が聞きとがめ、僕の首に手をかけた。 絞める気なのか。 絞められるのか!? 「それは初耳だぞ…」 憎らしげに言われ、今度は僕が驚かされる。 「え? 言ってなかったっけ?」 「聞いてない。どういうことだ?」 脅迫するように、首に回した手に力が込められ、僕は洗いざらい白状させられた。 高校時代は無自覚だったことも、涼宮さんと電話で話してやっと気がついたということも、全部。 それに対する彼の反応は、鈍いだの馬鹿だのといった分かりやすい罵りの文句ではなく、 「……高校時代のが無意識だったってことがムカつく」 という唸り声だった。 「ええ? そこなの?」 「ムカつくに決まってんだろうが。あれがなかったら、俺は今頃もう少し真っ当な生き様をさらしてたに決まってる」 「あー……じゃあ、僕は自分の無意識の行動に大感謝だね。おかげで、今とても幸せなんだから」 「……締りのない顔だな」 呆れたように言っておきながら、彼は僕の頭をかき抱くように抱きしめる。 「だらしない顔の僕は嫌い?」 「他で見せないなら、嫌いじゃない」 「…素直じゃないなぁ」 と笑ったところで、頬を抓られる。 「うぁ、痛いって! 降参降参!!」 「これくらい痛くないだろ」 「痛いって! 赤くなってない?」 「それほどじゃ……」 言いながら指を離した彼は、まじまじとそこを覗き込んだ後、 「……これくらい、平気だろ」 「酷い…」 「うるさい。これでチャラだ」 と言って、彼は僕の頬にキスをした。 「それだけ?」 「…お前な、十分喜んでるなら素直にそう言え。ツンデレはもううんざりだ」 「だったら、あなたこそ素直になってよ」 「俺は十分正直に生きてますー」 駄々っ子のように言いながら、彼が僕を抱きしめる。 その暖かさに、この上ない幸せを感じながら、 「大好きだよ」 と囁いた。 |