お狐様の要求



今日も無事に一日が終わった。
閉鎖空間の発生の兆候もなく、涼宮さんが機嫌を損ねることもなく、つつがなく家路につけることを感謝しながら家まで歩き、悲しくも迎えてくれる人のない家の鍵を開けて玄関に入ると、
「お帰り」
と言われて一瞬硬直した。
…どうやら、迎えてくれる人はなくても、迎えてくれるお狐様はいらしたらしい。
「どうしたんですか?」
「お帰り、と俺は言ったんだが?」
不機嫌な言葉とともに、威嚇するように三角形の耳が尖り、こげ茶の尻尾が剣呑に揺れる。
「…ただいま帰りました」
「よし」
「それで、一体どうしたんです?」
「別に? 家にいても暇だから来ただけだ」
という言葉に付け加えられるのは、
「お前がいつでも遠慮せずに来ていいって言ったんだろ?」
という一言で。
……確かに、言いました。
言ってしまいました。
でも…、
「それにしても、入り浸ってません? 最近、気がつくとうちにいるじゃありませんか」
僕がいなくても出入りした形跡があったりするくらいだ。
あれを気のせいとは言わせない。
「うるさいな」
心底鬱陶しそうにお兄さんは言い、思わずひるんだ僕を睨みつけた。
「お前には俺を崇め奉り奉仕する義務があるんだから、おとなしく従え」
「……」
反論は出来ず、さりとて、そのまま頷くこともしかねて黙り込んだ僕に、お兄さんは更にキツイ眼差しを向け、切り札の如き脅迫を口にした。
「文句があるなら、消えてやる」
「すいません、それは勘弁してください」
反射的にすがりついた僕を睥睨しながら、お兄さんは短く、
「酒。あと飯」
と命じた。
とんた関白である。
それとも、神様というのはみんなこんなものなんだろうか。
「お酒なんてありませんよ。僕はまだ未成年なんですから」
「じゃあ買って来い。お前の外見なら、十分成人男子に見えるだろ」
「そういう問題じゃありませんよ…。そんなところ、万が一誰かに見咎められたらどうなると思ってるんです?」
「うるさいな。じゃあ、金を出せ。自分で買ってくる」
そう言ったかと思うと、お兄さんは僕のかばんに手を突っ込み、財布を引っ張り出して消えた。
残された僕は深い深いため息を吐き、
「……晩御飯、作ろ…」
と呟くほかなかった。
お兄さんに逆らえるはずなどない。
それに、いくらか不本意ではあっても、本当は、嬉しくもあるのだ。
お兄さんが僕のところに来てくれることも、僕にああして甘えてくれることも。
…お兄さんにしてみれば、
「甘えてるんじゃない」
と大いに否定されることだろうけど、それくらい軽く、かつ好意的に思わなければやってられない。
僕たちの関係が、実際には契約染みたものであるからこそ、これくらいの妄想…いやいや、空想くらい許してもらいたいというものだ。
……あ、なんだか悲しくなってきた。

いくらかしょっぱいかもしれないと思いながら、お兄さんに献上した夕食は、早くも出始めた春野菜のおひたしだとか、茶碗蒸しとか、干物の焼いたのだとかになった。
妙に手が込んでいるものが紛れ込んでいるのは、僕の現実逃避のあらわれだと言うしかない。
本来狐であり、肉食であるはずのお兄さんには不評ではないかとびくびくしていた僕だったのだが、お兄さんは文句も言わず席についたかと思うと、やけにしみじみと呟いた。
「あれだけ野菜嫌いだったお前が、自分から野菜を食べるようになるとはなぁ……」
…野菜嫌いって、いつの話ですか。
「そりゃ、俺がお前と過ごしてた頃だろ。何年になるのか忘れたが。というか、そんな細かく時間を区切ってどうするつもりなんだろうな、人間は。自分が小さかった頃とか、最初の子供が出来た頃とか、そういう区分で十分だと思わんか?」
「知りませんよ。…と言いますか、まさかとは思いますけど、あなた、子供なんているんですか?」
「いねぇよ」
とお兄さんは軽く笑った。
「さっきのは物のたとえだ。俺なんかに子供なんているわけないだろ。嫁の来る当てすらないぞ」
「どうしてですか? お兄さんならもてそうなのに……」
「人間のものさしで計ろうとするなよ」
くすぐったそうに笑いながらも、お兄さんは釘を刺すように厳しく言った。
「俺たち狐族にとって重要なのは見目だの性格だのじゃない。…いや、もちろんそれだっていくらか考慮はするがな。ただ、一般的にもてるのもてないのってのは、そいつの持ってる力の強さだとか、血統だとか、そうじゃなかったら尻尾の数で決まる。もっとも、最近は面食いってのか? 尻尾や姿形のよさが重視されがちになってるからな。俺みたいな、みっともないこげ茶の毛皮に、多少大きめだがひとつきりの尻尾しかないような、野狐とも仙狐ともつかない半端者は、箸にも棒にも引っかからん」
「そういうものなんですか」
「そういうものなんです」
自分にとって嬉しからぬことを言っていたはずなのに、お兄さんはどこか愉快そうに笑っていた。
おまけに、僕の頭を軽く撫でながら、
「まあ、だからこそこうして好き勝手出来るんだがな」
なんて言う。
その、お兄さんにしてみれば何気ない一言が、僕にどんな影響を与えるかなんてこと、少しも分かってないんだろうな。
「じゃあ、僕はそのことに感謝したいです。そのおかげで、お兄さんに会えて、こうして一緒にいられるのなら」
「…そうかい」
小さな子供にするように、優しく目を細めたお兄さんは、ふと何かを思い出したかのようにその目を厳しいものにしたかと思うと、
「そうだ、言い忘れたらまずいから今言っておくが、お前、何かあったらすぐに俺を呼べよ?」
「何か…ですか?」
どういう意味だろう。
「はっきりいつとは言いがたいんだが、また何かお前の身に起こりそうだから、気になってな。俺が四六時中ついていられればいいんだろうが、人として過ごしてるとそうもいかん。だから、何かあったらすぐに俺を呼べ。閉鎖空間でもどこでも、すぐに駆けつけてやる」
「…はい、分かりました」
勝手に顔が緩んでいたんだろう。
お兄さんは眉を寄せて、
「そう嬉しそうにするな。危ない目に遭うって言ってるんだぞ?」
「ええ、それは分かってるんですけど……でも、お兄さんが守ってくださるんですよね?」
「当たり前だろ。…そういう約束だからな」
「それでも、嬉しいんです」
「……阿呆」
不満そうに毒づいて、お兄さんは食事へと意識を戻した。
僕も箸を手に取り、にやけたままの口に、おひたしを放り込んだ。
思ったより、しょっぱくはなかった。

食事を終え、ほっとしながら僕は後片付けに取り掛かる。
お兄さんは当然、お客様というか、僕のご主人様のような状態――お兄さんに知られたら、「ような、じゃない。事実俺が主人でお前はゲボクだ」くらいのことは言われてしまうんだろうな――だから、手伝ってくれるつもりなど毛頭ないらしく、ソファにごろんと寝そべって、だらだらとテレビを見ている。
……野生動物の生活を追ったドキュメント番組なんて、狐のお兄さんが見て、楽しいんだろうか。
もちろん、お兄さんはただの狐じゃないから、普通の動物の生活を見て面白く感じたりするのかもしれないけど、何か不思議な気がしてくる。
洗い物を終え、今度こそほっと一息つける、と思ったところで、
「一樹」
と呼ばれ、反射的に身構えた僕に、起き上がったお兄さんが渋い顔をした。
「なんだその反応は」
「いえ……いつものパターンだと、食事の後にすることが決まってるものですから……」
次は自分が食われる番に違いないと身構えた僕に、お兄さんは軽く笑って、
「阿呆。いいから、ちょっと来い」
どうやら、今日はそのつもりはないらしい。
安心しながら、それでもいくらか警戒しつつ僕が近づくと、お兄さんはぽんぽんとソファを叩いた。
どうやら、僕にも座れと言いたいらしい。
おずおずと腰を下ろしたのは、お兄さんのすぐ隣、と言うにはいくらか距離をとった位置だったのだが、お兄さんがすぐさま僕の肩に手をかけ、僕を引き倒した。
「うわっ…!?」
一体何事だろう、と戸惑う間もなく、自分の頭がなにやら弾力のあるものの上に置かれたのが分かった。
これは……。
「膝枕だ。懐かしいだろ?」
優しく目を細めたお兄さんが、そう言って僕の前髪をかき上げるようにして撫で付けた。
ああ、小さい頃にもよくこうしてもらって、お昼寝をしたっけ。
あの頃は、今みたいにふわふわしたソファでじゃなくて、硬い縁側でのことだったから、背中なんかは結構痛かったはずなのに、僕はお兄さんにこうしてもらうのが大好きだった。
「お前、疲れてるんだろ?」
お兄さんは咎めるでなくそう言った。
僕の体を案じるように。
「少しだけ…ですよ」
「だから、今日は俺が甘やかしてやる。…今、お前に精をもらって、それでお前に死なれても困るからな」
なるほど、そういうことか。
僕は素直に納得したのに、お兄さんは照れ臭そうに、
「勘違いはするなよ。お前に死なれたくないって言うよりは、ここでお前にいなくなられると、また一人でぼやぼやしてるだけの野狐もどきに戻っちまうから、それが嫌なだけだ」
「それでも、僕は嬉しいです」
そう僕は笑ったはずなのに、お兄さんはどうしてか苦い顔をして、
「……もう、いいから少し眠れ。無理なんてしなくても、俺はお前の側にいて、お前を守るから」
「はい……ありがとうございます…」
目を閉じた僕の上に、ふわりと何かが乗せられる。
暖かくて、ふわふわして、いいにおいのするもの。
お兄さんの尻尾だと分かると、余計に嬉しくて、ついついそれを抱きしめた。
いつもだったらすぐに叱られるか、そうじゃなくても尻尾を取り上げられてしまうだろう。
しかし、お兄さんは文句も言わず、尻尾を引き下げもせず、それを許してくれた。
そのことが嬉しくて、でも、どうしてか、とても、切なかった。