その日は機関での仕事もなければ涼宮さんの命令による不思議探索もない、何の変哲もない日曜日のはずだった。 僕は久しぶりに惰眠を貪ろうと、携帯をマナーモードにしてバイブレーション機能も切り、準備万端で布団に潜り込んでいたのだが、そのマナーモードになっているはずの携帯がけたたましい音を立てて叩き起こされた。 一体何事だろうと思いながら取ると、 『遅い』 と開口一番に怒られた。 「お兄さん……? 一体どうしたんですか?」 というか、僕、マナーモードにしてたはずなんですけど。 『そんなもん、解除してやったに決まってるだろ』 平然と言い放ったお兄さんは、 『お前、今すぐ着替えて出て来い。駅前で落ち合おう』 「え?」 『じゃあな』 僕の返事も聞かず、お兄さんは通話を一方的に打ち切ってしまい、何も聞こえなくなった。 何かあったんだろうかといぶかしみながら、僕は慌てて着替え、家を飛び出した。 朝ごはんを食べる暇もない。 急いだ甲斐あって、お兄さんをそう待たせることもなかったらしく、お兄さんはにこやかに、 「よう、一樹」 と声をかけてくれた。 「おはよう…ございます…っ…」 息を切らしながら言った僕に、お兄さんは笑顔で、 「あと一分待たされたらどうしてくれようかと思ってたんだが、ぎりぎり間に合ってよかったな?」 前言撤回。 全然機嫌がよくないようだ。 「一体、どうしたんです?」 僕が聞くと、お兄さんはきょとんとした顔で、 「何が?」 と聞き返してくる。 「何がって……何かあるから呼び出したんじゃなかったんですか?」 「ああ、そういうことか」 お兄さんは小さく笑い、 「ただ単に、お前と遊んでやろうかと思っただけだ」 「……はい?」 「このところ忙しくしてただろ。労ってやろうかと思ったんだが?」 それならもう少し寝させてほしかったとか、ほかにやり様があるでしょうとか、言いたかった。 言いたかったけれども……僕が、お兄さんに勝てるはずがない。 僕は拍子抜けするあまりそのまま脱力してしまいそうになりながら、 「…ありがとうございます……」 と返す他なかった。 「それじゃ、まずはお前の腹ごしらえからするか」 そう言ったお兄さんが僕の手を取り、歩き出す。 ええと……いいんですか? 「何が?」 「手、繋いだりして……」 「ああ、そのことか」 お兄さんは薄く笑って僕の手を握りなおすと、 「いつもの結界があるから、これくらい平気だろ。お前こそ、嬉しいくせに、変に意地を張るなよ」 「……」 意地を張るとかそういう問題じゃないと思うのだけれど、嬉しいのは本当だから、黙って従うことにしよう。 お兄さんに、僕の、人間の、常識が通用しないことは、ここしばらくのことだけでもよく分かった。 「朝飯は何がいい? 何でもいいぞ?」 「って言っても、払うのは僕なんですよね?」 「当たり前だろ。お前は祭主で俺は祭神。それなら、お前が俺に貢ぐのが筋ってもんだろうが」 「分かってますよ」 どこかおかしいとは、思わないんだろうな。 これでどうして、人としてはきちんと常識的に振舞えるのか、分からない。 演技だから出来るということなんだろうか。 お兄さんも本当に不思議な人…じゃなかった、狐だ。 「で、朝飯は?」 「そうですね…」 僕は少し足を止めて、この辺りにあったお店のことを思い出す。 特にどこがいいというわけではないけれど、最近よく聞くのは、 「この先に新しく喫茶店が出来たそうですよ。モーニングもやっているでしょうから、そこにしましょうか」 「おう」 頷いて歩き出したお兄さんだったが、小さくくすりと笑ったかと思うと、 「相変わらず、記憶力はいいよな。おまけにまめだし」 「そうですか?」 「昔っからそうだろ。俺が何て言ったかとか、何を食べたがってたかとか、いちいち覚えててジジィに言いにいくから、俺が怒られたりしたんだぞ?」 「ええっ?」 それは初耳だ。 驚く僕に、お兄さんは笑って、 「一樹を使ってねだるんじゃない、って叱られてな。そんなんじゃないっつうのに」 「そんなこと、あったんですか」 「あったんだよ。お前に悪気はなくて、むしろ俺のためにしてくれたんだろうけどな。自分のお小遣いを貯めて、俺のためにってお菓子を買ってきてくれたりした時には不覚にも泣きそうになった覚えがある」 「ああ、ありましたね、そんなことも」 僕が育てられた祖父の家は随分と田舎の方にあったから、駄菓子を買いにいくにも遠くて、ちょっと苦労しながら行って、お兄さんのためにと選んだ記憶がある。 ……そんなに小さな頃からお兄さんのことが好きだったのかな。 「一途だよなぁ」 「……お願いですから、心を読まないでください。恥ずかしいです」 「今更だろ」 悪びれもせずに言ったお兄さんは、柔らかく笑っていた。 僕の気持ちを分かっててそう笑ってくれると、変に期待してしまいそうで、正直困る。 そんな僕の心情の、細かなところまでは多分、心を読みはしても理解はしてくれないんだろうなと思うと、少し、いや、少なからず、寂しく思えた。 本当に、むなしい片思いだ。 振り向いてくれる可能性のない相手への片恋以上に、むなしい。 なにせ、相手は人間じゃなくて、だから、僕の気持ちを知っていても理解できないのだから。 思わずため息を吐くと、 「飯がまずくなるから不景気な面をさらすな」 と怒られた。 そこそこ美味しくて手頃な朝食を終えて、僕たちは喫茶店を出た。 「これからどちらへ?」 と僕が聞くと、お兄さんは少し考えてから、 「こっち」 と僕の手を引いて歩き出す。 そうしてお兄さんが向かった先はホビーショップだった。 何かほしいものがあるんだろうかと思う僕を連れて、店内を歩き回りながら、お兄さんは呟く。 「お前、昔っから古臭いゲームが好きだったよな。将棋や碁ならまだしも、盤双六なんて渋すぎやしないか?」 「どれも、お兄さんが教えてくださったんでしょう?」 だから僕は好きになったのに、その言い草はちょっとない。 「教えたのはジジィだろ。俺は、相手をしてやっただけだ。あのジジィがついてるし、お前は物覚えだって随分よかったのに、どうしてもヘボなのが逆に面白かった」 「う……」 「多分、お前は素直すぎるんだろうな」 なんて、明るく笑ったお兄さんは、くしゃくしゃと僕の頭を撫で、 「ジジィや俺みたいにひねくれてるよりよっぽど可愛くていいから、そのままでいろよ」 「…あまり褒められてる気がしないんですけど」 「そうか?」 そうですよ。 それに、 「僕、そんなに素直すぎますかね? 知人には、ひねくれ過ぎてて気味が悪いとか、鬱陶しいとか言われるんですけど」 「誰だよ、そいつは」 いくらかの苛立ちを含んだ声に首を傾げつつ、 「生徒会長、と言えばあなたも分かるのでは?」 「あいつか。……よし」 待ってください。 今何を決定したんです? 「ちょっとした報復措置を、」 「やめてください」 慌てて言うと、お兄さんは不満そうに唇を尖らせて、 「なんでだよ?」 「相手は一応一般人なんですから、穏便に済ませてください。それに、僕もその通りだと思いましたから」 「はぁ? お前のどこがひねくれてんだよ」 眉間にしわを寄せた難しそうな顔でお兄さんは力説した。 「お前は素直で分かりやすくて可愛いだろ。そりゃ、立場上陰謀をめぐらせなきゃならなかったりはするが、それだって、もうひとつ足りない感じで、俺からすると手緩いことこの上ない。見ててイライラするくらいだ。だが、お前はそれだから可愛いんだし、ジジィみたいに陰険なやつよりも、よっぽど好感が持てる。気味が悪いだの鬱陶しいだの、そんな暴言を吐くやつは許しておけん」 ……すいません、ひとつ言っていいですか。 「何だよ」 「あなたも言いますよね、僕に」 「………」 思い当たる節を探すように、お兄さんはしばらく視線をさまよわせた挙句、 「…そうだったか?」 「言いますよ!? 顔が近いとか気色悪いとか鬱陶しいとかきもちわるいとか」 「あー……言われてみればそんな記憶があるようなないような」 「僕、結構傷ついてるんですよ?」 「悪かったな。……しかし、人に化けてるからか? それとも、お前を特別扱いしちゃまずいと思ってるからかね」 ぶつぶつと独り言のように言いながら、お兄さんは苦笑し、 「今度から気をつけることにするからそう責めるな」 「…いいですけどね、別に」 「お前だって、本心からじゃないって分かってただろ?」 「……本気以外の何物にも見えませんでしたけど?」 「なんだと?」 不機嫌に言うお兄さんに、僕は正直に言う。 「最近は、お兄さんだって分かってるから比較的平気になりましたけど、それ以前は本当に気味悪がられてるのかと思って、見た目以上に傷ついてたんですよ?」 「そう……だったのか?」 「…お兄さん、もう少し自分の言動とその影響力について把握してくださいね」 「おう、善処する」 「それ、一顧だにしないって意味でしょう!?」 実際、僕の苦情などどこ吹く風とばかりに目をそらしたお兄さんだった。 それから、昼食も外で食べて、あちこち歩き回った後、駅前に戻ってきたところでお兄さんが言った。 「それじゃ、今日はこれくらいで帰ることにするか」 「あれ? うちにはいらっしゃらないんですか?」 「別にいいだろ」 「はぁ…どちらでも、いいですけど……」 何か引っかかると思った。 いや、そう思ったのは今に始まったことじゃない。 呼び出された時から、何か違和感を感じていた。 違和感と言うのが言いすぎなら、何か裏があると思っていたとでも言い換えれば丁度いいかもしれない。 お兄さんが何か隠しているように思ったのだ。 だから僕は、帰ろうとするお兄さんの手首を掴んでその足を止めさせ、お兄さんが抗議しようと振り返ったところで、 「今日は、なんだったんですか? 誤魔化したりしないで、正直に教えてください」 「……お前、やっぱり素直すぎるな」 とお兄さんは薄く笑った。 でもどうやら、誤魔化すつもりはないらしい。 小さくため息を吐くと、 「……俺がお前の部屋に行くと、お前は寛げないんだろ?」 「…え……?」 「前から、俺が行くと緊張するみたいだったが、この前、……その、俺がやり過ぎた時から、余計にそうなっただろ。今日だって、時々警戒してたくせに」 「…それは……」 ほとんど無意識の行動だ。 そうなってしまっていることを全く意識してなかったわけではないけれど、かといって、意識的にそうしていたわけでもない。 「俺と二人きりだと、緊張しすぎて寛げないんだろ? だから、……昔みたいに、構ってやりたくて、呼び出したんだ。…それすら迷惑だったなら、悪かったな」 「そんなことは…」 「ないって言えるか?」 じっと僕を見つめたお兄さんに、僕は正直に答える。 「……迷惑では、ありません。驚きましたし、戸惑いもしましたけど、でも、それ以上に、嬉しかったんです。お兄さんと過ごせて、とても嬉しかったです。僕が緊張してしまうのは、慣れてないからだと思うんです。お兄さんのせいじゃありません。だから、いつでも、遠慮せずに来ていいんですよ?」 「……本当か?」 「はい。だって、お兄さんと僕の仲じゃないですか」 茶化すように笑ってみたら、お兄さんも笑って、 「そうだな。お前なんて半分くらいは俺が育てたようなもんだし」 と言った。 「じゃあ、いいか? お前の部屋に行っても」 「はい、いつでも歓迎しますよ」 「なら、今日、今すぐ、行きたい」 自分の方がよっぽど子供みたいにせがむお兄さんに僕は笑って頷いて、お兄さんと一緒に部屋に帰った。 それだけのことが、とても嬉しく思えた。 |