言葉よりも



好きな人がいます。
その人はとても分かり難い人です。
何を考えているのか、何がしたいのか、何を思うのか、僕には分からないことばかりです。
でも、分かる人がいるのなら、きっとその人にも表情や感情がはっきりとあるということなのでしょう。
そう思った時から、僕の思いは始まっていたのだと思います。
僕も分かりたいと思い、その人のことを理解したいとも思いました。
その時から、僕はあの人が好きなのです。
いつも変わらず、穏やかな、窓辺の文学少女が。


ある放課後のことだった。
涼宮さんは鶴屋さんと一緒に朝比奈さんを連れて帰ってしまい、彼は進路指導で呼び出されている。
つまり部室にいるのは僕と彼女の二人きりで、それだけで僕は自分の顔が赤くならないよう努めなければならなくなった。
それくらい、僕は彼女のことが好きなんだと思う。
そう思うと、くすぐったいけれど、そのくすぐったささえも嬉しくて。
だめだなぁと思いながら、僕は少しばかりにやけていた。
二人きりで部室にいるからと言って、会話をするわけでもなければ、一緒に何かするわけでもない。
僕はチェスのプロブレム集を見ながらチェスピースをああでもないこうでもないといじくっているだけだし、彼女は彼女で今日も黙々と読書をしているだけだ。
そこにあるのは、ただ同じ部室にいるという空気の共有のみだ。
それなのに、そんな時間が、他愛のない時間が、とても楽しくて、愛おしくてならない。
小さく笑ったところで、彼女がふっと顔を上げ、僕を見つめた。
どうかしたのか尋ねているように見えたので、正直に、
「いえ、こんな時間の過ごし方もよいものだなと思っただけなんですよ」
と答えた。
彼女は数ミクロンしか感じられないような頷きを残して、また本の世界へと戻っていく。
彼女が僕のことを気にしてくれたのかと思うと、なんだか嬉しい。
一時は、僕なんていてもいなくても同じように扱われていただけに、余計に。
…まあ、あの頃は僕の態度も悪かったんだろうなと今になって反省する。
出会ってまだ間もない頃は、僕も自分と他の団員との距離を測りかねていたし、何より彼女のことをちゃんと人として扱っていなかったように思う。
今、そうでないのは彼女と過ごしてきた時間のせいもあるだろうし、僕の側の変化も大きいのだろう。
変わったことといえば、彼女の頷きを、ちゃんとその通りに受け取れるようになったのも最近のことのように思う。
それを思うと、彼は本当に凄い。
僕よりずっと彼女を見ているということなのか、彼女について知りたければ本人よりもむしろ彼に聞いた方がよさそうなくらいだ。
それが少なからず羨ましいのに、嫉妬にはならないのは多分、彼が妹か娘でも見るような目で、彼女を見守っているからだろう。
僕は彼に対してよりもむしろ、時折彼女が足を向けるコンピュータ研究部の面々にこそ、嫉妬してしまいそうになる。
あの彼女が、自ら向かうなんてことが、羨ましくて、妬ましくすら感じられそうになるのだ。
そんな風に思うと言うことはやっぱり、恋以外の何物でもないのだろう。
自分の感じている感覚がなんであるのか断言し難いのは、僕が今までにそのような感情を抱いたことがないからであり、立場上、彼女にせよ他の誰にせよ、好きになってしまうのはあまり好ましい状況ではないからだ。
勿論、恋愛禁止と言われているわけではない。
仲間にだって、恋人や妻子がある人はいる。
僕もよくからかわれてしまうくらいだ。
でも僕は、そんなに器用じゃないから、やめておこうと思っていた。
それでも、こんな風に二人きりになってしまうと、言ってしまいたくなる。
二人きりでいるだけで、彼女への愛しさが込み上げてきて、黙っていられなくなりそうだからだ。
言ってしまいたい。
…そう思いながら、何度チャンスを見送ってきただろう。
結局僕がそれを口にしたのは、二年生になって最初のごたごたがなんとか片付いた後のことだった。
その諸々の騒動のおかげで、僕は彼女の大切さを強く再認識させられ、また、彼女が必ずしも万能ではないということを理解したことで、黙っていたまま後悔することにはなりたくないという危機感が生まれたのだ。
そうでもなければずっと黙り通していただろうと言うことを思うと、騒動の原因に感謝したっていいくらいの気持ちになる。
…勿論、あんな思いをするのはもう二度とごめんだけれど。
だから僕はその日、彼女と二人きりになれたのをいいことに、
「すみません、ちょっとよろしいでしょうか」
と声を掛けた。
読書の邪魔をしてしまうのは申し訳ないと思いながらもそう言った僕に、彼女は嫌な顔ひとつしないで本を閉じた。
黒水晶やオニキスよりも綺麗な瞳がじっと僕を映し出す。
それだけでも、心拍数が余計に上昇するのを感じながら、僕は意を決して口を開いた。
「…あの、あなたのことですから、もうご存知かもしれませんけれど、聞いてください。僕は……」
緊張のあまり声が震える。
うまく言葉を紡げなくなりそうな口を叱咤して、僕は続きを口にした。
「…あなたが、好き、なんです」
「……そう」
というのが彼女の返事だった。
その声音に、かすかだけれど、困惑が滲んでいるように聞こえたのは気のせいだろうか。
それきり黙りこんでしまった彼女と僕の間に、気まずい沈黙が満ちる。
なんていうか……早くも告白したことを後悔してしまいそうなんですが。
「っ、あの、」
沈黙に耐えかねて、僕は更に問うた。
「あなたは、僕のことを……どう、思ってくださってます…か……」
最初こそ勢いに任せて威勢よく口にしたものの、段々と声が小さくなり、最後には掠れて消えた。
彼女は困ったような表情で黙り込んだ。
「………………」
かすかに下がった眉。
引き結ばれたままの唇。
僕を見ているのかすら分からない瞳。
その諸々に耐えかねて、僕はため息を吐いた。
「……やっぱり、いい、です。…すみませんでした。あなたを困らせたかったわけではないんです。……どうか、忘れて…ください…」
そう言うのがやっとで、僕はそれ以上彼女を見つめることも出来ず、すごすごと自分の指定席に戻った。
その後、家に帰りつくまでの間、なんとか醜態をさらさずに済んだのはひとえに、馬鹿みたいなプライドと日頃の鍛錬のためだろう。
そうでもなければ、あのまま部室で泣き出すかどうかしていたに違いない。
その証拠に、自室に帰るなり、僕の目からは情けなくも涙が溢れ出していた。
初恋は叶わないものだというけれど、それにしたって最悪のケースのひとつなんじゃないだろうか、これは。
好きな人を困らせてしまうなんて。
それに、伝えられただけでもいい、なんてことは思えやしなかった。
好きな人に応えて欲しい、というのは実に普通の考えだと思う。
僕じゃ、だめなんだろうか。
彼女には他に好きな人がいるんだろうか。
そう思うだけでも涙が止め処なく零れていく。
どうしようもなく悲しくて、切なくて、苦しくて。
僕は枕を抱き締めて、泣きながら眠った。
目が覚めたら、明日になったら、いつも通りになろうと誓って。

実際、僕はちゃんと「いつも通り」を演じられたと思う。
クラスメイトにも何も言われなかったし、涼宮さんや朝比奈さんにも何も言われなかった。
長門さんも、僕が言った通り、忘れてくれたんだろう。
いつもと何も違わないように見えた。
それなのに、
「お前、長門と何かあったのか?」
と彼に聞かれてしまい、僕は絶句した。
部室に来て三十分ばかりした後の、中途半端な時間帯に部室から外へと連れ出されたから何事かと思ったものの、まさか気取られたなんて思いもしなかったからだ。
「…やっぱりか」
僕の反応で何かあったということに確信を持ったのだろう彼が渋い顔で呟いたのへ、
「どうして、そんなことを?」
ひきつりながらもそう問うと、彼は深い深いため息を吐いた。
「気付かないとでも思ったのか? お前ら、二人とも変だろ」
「そう…でしょうか」
僕はともかく、長門さんはいつも通りに見えたけれど……。
「変だ。お前は長門のことを意識してただろ? …いや、意識してるのはいつものことといえばいつものことなんだがな。今日は申し訳なさそうな、妙な感じで見てただろうが」
「…え」
そこまで態度に出ていただろうか。
というか、意識しているのをいつものこと、と言われてしまうなんて。
軽いショックを受けている僕に、彼は眉間の皺を二割増にしながら、更に続けた。
「長門は長門で、本を読んでない。あれを変と言わずしてなんと言うんだ?」
「え? 本を読んでないって……」
いつも通り、読書をしているように見えたのに、違ったんだろうか。
「あれはめくってるだけだろ。目が字を追ってすらなかったぞ」
「……さすがによく見ておられるんですね」
素直に感嘆するしかない僕に、彼は呆れたような顔をした後、渋い顔に戻って言った。
「で、結局何があったんだ? 言っておくが、今更しらばっくれようとするなよ」
そんな風に問われて、僕に抵抗が出来るはずもなく、僕は正直に洗いざらい白状した。
それに、本当のところ、僕は誰かに聞いて欲しかったんだろう。
彼女への思いも、彼女に告白したことも、振られて悲しいと言うことも。
「なるほどな」
把握した、とばかりに呟いた彼は、しかし、物凄く不機嫌な顔だ。
「あ、あの…?」
「それでか。このところいい雰囲気だったのに妙なことになってると思ったら…」
「いい雰囲気って……」
そんなことはなかったと思うんだけれど。
「そうだっただろうが。少なくとも、長門はお前に気を許しているように見えたが?」
「そんなことは…ないでしょう…」
そうなら、もっと違った反応をもらえただろう、と思う僕に、彼はもう一つため息を吐いた。
「…お前らなら、お似合いだろうな」
…なんというか、娘の交際を渋々認めるお父さんのようである。
「お前も分かってると思うが、あいつは感情表現ってのが得意じゃないんだ。特に、言葉にするってのは苦手らしくてな。だから、巧く表現できなかっただけなんじゃないのか?」
「それは一体どういう意味ですか」
驚きながら尋ねた僕に、彼はむっつりと、
「そのままの意味に決まってるだろ。……もう一回、告白してみろよ。一日考える時間があったんだ。長門だって、答えられるようになってるかも知れんぞ」
「…しかし……」
「俺の言うことが信用出来んか? 言っておくが俺は、長門に関してはかなり分かってると自負してるんだぞ」
「それについては僕がいくらでも太鼓判を押しますよ。あなた以上に、彼女について理解している人間はいないでしょう。でも、だからと言ってその言葉を信じるには、……僕には、自信がありません」
「馬鹿」
短く、しかし罵声というよりはむしろ声援に近いような声を上げた彼は、
「お前に自信があろうとなかろうと、長門には長門の感情ってもんがあるんだ。それを受け止めもせず宙ぶらりんにしておくような奴か? お前は」
「それは……」
「とにかく、もう一回告白してみろ。今から俺が呼びに行ってやるから」
そう言って強引に決め付けた彼は、僕を中庭に残して部室棟へと歩いていってしまった。
その強引さが、どこか涼宮さんに似ている、と思うのは、僕だけだろうか。
かくして僕は中庭にひとり残され、彼女が訪れるのを待つことになった。
彼が呼びに行ったのだから、彼女が来ないということはないと思う。
けれど、それだけに、彼女が来るまでの時間が長く、待ち遠しく思えた。
やっと現れた彼女は、僕に何か言うこともなく、僕から二、三歩程度の位置に直立した。
「わざわざご足労いただいてすみません」
とりあえずそんなことを言ってみると、彼女は黙ったまま小さく首を振った。
気にしなくていい、ということらしい。
「こんなところに来ていただいたのはですね、あなたにお話ししたいことがあるからなんです。……その、昨日も言いましたけど、」
彼女が昨日と同じように僕を見つめている。
それだけで、心臓がドキドキと強く脈打ち、このまま止まってしまいそうに思えてくる。
「…僕は、あなたが好きです。そして、あなたの気持ちを知りたいと思っています。答えて……いただけますか…?」
最後の方は縋るようになりながらも、なんとか言えた。
すると彼女は小さく頷き、そのまま僕に抱きついてきた。
「……えっ…!?」
あまりのことにワンテンポ遅れて驚く僕に、彼女が小さな声で囁いた。
「彼に言われた。……言葉で表現出来ないのであれば、態度で示せばいい。あなたならきっと分かってくれるはずだ、と」
その目が僕に向けられる。
その意味することは、本当に分かってくれるか、という問いかけだろう。
僕はさっきとは違う意味で心臓が止まりそうになるのを感じながら、笑顔で答えた。
「…ええ、分かりました」
彼女も僕のことを好きだと言うことで、きっと間違いないんだろう。
嬉しくて、僕は彼女を強く抱きしめる。
少しやりすぎたかと思うくらいに力を込めてしまったけれど、彼女は何も言わないし、抵抗もしない。
ただぽつりと、
「……昨日は返事が出来なかったから、幻滅されたと思った」
と呟くのへ、僕は慌てて、
「あれは、僕が待ちきれなかったのがいけないんです。すみません」
「…私に非がある」
「いえ、あなたは悪くありません」
「私が悪い」
「悪くありませんってば」
「それは不正確」
譲れない、とばかりに見つめてくる彼女に、僕は苦笑するしかなくなった。
「…もう、いいんですよ。どちらでも。……あなたは僕を好きでいてくださる、それが僕の思いあがりや勘違いでないのなら」
どうです、と問えば、彼女は少しの沈黙の後、
「…間違ってない」
と答えた。
躊躇うような沈黙はもしかして、羞恥ゆえ、だろうか。
だとしたら余計に嬉しくて、くすぐったい。
「あなたが好きです。…愛してます」
そう囁いて抱き締めると、
「…ありがとう」
と返された。
でもその答え方がいかにももどかしそうに見えたので、
「同じ言葉を返そうとしなくてもいいんですよ。なんとなくですが、分かりますし、好きとか愛すると言った言葉が非常に難しい概念を伴うと言うことも理解しているつもりです。…ですからあなたは、嫌なことがあったらそう言うということだけ、心がけてくださいませんか?」
そうでなければ、いくらでも、自分の都合のいいように思ってしまいそうですから、と言えば、彼女は小さく首を振った。
「…え」
まさか、と驚く僕に、彼女が今度は言葉で告げる。
「…ない」
「ないって……」
「あなたにされたくないことは、ない」
そんなことをまっすぐに見つめながら言われて、参らない男がこの世にいるだろうか。
僕は思わず敬語も演技も忘れ果てて真っ赤になり、
「…嬉しくて死にそうだ」
ふにゃふにゃに気の抜けた声で呟いてしまった。
そんな僕に呆れたりもせず、彼女はまるでその言葉を額面通りに受け取ったとでも言うように、
「死なないで」
と慌てたように口にする。
そんな態度すら愛らしくて、愛しくて、
「…ええ、死ねませんね」
その小柄な体を抱き締めた。
最上級の幸せな感覚の中、僕は、どんな言葉で彼女に交際を申し込もうかと楽しい考えを巡らせるのだった。