裏腹



いつもと何ら代わり映えのしない文芸部室で、僕はいつものように笑みを振りまく。
と言っても、それを見ているのはほとんどの場合、ひとりきりだ。
そのひとりきりのために笑っているのかもしれないと思うと、余計に笑みが深まりそうになる。
ある時、そのただひとりの人は僕の笑みを見て、とてもわざとらしく眉を寄せた。
「お前、いつも笑ってて嫌にならんのか?」
その問いからうかがえるのは、僕への心配と、それから僕の笑みを見て動揺させられる自分を抑えたくてわざとつっけんどんに聞いてるということ。
それから、照れのようなものも見え隠れする。
そんな彼の様子を、可愛いなと思いながらも、
「なりませんね」
と答え、にやけはあくまでも作り笑いの範囲に抑える。
あなたが可愛らしい反応をしてくださるおかげで笑顔を作るのも簡単なんですよ、なんてことを言ったら、彼はどんな反応をしてくれるんだろうかと意地の悪いことを思いながら。
彼は非常に分かりやすい人だ。
考えていることは視線を追っていればすぐに分かってしまうし、何より行動パターンが予想しやすい。
好意を持った人間、自分の仲間として認め、自らのテリトリーの中に入れてしまった人間にはとことんガードが緩くなるから、僕には余計に分かりやすく思える。
くすぐったくも嬉しいことに、彼は僕のことを仲間と認めてくださっているばかりか、友情と言う範囲からは若干外れた好意すら抱いてくださっているようだから。
彼が同性愛者であるというようなことは、僕に渡された調査書のどこにも記載されていなかったけれど、まず間違いないだろう。
彼は僕に好意を、恋愛感情を持っている。
僕は全くヘテロタイプの人間だから、同性を好きになるなんて感覚がどのようなものなのかはよく理解し切れない部分がある。
でも、それが葛藤をもたらすものであるのだろうということは少し考えれば、そして彼の様子を見ていれば、よく分かった。
彼は僕を見ているだけで抑えようとする。
見て、普通に会話を交わして、それで満足しようとする。
それが健気でもあれば、じれったくもある。
だからわざと、僕から近づいてみたり、耳元で囁いてみたりするとそれだけで恥かしそうに身を捩りながら逃げるかと思いきや、好意なんてまるきりありませんというような顔をして罵る彼すら可愛らしくて、面白い。
同じ男なのに男性に好かれた身としては、もう少し嫌悪感を持ってもいいのかもしれないけれど、今のところ、僕は少しもそんなものを抱いていなかった。
理由は単純。
――彼が、とても可愛いから、だ。
彼は可愛い。
なんというか、手の中で転がして、弄んでしまいたいくらいの可愛さだ。
小動物を愛でるような感覚に似ているのかもしれないけれど、時折感じる胸のざわめきとときめきらしきものは、油断すれば、あるいはちょっとしたきっかけがあれば、簡単に恋愛感情へと転んでしまいそうなほど危うげなものだ。
うっかりぐらりと来そうになった時に、僕は思う。
弄ばれてるのは僕の方なんじゃないか、と。
しかし彼にはそんな意識はないらしい。
全く、なんて健全な精神なんだろう。
ひねくれまくった僕とは大違いだ。
僕は彼には相応しくないほどにひねくれて出来ている。
恋愛感情へ転んではまずいという思いと、彼を弄んで可愛がりたいという困った欲求、何より僕のねじくれた性格ゆえに、僕はつい、彼に冷たくしてしまうのだ。
そうして、彼の落ち込んだ姿を見ては、罪悪感と隣り合わせの、サディスティックな快感に酔う。
本当に、なんでこんな僕を好きになったりするんでしょうね、彼は。
悪いことは言わないから今すぐ考え直しなさいと忠告してさしあげたくなるくらいだ。
もっとも、悪い気はしないのだから、そんな風に忠告するつもりなんて、さらさらないのだけれど。
だから今日も明日も僕は彼を弄ぶ。
手を変え品を変え、たとえばわざとらしく至近距離に顔を寄せてみたり、あるいはため息を吐いてみせたりして。
今日はわざと、ゲームにも誘わず、読書に集中するフリをしてみることにした。
彼が来る前に部室に入った僕は、用意していたカバーのかかった文庫本――中身は取り立てて面白くもないがつまらないわけでもない、雑学本である――を取り出し、読み耽り始めた。
朝比奈さんの着替えのために廊下に立っている間もページを繰っていると、部室に戻る前に彼がやってきた。
それに気付かず読み耽ってる、というような体で、挨拶もせずに読み続けていると、
「よう」
と彼の方から声を掛けて来た。
それでやっと気がつきました、というような演技で僕は顔を上げ、
「こんにちは」
とだけ返し、また本に戻る。
実際は活字を目でなぞっているだけで、意識は彼の方に集中しているにすぎないということは、言うまでもない。
彼は怪訝そうに眉を寄せていたけれど、何を読んでいるのかと聞いたりもせず、つまらなさそうに部室のドアを見つめていた。
その様子がいかにも肩透かしを食らった子供のようで、見ていても愛らしい。
笑ってしまいそうになるのを堪えつつ、僕は演技を続ける。
そうこうするうちに着替えが終ったので、僕たちは部室に入った。
席に戻ってもまだ本を読み続ける僕に、いよいよ彼の眉間の皺が深くなる。
それでも、それだって、それだけと言えないこともないような些細な反応だ。
それだけ彼が頑張って感情を抑えているかと思うと、それだけで楽しくなってしまう。
なんでもない顔をしながら、落ち着かない様子で僕をうかがっている彼は、本当に可愛い。
なんだか、もう白旗を揚げてしまってもいいんじゃないかと思えてくるくらいだ。
意地になったように平静を保ちながら読書を続けていた僕に、意外なことだけれど、彼が声を掛けて来た。
「なあ、」
「なんですか? 今いいところなんですけど」
心にもないことを言いながらも視線を上げると、彼が苦しげに眉を寄せているのが見えた。
ちょっといじめすぎましたかね。
「俺の見間違いかも知れないんだが、お前、今日の昼休み、一年の女子と一緒じゃなかったか?」
そう聞かれて、僕は苦笑した。
よく見つけたものだ。
いえ、告白されたりすることは別に珍しくもないんですけどね、それを彼に見られたのはおそらく初めてだ。
「それが、何か?」
と僕はわざと素っ気無い返事を、それでも笑顔で返すと、彼も平然とした風を装いながら、
「告白でもされたのか?」
と聞いてきた。
それに対して、やはり僕は笑顔を崩さずに言う。
「あなたには関係のないことでしょう?」
「……かもな」
小さな声と共に聞こえたのは、かすかな舌打ちだ。
そのくせ、彼の目は不安に揺れていた。
強がり切れない姿さえ、可愛らしい。
もう少しつついてやりたいような気もするけれど、そろそろ宥めにかかった方がいいだろうか、なんて駆け引きめいたことを考えていた僕に、耐えかねたように立ち上がった彼が、
「…ちょっと来い」
と僕の腕を引っ張った。
「なんですか?」
わざと眉を寄せて言って見ても、彼はやめるつもりなどないらしい。
「キョンくん、どうしたんですか?」
驚いている朝比奈さんに、
「すみません、ちょっとこいつと話したいことがあるんで。ハルヒが来たら適当に言っておいてください」
と言って、僕を強引に連れ出した。
やっぱりいじめすぎたんだろうか。
彼がここまで強い行動に出るなんて珍しい。
それだけ僕の言動で揺さぶられているのかと思うと、余計に楽しく思えるのだけれど。
彼に連れて行かれた先は、屋上だった。
人気もなければ人目もないその場所で、彼は僕を睨むように見つめて言った。
「…お前、俺のこと、嫌いだろ」
らしくもなく切れ切れの言葉に、僕は苦笑と共に首を振る。
「別に、そんなことはありませんが」
むしろ好きですよ?
可愛らしくて。
――とは、まだ言わないでおく。
彼の反応が気になるからだ。
「嘘付け…!」
今にも泣き出しそうな、くしゃくしゃに歪めた顔で彼は唸るように言った。
「嫌いなら、嫌いだって、言ってくれた方が、マシだ…っ。それとも何か? 俺なんかには本心を明かすつもりもないってのか!?」
そう言われると弱い。
僕だって、歪みに歪んでいるけれど、僕なりに彼を好きなんだから。
何より、彼には泣かないで欲しいと思っている。
泣かれるほどはいじめてしまわないよう、これまでだって気をつけてきたつもりだった。
でも、今日はどうやらやりすぎたらしい。
あるいは、これまでの蓄積の結果なのかもしれないけど。
「そんなつもりではないんですが…」
まだ言葉を濁そうとする僕を、涙の滲んだ目で睨み上げて、彼はまるで縋るような声で呟いた。
「…いっそ、嫌いだって…言ってくれ……」
彼はどこか諦めたがっているように見えた。
僕を諦めるため、嫌いだと言って欲しがっているように。
…でも、残念でしたね。
そんな顔をされたら尚更、そんなことを言えるわけがないでしょう?
健気過ぎるくらい健気な態度も、僕を恋愛感情の方へ一押しして、突き落としてしまうのに十分過ぎるほどの効果を持っている。
だから僕は、出来る限り柔らかな笑みを浮かべて、心の底から囁いた。
「あなたのことは好きですよ。…嫌いなわけ、ないでしょう?」
一瞬驚きに見開かれ、喜色の滲んだ瞳が、また悲しみに伏せられる。
「――っ、嘘、吐き…!」
閉じられた目から雫がほろほろと零れ落ちる。
「どうせ、俺の、き、もち、なんて…分かって、ない、くせに…っ…!」
分かってますとも。
あなたが、こんなにも性格の悪い僕を愛してくださっていることくらいね。
「納得は出来ませんが、ちゃんと分かってますよ?」
そう言ったのに、余計に歪む顔すら、可愛く見える。
愛しく感じる。
それはやっぱり、僕が負けたってことなんだろう。
負けた、という割にとてもいい気分なのが困りものだけれど。
「嘘、だ…」
まだ呟く彼に、いじめすぎたかと反省していると、不意に彼が僕の胸を掴み、僕を引き寄せた。
そのまま、ぶつかりそうな勢いでキスをされたのには、流石に驚いた。
まさか彼がそこまでするとは思わなかったのだ。
勢いの激しさの割に、触れるだけの可愛らしいキスに口元が緩みそうになるのを抑えていると、唇を離した彼が、真っ赤に染まった顔で、
「こんな、種類の、好きだって、分かってなかっただろ!?」
と自棄になったように怒鳴る。
やれやれ、信用がないな。
それも、自業自得ではあるんだけど。
「分かってましたってば」
堪えきれず、今度こそ小さな笑い声がくすりと口の端から零れるのを感じながら、僕は彼の体を抱き締め、引き寄せる。
そのままそっと唇を触れさせれば、彼が驚きに目を見開いたのが分かった。
そんな反応が可愛くて愛しくて、触れるだけで止めておこうと思っていたはずのキスが深くなる。
無防備な唇を割り、戸惑う舌を吸い上げ、綺麗な歯列をなぞると、恥かしがるように彼が腕の中で身を捩った。
かすかな抵抗らしきものを抑え込んでしまおうか無視しようかと悩みながらも、一応彼の意思を尊重することにして唇を離せば、彼はどこか名残惜しそうな熱っぽい瞳で僕の唇を追いかけていた。
もう一度キスしてさしあげたいのは山々だけれど、それをぐっと堪えて、
「あなたがそんなに可愛らしいからいけないんですよ? 責任取ってくださいね」
そう囁けば、やっと理性が戻ってきたのか、彼は軽い恐慌状態に陥る。
「っ、な、に…!? おま…」
何か言おうとしてもほとんど言葉にならず、顔は青くなったり赤くなったりと忙しい。
そんな姿すら、どうしようもなく可愛くて。
「…好きですよ」
と思わず囁いた言葉は、ちゃんと彼の耳に届いたんですかね?