大誤算



「っ、どういうつもりですか!?」
怯えの滲んだ声と共に突き飛ばされてやっと、俺は自分の誤算に気がついた。
「…嘘だろ……」
呆然として呟くと、
「それはこっちの台詞です。一体何なんです?」
古泉の声も顔も困惑しきっていた。
俺も多分同じような顔をしているんだろう。
起き上がる気力もなく、床にへたり込んだまま頭を抱えた。
「…あの、大丈夫……ですか…?」
心配そうに近づいてきた古泉は本当にお人好しだ。
いや、あいつの役目のせいかもしれないがな。
それにしても、普通押し倒された直後に、その張本人を案じたりはしないもんだろう。
「立てますか?」
差し出された手に触れるのが怖くて、俺はそれを後先考えずに振り払った。
「要らん」
そうしておいて、慌ただしく立ち上がると、
「…さっきのことは忘れてくれ。…悪かった」
それだけ言い残して部室を飛び出した。
心臓がばくばくする。
あいつを押し倒そうとした時よりも、だ。
まさか勘違いだったなんて。
顔から火が出るかと思うくらい、顔が熱い。
古泉すまん、と繰り返し繰り返し口の中だけで詫びながら、俺は逃走を続ける。
そうして、ひとりになれそうな場所、すなわち屋上の隅に座り込んで、
「嘘だろ…!?」
ともう一度呟いた。
古泉一樹という男は、どこからどう見てもガチなゲイにしか見えなかった。
俺を見る目といい、近過ぎる距離といい、絶対俺に気があるんだと思ってたってのにどうやらそうじゃなかったらしい。
いや、俺に気があるかも、ってのが俺の思春期にありがちな痛々しい妄想ないしは自意識過剰によるものだと認めるにしても、まさかあいつがゲイじゃなかったなんて。
こう言うと本当に失礼だとは思う。
思うのだが、それが正直な気持ちだった。
ゲイとノン気の見分けくらいつくはずだった。
その上で、まず間違いないと思ったってのに、違ったとは。
「あー……どうしたもんかな」
明日以降、俺は無事に古泉と顔を合わせられるのかね。
俺の性癖も、あいつは知らなかったんだろうか。
だとしたら意外だが、俺が普段禁欲的に過ごしていることを思うとそれで当然なのかも知れん。
普段は、それこそ誰か好みの相手に見惚れたりなんてしない。
するだけ無駄だと分かっているからだ。
それに、俺は非常に厄介なまでに面食いなのだ。
見惚れるほど好みのタイプなんて、そうそういやしねえ。
滅多にいないだろ、ちょっと筋肉質で二枚目な二十代から三十代くらいの男なんてもんは。
それなのになんで、知り合ってから半年以上も経過した今になって古泉を押し倒すなんて暴挙に出たかと言うと、好みからはいささか外れがちではあるものの、ここしばらくの付き合いで古泉に慣れ親しむに至り、それが高じてうかうかと惚れ込んじまったせいだった。
おまけに、古泉はてっきり、俺と同じく同性愛者だとばかり思い込んでいた。
手の届かない高嶺の花よりは、手が届きそうな近場の奴に手を伸ばすってことは、男女の間でだってあるはずだから、分かるだろ?
ところが、古泉はノン気だったらしい。
それどころか、俺に気があるのかもってのも俺の勝手な妄想であり……つまり……あー…死にたくなってきた。
「くそ…」
すまん、古泉ともう一度繰り返しながら、頭を抱えてしばらく泣いた。
それくらいには、どうやら俺は古泉が好きだったらしい。
「……明日から、どんな顔してあいつに会えばいいんだ…?」
ため息と共に吐き出した言葉に、返事はなかった。
ハルヒに怪しまれない程度に平常通りを保ってもらえると助かるんだが、もしそれが不可能だったらハルヒに文句を言われてでもしばらく部室から姿を消した方がいいだろうな。
古泉と会わないために。
――そう思うだけで、胸がずくりずくりと痛みやがる。
嫌になるほど重症だった。
…ってのに、
「なんでお前しかいないんだ」
部室に入るなりそう言った俺に、古泉はいつもと変わらない困り顔を見せ、
「涼宮さんたちは、お出かけだそうです。戻ってくるとは仰ってましたが……それが何か?」
「何かじゃねぇよ」
ハルヒがいないならかえって都合がいい。
「俺は帰る。急病だとでもハルヒに伝えておいてくれ」
「急病、ですか。とても調子が悪いようには見えませんが」
そう言った古泉がじっと俺を見つめてくる。
泣きそうになるからやめてくれ。
「それに、どうしてそんな風に逃げるように帰ろうとなさるんです?」
心底不思議そうに言った古泉に、俺は脱力するしかなかった。
「…じゃあ聞くが、お前は俺と二人顔つき合わせてて平気なのか? 昨日あんなことをしたってのに」
「昨日……ああ、あのことですか」
思い出した、とばかりに呟いた古泉に、俺は今度こそ唖然とさせられた。
なんだこいつは、まだ分かってなかったのか?
そんな馬鹿な、と俺が自分の考えを笑おうとしたってのに、古泉はいつもと同じ笑顔で、
「あれは何だったんですか?」
と聞いてきやがった。
「何って……聞かなきゃ分からんのか?」
ずきずきと頭が痛み始めてくると共に、どうしようもない苛立ちが込み上げてきた。
こんな奴に振り回されて、泣きそうになったりしたわけか?
情けなさにかえって腹が立つ。
だから俺は、もう自棄になった。
いきなり古泉の胸倉を掴むとその勢いのまま引き寄せて、その唇に噛みつくようにキスしてやったのだ。
古泉は驚きに目を見開いたまま、閉じることも出来ないでいる。
突き飛ばすように解放してやった俺は、
「…こういうことをしようとしただけだ」
と吐き捨てた。
「…え」
これでもまだ分からんのか。
「だからな、俺は男とキスとかお付き合いとかしたい系統の人間なんだよ。今はフリーで…つうか、ここんとこしばらく、出会いとかそんなのにとんと縁がなくってな。正直飢えてるからお前を襲った。お前、お仲間っぽく見えてたし」
恥も何もなくそう言い切ってしまうと、やっと古泉の鈍すぎる脳みそにも情報が行き届いたらしい。
「えぇと……つまり、あなたは…そのー……」
バリバリのゲイですよー?
っていうか、本気で知らなかったんだな、お前。
機関にも知られてないのか?
「どうなんでしょう。少なくとも、僕は知りませんでした」
そう苦笑した古泉は、俺がゲイだと知ってもびびったりせず、いつもと変わらない口調で、
「それにしても、身近にいるものなんですねぇ」
と変な感心をしている。
「意外といるものだぞ。ハルヒだって言ってただろ。100人男がいたら5人はガチなゲイだって」
「ああ、そんなことも仰ってましたっけね」
くすくすと笑った古泉は、目に好奇心の光を宿らせて、
「それで、あなたは本当に、女性に興味がないんですか? いつもよくご覧になっているように思ったのですが」
と聞いてくる。
何だその好奇心は。
まさかお前はあれか、最近多いという腐男子とかいうやつなのか?
そう思いながらも、俺としては気まずくなられるよりずっとマシな反応に思えたので、
「可愛いとは思うし、見事なプロポーションに見惚れたりしないでもないが、そこまでだな」
それより古泉の方がよっぽど……と、そういう目で見ても、古泉は俺の視線の意味を解さず、にこにこと美人な笑みを湛えている。
お前に危機感はないのか。
「危機感……ですか?」
不思議そうに聞き返した古泉に頷けば、
「あなたは、僕に警戒して欲しいんですか?」
と問われた。
「…どうだろうな。そうしてもらった方がありがたいとは思うが」
実際に警戒されたら寂しいような気もしないではない。
「どうしてありがたいんです?」
「……理性に自信がない」
そう呟くように言えば、古泉は小さく声を立てて笑い、
「あなたなら大丈夫でしょう」
それはどういう意味だ。
「あなたは好きでもない人間に手を出すようなタイプではないでしょうし、好きな相手に無理強いが出来るタイプでもないでしょう?」
古泉のその言葉を、俺は大した信頼と受け取るべきなのか?
それとも、俺の好意が見事に伝わってないと見るべきか?
迷いながら俺は、いつもなら古泉がするよう、わざと相手を警戒させるべく、
「ゲイなら誰でも、って奴も多いらしいぞ」
と言ってみたのだが、古泉の笑みは揺らがず、
「あなたは違うでしょう」
「さて、どうだろうね」
そう言った俺はもう一度古泉を引き寄せてキスをする。
さっきよりゆっくりと。
急にして、急に離れるということもしないで、その唇の柔らかさを味わう。
古泉はまた驚いてでもいるのかろくな抵抗もしない。
かと言って応えもしないその唇を甘噛みして、怯んだ唇を開かせる。
そのまま唇の内側を舐めて、歯列をなぞろうとしたところで、舌を絡め取られた。
「んっ…!?」
驚く俺の背中にはいつの間にやら古泉の見た目以上に力強い腕が回されており、その腕へと押し倒されるような形で仰け反らされる。
戸惑う舌を吸われ、唇を優しく食まれる。
ぞくぞくとした感覚と走る電流のようなショックとで腰を抜かした俺を支えながら、それでもまだ古泉は俺を離そうとしない。
応えることもままならず、されるがままに口腔を蹂躙される。
味わったこともないようなキスだった。
「っふ……ぁ、ぅ……」
キスだけだってのに、唇の間からは吐息とも喘ぎともつかないものが漏れる。
それに混ざって、古泉がかすかに鼻にかかる笑いを漏らしたのが聞こえた。
やっと唇が離れて行ったってのに、俺はそれに安堵するどころか、それを惜しいと感じていた。
透明な糸を引く唇を物欲しげに見つめながら、もう一度と強請ることも出来ずにぼんやりしている俺に、古泉はどこか酷薄そうに笑って、
「大丈夫ですか?」
と聞いてきた。
「う、……ぁ、ああ…」
震える声で答えれば、古泉は笑みを深めた。
それが憎らしくて、
「…慣れてるんだな」
と言えば、古泉は悪びれもせずに、
「まあ、女性経験はそれなりにありますからね。生憎、今はあなたと同じく特定の女性との関係はないのですが」
「なら、少し性欲処理にでも付き合え」
俺は熱っぽく古泉を見つめながら、言い募る。
「俺が男だから嫌かも知れんが、セックスだけならそう男女のでも男同士のでも大して違わんのだし、性欲処理ならそんなもんでもいいだろ。お前の好きにしていいし、俺からは何がしたいとか、言わないから…」
「ふふ」
と古泉は笑った。
その目はどこか妖しさを帯びて艶かしく光り、さっきまでの激鈍男と同一人物かと疑いたくなるような、大人びた形を見せた。
「素直に、僕のことが好きだから付き合ってください、と言ったらどうです?」
「なっ……!?」
真っ赤になった俺に、古泉は余裕を見せつけるように、
「そういうことこそ、男女間でも男同士でも違わないのではありませんか?」
口ごもる俺に、古泉はいっそ残酷なまでに綺麗な表情で迫る。
「ほら、言ってくださいよ。性欲処理のためなんかじゃなく、僕が好きだから、僕が欲しいんだと。…ねぇ、それとも違うんですか?」

どうやら俺はこいつがゲイなんじゃないのかということ以外にも、大きな勘違いをしてしまっていたらしい。
大誤算だ。
大失敗だ。
しかし、今頃気付いたところで遅いというもので、俺は泣きそうに顔を歪めながら白旗を大きく掲げるしかなかったのだった。