古泉と付き合い始めて二週間。 俺は今日、初めて古泉の部屋に泊まりにいこうとしていた。 泊まるから即どうこうなるとか思ってるわけじゃない。 俺もあいつも、そういう欲求はいたって薄いからな。 それでも緊張してしまうのは、まあ、何だ、情報が多すぎる現代社会の弊害ということにしておいてくれ。 そんな訳で、少なからず緊張感を持った状態で、俺は古泉の部屋を訪ねた。 あえてエレベーターは使わず、階段を上るのは、少しでも時間を稼ぎたいからなのか、それとも少しでも気持ちを落ち着けたいからなのかもよく分からない。 結果、気持ちは落ち着いたものの心臓は落ち着かず、少々息を弾ませ、顔も紅潮させながら、俺は古泉の部屋の玄関チャイムを鳴らすことになった。 「はい」 まるで玄関でスタンバイしていたかのようにすぐにドアを開けた古泉は嬉しそうに微笑み、 「いらっしゃいませ。お待ちしてました」 と俺を迎え入れてくれた。 「ああ、邪魔するぞ」 緊張を出来るだけ押し隠しながら上がりこんだ部屋は、意外に綺麗に整えられていた。 「掃除とか、ちゃんとしてるんだな」 「まあ、それなりに、ですけどね。…あまり隅々まで見ないでください。ぼろが出ますから」 そんなことを言いながら、古泉はさり気ない仕草で俺の腰に手をやり、部屋の奥へと連れて行く。 ひとり暮らしにしてはしっかりと、居間なんてものまであるらしい。 大きめの薄型テレビに座り心地のよさそうなソファとはまた、羨ましいくらいの住環境だな。 「このテレビは知人にお下がりでもらったんですよ。新型のテレビを買ったら邪魔になるから要らないかって言われたんです。それで、臆面もなくぬけぬけと頂戴したわけです」 「こんなもんをひょいとくれる知人がいるのか」 羨ましいやつめ。 「大きいテレビはお好きですか?」 興味津々で、めたらやたらとボタンが多く、複雑そうなリモコンを見ている俺に、まるで悪戯な子供を見守るかの如く、目を細めながら古泉が聞いてくるのへ、 「まあな。これだけ大きいと映画なんか見甲斐があるだろ」 「そうですね。ドラマでも、なかなか迫力が出ますよ。…映画、見たいですか?」 「あ? …うーん……そうだな…」 「じゃあ、借りに行きましょう。今すぐ」 そう言って古泉はすっくと立ち上がる。 「へ? 今すぐ?」 「ええ。…あ、それとも、一息吐いてからの方がいいですか?」 俺の機嫌をうかがうようにしてくる古泉に、俺はつい笑いを漏らし、 「別にいいけどな。落ち着いてからじゃ動かなくなりそうだ」 それくらい、この部屋は居心地がいいように思えた。 俺がそんなことを言うと、古泉は感激した様子で顔を紅潮させ、勢いよく俺を抱きしめた。 「おい…っ」 反射的に抗議するような声を上げると間髪入れずに、 「すみません。でも、嬉しくて……。少しだけ、ですから」 「……まあ、いいけどな。お前の部屋なんだし…」 「ありがとうございます」 くすぐったく思えるほど嬉しそうに答えて、古泉は更に俺を抱きしめる腕に力を込める。 おそらくこいつは、こんな風に抱きしめるのが好きなんだろうな。 抱きしめるのが好きなら抱きしめられるのも好きだろうと当たりをつけて、俺は古泉を抱きしめ返すと、古泉が嬉しそうに笑ったのが分かった。 伝わる体温が、気持ちが、温かくて気持ちいい。 「…古泉」 「はい」 「そろそろ離せ。DVD、借りに行くんだろ?」 「そうでしたね。…このまま動けなくなるところでした」 笑って言った古泉に、 「全くだ」 と同意を示すと、 「あなたもですか?」 と分かりきったことを聞かれたので、俺は思わず眉を寄せ、 「それくらい分かるだろ」 「すみません」 謝りながらも古泉は嬉しそうだった。 そんな笑顔が見たかった。 古泉を喜ばせたかった。 こいつと付き合うことを決めた理由の大部分もそれだ。 だから俺は、とりあえず目標を達成出来ていることを喜びつつ、古泉と共に部屋を出て、貸しビデオ屋に向かった。 黄昏時の薄暗い中を、肩を寄せ合い歩くだけでどきどきするものなんだと、俺は古泉と付き合い始めてから知った。 そうして、手も触れられないのに、何気ないことを話しながら歩くだけでも楽しいことなんだと感じる。 幸せ、と言ってもいいほどに強いそれに顔を緩めてしまいながら、 「お前、どういう映画が好きなんだ?」 「色々観ますよ。アクションとかミステリとかSFとか……大体、読書傾向と似たようなものじゃないでしょうか。恋愛がメインテーマの甘ったるい映画は、ちょっと見ていられないんですけど」 「へえ、意外だな。てっきりそういうのが好きなのかと思ってたんだが」 「どういう意味です?」 古泉は困ったように笑いながら、そう聞いてきたが、そのままの意味だ。 「お前は小難しい哲学的な単館系のマイナーな映画か、恋愛物なんかが得意そうに見えるんだよ」 「そうですか? まあ確かに、単館系の地味な映画も味があって好きですけど…恋愛物はちょっと……恥かしくないですか?」 「だから、お前は好きそうだと思ったんだよ」 からかうように言ってやれば古泉は心外そうに、 「酷いですよ」 「だってそうだろうが。普段あれだけ薄ら寒くて恥かしいことを平気な顔で言ってるんだ。恋愛物くらい平気だろ」 「それとこれとは別なんですよ」 そう言った古泉にも、俺は笑みを消せない。 今まで知らなかった面を知るということが、たとえこれくらいの些細なことであっても嬉しい。 「あなたはどうなんです?」 「ん?」 「映画ですよ。どういうものがお好きですか?」 「割と何でも観るけどな。子供向けのも、妹と一緒に観させられたりするし…。ああ、ただし、」 と俺は唇を歪め、 「恋愛物と小難しい映画は勘弁しろよ」 「分かりました」 笑って請負った古泉と二人、レンタルDVDを見てまわった。 多分、俺たちは恋人同士になんか見えなかっただろう。 いいとこ、仲のいい友人ってところだろうか。 「それでは不満なんですか?」 借りたばかりのコメディ映画が収まった袋をぶら下げた古泉が聞いてきたのへ、 「不満……といえばそうか。ただの友人程度にしか見られてないと思うと腹立たしい」 「一応、マイノリティとしては人目を忍んでこっそり付き合うものじゃないかと思うんですけど…」 「別に堂々としてたっていいだろ。悪いことでもあるまいし。実際、俺とお前は付き合ってるんだろ?」 「そうですよ」 「なのに、ってのはちょっと納得が行かん」 「僕はどちらでもいいですよ。あなたにお任せします」 「……じゃあ、」 俺は手を伸ばし、古泉の空いていた手を握り締めた。 「わ…」 驚いたように声を上げる古泉に、 「これで恋人同士にくらい見えるんじゃないか?」 「どう、でしょうね…」 ぎこちなく言葉を紡ぐのはどうやら、嬉しいかららしい。 その笑みに、俺まで釣られたように微笑みながら、 「好きだぞ」 「僕も、です。あなたが好きです」 甘ったるいことを囁きあいながら、俺たちは古泉の部屋に帰った。 帰る途中に立ち寄ったコンビニで飲物や菓子を用意して、映画を見る準備をしっかり整えて。 そうして観た映画は、やけに面白く思えた。 画面が大きいからか、それとも隣りに古泉がいたからかは分からん。 一緒に声を上げて笑って、騒ぎながら夢中になって映画を見た。 「想像以上に楽しかったですね」 「ああ。また今度観ような」 そう約束したということはつまり、またここに来るということだ。 「嬉しいです」 はにかむように笑って言った古泉に、 「あほ。それだけで喜んでてどうするんだ」 「だって、嬉しいんだから仕方ないでしょう?」 そう言って伸びをした古泉が、 「あ、お風呂沸かしておきましたから先にどうぞ。僕は夕食の支度をしておきますね」 「ん…頼む」 他人の家と言う意識すら大分忘れたような感覚で俺は答え、風呂に入った。 清潔に保たれているのは、部屋だけじゃなく風呂場もらしい。 感心しながら、遠慮なくゆっくり湯船に浸かって、体もしっかり洗って風呂から出れば、夕食がちゃんと出来ていた。 炊き立てのご飯に豚のしょうが焼き、味噌汁、漬物と、なにやら頑張った感が溢れている。 「頑張りましたよ。料理は下手でもないですけど、得意でもないですからね」 「十分うまそうじゃないか」 「必死でしたから」 そう笑った古泉と共にとる食事は、楽しくて、うまかった。 他愛もないことを話しながら食事をし、遠慮する古泉を風呂に入れて俺は食器を洗ってやった。 じゃばじゃばと水を使って洗剤を洗い流しながら、ふと気がついた。 ここに来るのは今日が初めてだということに。 わざわざ気がつかなければならないほど、この数時間の間に俺はここを自分の場所だと感じるようになっていた。 俺のいるべき場所、あるいは、いていい場所だと。 ここ以外のどこにいるのかとさえ、感じた。 やっぱり、俺は古泉のことが好きなんだな。 そう思うとくすぐったくもあったが、それ以上に嬉しかった。 幸せというのはこういうことを言うのだろう。 そんなことを思いながら、俺は手を洗い、タオルで拭った。 それからソファに戻ってテレビを見ていると、風呂から上がった古泉が、 「何か面白いものやってますか?」 「いや…。大したことはしてないな。これくらいなら寝た方がマシだ」 「ああ、ありますよね。そういう時って。そのくせ、見たい番組は同じ日の同じ時間帯に集中したりして」 「そうなんだよな」 同意した俺に、古泉はまだ湿ったままの髪から雫を滴らせながら小首を傾げ、 「それで、どうしましょうか」 「………寝る、か?」 ぎこちなくなりながら言えば、古泉は小さく笑ったものの、 「では、そうしましょうか」 と俺を助け起こすようにして俺の手をとり、寝室に連れてった。 一人用のベッドに二人でもぐりこむのは少しばかり狭苦しかったが、たとえこれがダブルベッドでも同じだったに違いない。 古泉と来たら、自分がでかいのをいいことに、俺のことを腕の中に抱きしめやがったからな。 照明を落とした部屋の中で、ぽつり、と古泉は呟いた。 「不思議ですね」 何がだ。 「包み隠さずに申し上げますと、僕は女性と付き合ったこともありますし、経験だってありますけど、そうであるほど虚しく思えたんです。これまでは、ずっと」 世の童貞が凶器を手に襲い掛かりそうなことを事も無げにとつとつと語りながら、古泉はそっと俺の頭を撫でた。 優しいを通り越して、思いやりに満ちたとでも言ってやりたくなるような手つきで。 「でも…あなたとなら、こうして抱きしめあっているだけで満たされる気持ちがするんです。嬉しくて…幸せで……」 その気持ちは俺も似たようなもんだった。 俺は他に比較対象がないから古泉ほどはっきりとは言えないものの、こうしているだけで満足と言うのは同感だ。 だが、素直に認めてしまうのはなんとなく気恥ずかしくて、 「実は恋愛感情なんかじゃなかったりしてな」 と冗談のようにうそぶけば、古泉は小さく声を立てて笑った上で、 「どうでしょうね。……でも、僕はあなたのパートナーでありたいと思いますし、誰であっても、どんな素晴らしい人であっても、あなたの隣りにいないで欲しいとも思います。あなたを独り占めしたいと、思っているんです」 「俺も……そうだな」 相応しいのかは分からない。 それでいいのかということもよく分からん。 だが、それでも俺は古泉と一緒にいたい。 利害なんて関係もなく、ただ古泉が古泉だから側にいたいと思う。 「……愛してます」 そう囁かれるだけで温かくなる。 「俺も、……愛してる」 古泉が幸せを形にしたように微笑むのが、暗くてもよく分かった。 |