妾と本妻がひとつ家に住んでいて、しかもこんなに平和であっていいものなんだろうかと思いながら、俺はのんびりと天井を見つめていた。 柔らかすぎるベッドの感触にはまだ慣れられねえってのに、隣りですうすう寝息を立てながら眠る一樹の体温にはすっかり馴染んでるってのもどうなんだろうな。 その温かさが離れ難いものに感じられて、俺は目が覚めたってのにこうして天井の模様なんぞ見つめているわけだが、そうやってじっとしているからか、一樹はどれだけ待っても目を覚ましそうになかった。 そろそろみくるさんが起こしに来るんじゃないかと思った俺が、仕方なく一樹を起こしてやろうかなどと思った時、こんこん、と軽やかなノックの音が響いた。 時間切れだな。 俺はいくらか乱れていた寝巻きを直し、 「どうぞ」 と答える。 ひょこりと顔を出したみくるさんは、ふりふりした可愛いエプロンを付けていて、本当に素敵な若奥様といった様子だ。 「おはようございます、キョンくん」 愛らしい笑顔に癒されるような気持ちになりながら、俺も極力にこやかに挨拶を返す。 「おはようございます、みくるさん」 「旦那様は、まだ…？」 小さめの声で聞いてくる彼女に頷いて答えれば、 「もう、」 とみくるさんは可愛らしく頬を膨らませて笑った。 「前はもっとちゃんと起きてくれたのに。…キョンくんと一緒に寝るのってそんなに気持ちいいのかなぁ？」 そういう問題じゃなくて、単純に寝る前の運動量の違いじゃないかと思いますが、とは思っても流石に口には出来ん。 乾いた笑いを漏らす俺に小首を傾げつつ、みくるさんは一樹に近づくと、その鼻先を軽くつついた。 「旦那様、朝ですよー？」 「ぅ……ん…」 一樹はそう小さく声を漏らしただけで起きやしねえ。 「もう…キョンくんも、起こしてあげてください」 そう頼まれて、 「分かりました」 と応じたものの、どうしたもんかね。 うーんと考え込んでいると、一樹の唇が笑みの形に歪み、 「…目覚めの口付けをしてくださったら、起きますよ」 などと言い腐ったので、 「ふざけてないで起きんか、このバカッ！」 と蹴り飛ばしてやると、一樹は大袈裟に声を上げながらも笑って起き上がった。 「旦那様ったら」 みくるさんはそう言って、ころころと鈴を転がすように笑っているが、俺としてはため息を吐くほかない。 「馬鹿やってる暇があるならさっさと起きろ」 「いやぁ…隣りにあなたがいてくださると思うとなんだか離れ難くて」 そう思ったのは俺も同じだが、だからと言って狸寝入りをすることはないだろう。 「困った旦那様ですね」 と笑いながら、みくるさんは隣りの小部屋から一樹の着替えと共に俺の着替えも引っ張り出してくると、 「長門さんと一緒に美味しい朝ごはん作って待ってますから、早く来てくださいね」 と言って部屋を出て行った。 残された俺たちは顔なんぞ見合わせつつ、 「…とりあえず、まあ、なんだ。……おはよう」 「はい、おはようございます」 みくるさんに向けていたのよりもずっと甘ったるい笑顔で言った一樹は、そのまま俺の口を軽く吸い、 「…本当に、幸せです」 「……毎日言っててよく飽きないな」 呆れた風を装っても、どうやら無駄だったらしい。 一樹はにやっと笑うと、 「口元、緩んでますよ」 うるさい。 べたべたと引っ付いてこようとする一樹を振り払いながらなんとか着替えを果たした俺は、やっぱり洋服より着物の方が身が引き締まる思いがすると思いながら、小奇麗な紬の裾を気にしながら部屋を出る。 使用人としては非常に万能過ぎて、十人や二十人分くらいの働きはしてくれる長門が来て以来、一樹はほとんどの使用人をやめさせてしまっていたから、残っているのは本当に気心の知れた人間だけだ。 だからと言って一樹が自重してくれないのには困るものの、これはこれで怖いくらい幸せだと思う。 「怖がらなくていい」 と言ってくれたのは長門だった。 一樹が仕事に行ってしまって、俺はみくるさんと一緒に長門の指導の下、銀食器なんぞを磨いていたのだが、その時の雑談として軽く、 「幸せ過ぎて怖いくらいだ」 と呟いただけだった。 それこそ、本当に冗談やのろけのような感じで口にしたはずだってのに、長門には、俺が本気でそう思っていることを見抜かれちまったらしい。 「あなたは幸せになっていい。…それくらい、辛い思いもしたはず。だから、……怖がらないで」 そう言っている長門の方が、よっぽど怖がっているように見えた。 俺がまたいなくなるのを恐れているように。 そうさせてしまったのは、言うまでもなく俺だ。 だから俺は、 「…ああ、そうだな。…すまん」 「謝る必要はない」 みくるさんも笑って、 「幸せであることを怖いって思う気持ち、あたしにもちょっとだけだけど、分かります」 みくるさんにも？ 驚く俺に彼女はくすくすと笑って、 「あたしはこれでも、涼宮さんのお友達なんですよ？ 女学校に通ってた頃には色々なところにも連れてってもらいましたし、いろんなことをしました。…だから、自分が恵まれてるってこともよく分かってるつもり。だからこそ、あたしはこれでいいのかなって思うんです」 でも、と彼女はハルヒの持つそれに似た強さすら感じさせる目で正面を向き、 「元々が生まれているからって、遠慮する必要はないって教えられましたし、そんな風に萎縮するくらいなら、自分の幸せをほかの人の幸せに繋げられるようになりたいなって思うんです」 「みくるさんは、強いですね」 俺が正直な感想を漏らすと、彼女は笑って、 「あたしなんて、全然です。キョンくんの方が強いですよ」 「そんなことは…」 「ううん、強いです。あたしならきっと、どこかで諦めちゃったと思うんです。でも、キョンくんは諦めなかったじゃないですか。それだけでも、尊敬されていいって思います」 そう笑ったみくるさんは、 「あたしもいつか、キョンくんにとっての旦那様、旦那様にとってのキョンくんみたいな人に巡り会いたいな…」 と憧れるように呟いた。 「みくるさん……」 もしかしてこの人はちゃんと分かっているんじゃないのだろうか。 自分と一樹の夫婦関係がおままごとのようなおかしなものであることも、古泉が決めていることも。 「…って、こんなこと言ってちゃ奥さん失格ですね」 そう微笑むみくるさんに、俺ではなく長門が、 「それでいいと思う」 「そうですか？」 こくりと頷いた長門と共に、俺も同意する。 「みくるさんなら、一樹なんかよりもずっといい人が現れますよ」 と。 「そうでしょうか」 照れ臭そうに笑ったみくるさんの手を取った長門が、 「…もし現れなかったら私が」 ――って、おい、長門ぉ！？ 「……冗談」 そう言いながら長門はぱっと手を離したが、みくるさんは面白がるようにくすくすと声を上げて笑い、 「はい、いざとなったらお願いしますね」 などと返していた。 まあ、そんな話をしたから、てっきりみくるさんは色々なことをきちんと弁えていて、そのくせ知らないフリをしているような大人らしいところのある女性かと思っていたのだが、生憎と言うべきか何と言うか……それは見事な勘違いだった。 何しろその日の夜、いつものように俺と一樹が一緒のベッドで寝ようとしていたところにネグリジェ姿の上、枕持参でやってきたみくるさんが駄々っ子のような顔をして、 「旦那様ばっかりキョンくんと一緒に寝るなんてずるいです」 と言ったのだからな。 俺も一樹も、唖然とするしかなかった。 揃って間抜け面をさらしている俺たちにみくるさんは更に、 「あたしだって、キョンくんと一緒に寝たいです」 と主張する。 一樹はおずおずと、 「…あの、みくるさん……意味、分かってて言ってますか…？」 「意味？」 きょとんとしたみくるさんは、 「寝るって、意味を聞かれるようなことなんですか？」 ……ああ、やっぱりこの人は全然分かってないんだなぁとしみじみと思った。 本当に純粋培養だ。 と言うか長門、見張っててくれ、頼むから。 「とにかく、だめです」 一樹が珍しく強く言うが、みくるさんも負けてはいない。 「どうしてですか！ 旦那様ばっかりずるいです！」 「それを言うならみくるさんだってずるいじゃないですか。僕が仕事に行っている間、いつも彼と一緒なんでしょう？」 「そういう時は長門さんも一緒ですっ」 「それでも一緒でしょう。僕は夜くらいしか一緒にいられないんですよ？」 「でも、いっつも一緒じゃないですか。たまにはあたしもキョンくんと一緒におしゃべりとかしながら寝たいです！」 などと双方本気で言い争っているのだが……なんだこれは。 俺としては呆れて半笑いを浮かべているほかない。 なんで夫婦が、妾であるはずの俺と寝る権利を巡って言い争ってんだ？ ある意味、似たもの夫婦だと思わないでもないのだが、それにしてもおかしいだろ。 「あたしもキョンくんと寝るんです！」 「だめと言ったらだめです。どうあってもこればかりは聞けません」 「旦那様のけちっ」 「けちで結構です」 段々険悪になってきたところで二人が睨みあいになったので、俺は苦笑しながら間に割って入る。 「一樹、心配しなくても俺はお前一筋なんだし、みくるさんだって含みはないようだから、一緒に寝るくらい大丈夫何じゃないのか？」 「それでも嫌なんですよ。…大体、どうしてみくるさんの味方をするんですか」 そう言って軽く睨まれる。 失敗か、と思いつつ、 「そりゃ、いつも申し訳なく思ってるからな。あと、お前には遠慮は要らんだろ」 「……それは、そうかもしれませんけど……」 喜べばいいのか怒ればいいのか分からないといった顔で唸る一樹に、 「だから、一晩くらいいいんじゃないのか？」 「…嫌です」 …頑固者め。 俺が投げ出したくなったところでドアが開き、長門が顔を見せた。 「…何の騒ぎ？」 と聞いてくるのへざっと説明――途中でみくるさんと一樹の主張が混ざった――をしてやると、長門はあっさりと、 「…三人で一緒に寝ればいい」 と提案した。 それに対する二人の反応はと言うと、 「…なるほど、名案ですね。それなら僕も心配する必要はありませんし」 「あたしも、それならいいです」 というもので、その程度のことで納得出来るのかよと俺は呆れた。 そういうわけで、三人並んで寝ることになった。 あの言い争いの内容から分かるように、当然の如く俺を真ん中にして。 「なんか変だよな」 と俺が笑ったのは、一番先にみくるさんが眠り込んでしまったその後で、一樹も笑って同意した。 「そうですね。思い返してみると、確かにおかしな話です。でもそれも、それだけあなたがみくるさんにも慕われているということなんですよ」 「そうだな。……嬉しい限りだ。妾なんて、嫌われるだけだと思ってたから」 「あなたを嫌うような人なら、最初から一緒の家になんて置いておきませんよ」 言外にそうでなければ追い出していたと匂わせる一樹の、少しばかりでなく危ない考え方に俺は苦笑するしかない。 そんな強い想いを嬉しく思うのもまた事実だからな。 「……幸せだな」 俺が呟くと、一樹も、 「僕も、幸せです。……今度こそ、この幸せを長続きさせましょうね」 と言って、みくるさんを起こさないようにそっと俺に口付けた。 やっと幸せを手に入れた。 これからどんなことが起きるかも分からない。 それでもいいと思えた。 きっと一樹と一緒に――あるいはみくるさんも長門も、そうでなければハルヒだって一緒に――乗り越えて行けるに違いないと思えた。 これまでには決して思わなかったことを極自然に思えることに感謝しながら、同時に、そのことで、今度こそ大丈夫なんだと、確信めいたものを抱いた。 |