お狐様のおねだり



お兄さんが言った通り、今日のSOS団の活動は休止になり、僕はお兄さんと一緒に帰路についていた。
その途中、
「お兄さん、スーパーに寄ってもいいですか?」
と僕が聞くと、お兄さんは、
「スーパー? まあ、別にいいが……何か買うのか?」
「ええ。夕食の買出しをちょっと」
「ふぅん」
興味なさそうにしていたお兄さんだったが、僕がにんじんやごぼう、椎茸などを選んでいくうちに、なにやらぴんときたらしい。
かすかにだけど、少しずつ目の輝きが増している。
そうして僕が野菜売り場を通りすぎ、豆腐売り場で豆腐とそれから油揚げを手にしたところで、お兄さんが僕の手を掴んだ。
「一樹、」
「はい?」
だめだったかな、と思いながら覗き込んだお兄さんの顔は、本当に嬉しそうな表情に染まっていた。
「期待して、いいんだよな…?」
「…僕の腕でよければ、ですけどね」
慎重に答えれば、お兄さんはいよいよ喜色満面といった風で、
「大丈夫だろ。お前、器用だし、ジジィの味も覚えてるだろうし」
「祖父の味が好きですか?」
「まあな。…ムカつくジジィだったが、油揚げを炊くのはうまかった」
しみじみと呟くお兄さんに、どうしてか、胸がかすかにざわついた。
「楽しみにしてるからな」
嬉しそうに笑った顔に、ほっとしながら、
「頑張ります」
と答えるのがやっとだった。
少しして胸のざわつきは収まったけれど、僕の中には釈然としないものが残ってしまった。
それでもお兄さんはそんなものには気がつかず、ひたすら嬉しそうに笑っている。
「稲荷寿司には、酢飯に炒り胡麻を混ぜただけの飯を詰めても美味いんだぞ」
なんて言いながら、油揚げを多めに放り込む。
「……って、一体いくつ作らせるつもりなんですか!?」
「……だめか?」
お兄さんは僕の背が自分より高くなってしまったことを利用するかのように、上目遣いで僕を見た。
正直、ずるいとしか言いようがない。
「…お腹壊しても知りませんからね」
ため息を吐きながらそう言うと、お兄さんは調子に乗って油揚げを放り込んでくれた。
どうやら僕は一升くらいはご飯を炊かなきゃならないらしい。
「お前は俺を祀ってるんだから、供え物は基本だろ? 毎日しろって言うんじゃないんだから、たまには認めてくれ」
「分かってます。でも、お願いですから食べ過ぎてお腹を壊すとか、そんなことはやめてくださいね」
「お前、俺をなんだと思ってんだよ」
ニヤリと笑った唇が狐の口そのものに一瞬だけ変わる。
「…お兄さんは、お兄さんです」
「狐の、な」
そんな風に、僕とは違うものなんだってことをそう強調してくれなくったっていいのに。
僕は十分分かっているつもりだ。
つもり、と言うしかないから、そうして念を押そうとしてくるのかも知れないけれど。
少しばかり憂鬱な気持ちになりながら、僕はお兄さんと共に自分の部屋に帰った。
お兄さんは多分、前々から見守ってくれていたからだろう。
僕の部屋についてもかなり熟知しているようで、何も迷わず、何一つ聞きもせず、居間のソファまで寝室から毛布を持ってきて寛ぎ始めた。
その間に、僕は制服を着替えて夕食の支度に取り掛かる。
帰りに寄った本屋で見つけた稲荷寿司の作り方を熟読して、その本を広げたままあれこれ調理をする。
そう難しいというほどではなさそうだけれど、手間がかかりそうだ。
油揚げから自作するのはまず今回は諦めておこう。
お兄さんもお腹を空かせているようだし、油揚げを作るのはどうもかなり難しそうでもあるから。
余った豆腐は汁物の具か何かにしようと決めて、僕は料理を続ける。
一番簡単そうな作り方を選んだものの、それはそれで、お兄さんが満足してくれるものが出来るか心配だ。
難しい顔をしながら料理していた僕を見兼ねたのか、お兄さんはちょっとばかり心配そうな顔をして言った。
「別に、そう必死にならなくてもいいぞ? お前が一生懸命作ってくれたってだけでも、俺には十分ゴチソウになるんだし」
「でも…どうせなら、美味しいものを作ってあげたいですし」
「…マメなやつ」
褒めているのかけなしているのか判別しかねる声でお兄さんは呟いて、またソファの上に寝転がりなおした。
どうやら気に入っているらしい。
退屈させていないなら何よりだと思いながら、必死になって料理をしているうちに、結構な時間が過ぎてしまった。
あまりに静かなままだけど、お兄さんは怒ってないだろうかと不安になりながら様子を伺い見ると、驚いたことに、お兄さんは完全に狐の姿になって眠り込んでいた。
拍子抜けするとともに、首を傾げさせられる。
お兄さんが耳を出したり尻尾を出したりするだけでなく、すっかり狐の姿になってしまうなんて、初めてのことじゃないだろうか。
それだけリラックスしてくれているということなら嬉しいけれど、これがもし、それだけ力が弱まっているということなら申し訳ない。
そう思いながら僕は大量の稲荷寿を仕上げてしまい、大皿にそれを積み上げた。
稲荷寿司は全部で30個近くもある。
本当に二人で食べ切れるんだろうかと引きつりつつも、お兄さんを信じて作ったのだ。
自分で味見した感じでは、悪くない味だと思う。
祖父が作っていた味にも近づけられたと思いたい。
となると後はお兄さんを起こすだけなんだけれど……気持ちよさそうに眠っているから、気が引けてくる。
それでも、と僕は軽く足音を立てながらお兄さんに近づき、
「あの、稲荷寿司、出来ましたよ」
と声を掛けた。
「う、ん……」
小さく声が上がり、ぴくんと耳が動き、尻尾がふうわりと揺れる。
お兄さんが自分では好きではないという、狐としては色の濃い、焦げ茶の毛並みが僕は好きだ。
艶やかで、温かくて、優しい。
焦げ茶色は僕にとってお兄さんの色で、お兄さんの色だから好きな色でもある。
少し動いただけで、まだ起きようとしないお兄さんに、僕は困ったなと眉を寄せながら手を伸ばし、
「起きてください。お腹、空いたでしょう?」
と声を掛けながらそっとその背中を撫でた。
ふるりと体が震えたと思うと、お兄さんが目を開く。
狐の姿でも変わらない、優しいぬばたまの瞳が僕を映す。
「…あ……悪い。寝ちまってたか」
言いながらお兄さんが体を起こし、軽く伸びをして笑った。
「それも、こんな格好でなんて、すまんな」
「いえ、いいんです。気にしないでください」
のそりとソファから下りたお兄さんが、一瞬にしていつもの人間としての姿に変わるのは不思議な感じだった。
映像がぐにゃりと歪んだかと思うとすぐにそれが大きくなり、歪みが消えれば完全にいつもの彼の姿になっていたのだから。
「んで、起こすってことは出来たんだよな?」
期待に目を輝かせて聞いてくるお兄さんに、
「はい。…あ、でも、味の保証は出来ませんからね?」
「分かってるって。誰も初めて作るって奴に滅茶苦茶うまいのなんて期待してねえよ。…一生懸命作ってくれた気持ちが嬉しいし、俺の力になるんだ」
はにかむように笑ったお兄さんが、恥かしがるように僕から顔を背け、キッチンに置いたままの稲荷寿司の山に向かって走っていくのを見ながら、僕は動けなかった。
だって、そうなったって仕方がないだろう。
あんな笑顔であんなことを好きな相手に言われたんだから。
真っ赤になって固まっている僕に、お兄さんは笑って、
「ほら、さっさと食うぞ」
と言いながら大皿を抱えてやってきた。
それをテーブルの上に下ろして床に座ったお兄さんは嬉しそうな顔で手を合わせ、
「いただきます」
と丁寧に言った後、ひとつを無造作に抓み上げてかぶりついた。
「…ど、どうですか?」
怖々と聞く僕に、お兄さんはしばらくうーんとかなんとか唸りながら考え込んだ。
眉を寄せ、もぐもぐと口を動かしながら首を傾げる。
もしかして、まずかったんだろうか。
びくつく僕の、正座した脚を、お兄さんのふわふわした尻尾が軽く叩いた。
「わっ」
いきなりのことに驚いて竦みあがった僕に、お兄さんは満面の笑みを向けると、
「うまいな。まだジジィほどじゃないが、それでも十分うまい。何より、本当に心を込めて作ってくれたのが伝わってくる。…ありがとな」
「よかったです…」
ほっとした僕に、
「お前も食べるんだろ?」
と稲荷寿司を差し出してくる。
「あ、はい、いただきます」
僕がそれを受け取ろうとすると、お兄さんはひょいとそれを下げてしまった。
「…あの…?」
「食べるんだよな?」
「食べます…けど……」
ええと、何がしたいんだろう。
首を傾げていると、お兄さんはにんまりと楽しげに笑って、
「だったら口を開けろ」
と言った。
「え?」
「お前がまだちっさかった頃、何度もやってやっただろ? あーんって。お前、そうしなきゃ風邪薬は飲まないし、嫌いな野菜は食べないしで大変だったじゃないか。それに、おやつを食う時もやりたがったくらい気に入ってただろ。久しぶりにやってやろうかと思ったんだが」
「……あの、もう、僕、こんなに育ったんですけど…」
「だから?」
きょとんとした顔でお兄さんは問い返してきた。
「それでも一樹は一樹だろ?」
こういうところが人間と違うところなんだろうかと思いながら僕は諦めのため息を吐く。
そうして口を開くと、お兄さんはまた嬉しそうに微笑んだ。
「あーん」
なんて言いながら、口の中に稲荷寿司を入れてくれる。
それにかじりつけば、甘い煮汁が口の中に広がった。
カリっと音がしたのは刻んだレンコンだろうか。
「うまいだろ?」
僕が作ったっていうのに、まるで自分が作ったかのようにそんなことを聞いてくるお兄さんに頷けば、お兄さんは更に笑みを深めながら、
「努力家のお前のことだから、これからもっとうまくなるのかと思うと楽しみだ」
と呟いて、僕がかじった残りを一口で食べてしまった。
「あ……」
思わず声を上げれば、
「うん? なんだ? 食べたいならまだあるから好きに食べればいいだろ?」
と言われてしまう。
……本当にもうお兄さんと来たら、人間そっくりなのは見た目だけなんだから。
僕が自分のことを好きだと知っていながら、どうしてそんなことが出来るんだろうと呆れつつ、僕は文句を言うことも諦めて、稲荷寿司に手を伸ばした。
「しっかり食べて力を付けろよ」
上機嫌で言うお兄さんの言葉の、本当の意味なんて知りもしないで、僕は単純に、お兄さんと一緒に夕食を食べれることを喜んでいた。