泣きだした俺にも、ハルヒは少しもうろたえず、また、追及の手を緩めるつもりもないようだった。 厳然と、断罪者よろしく俺を睨み付け続けている。 そんな風にしていたら目が疲れないかと茶化す余裕も、当然俺にはなかった。 頭の中を必死に整理する。 何をどう答えればいいのか、何から言うべきなのかと。 なんとか搾り出した言葉は泣き濡れて、見っとも無く震えていた。 「知って、る…。と、いうか……俺が、その……囲われてた、妾、で…」 シャツの袖で涙を拭いながら俺が言うと、ハルヒはやっと視線を緩めた。 「やっぱりね」 「いつ……、気付いた、んだ…？ 分かってて、みくるさんを、呼んだのか…？」 「みくるちゃんが来たのは単純にあたしに会いに来ただけよ。女学校時代、同じクラスで一緒に遊んだりしてたの。それから、もしかしてあんたが妾だったんじゃないかって気が付いたのは、結構前ね。古泉くんが妾に逃げられて探し回ってるなんて噂になったあたりで、もしかしてって思い始めてたの。確信を持ったのは、みくるちゃんを見たあんたが凄い強張った顔して、その後も物凄く挙動不審だったから。…みくるちゃんだったからよかったみたいだけど、そうじゃなかったら絶対気付かれてたわよ」 そう忠告めいたことを言ってハルヒは一度言葉を途切れさせ、らしくもなくため息を吐いた。 「古泉くんが妾を探してようが、その妾ってのがあんたのことだろうが、別にどうでもいいと思ってたから放っておいたんだけど、あんたのその反応からして、そうも行かないみたいね？」 泣きじゃくってる俺に向かって、ハルヒは手招きした。 「苦しいんでしょ。だったら、涙と一緒に全部吐き出しちゃいなさい。あたしは確かに面白いことは好きだし、色々好き勝手してるけど、人に言触らしちゃいけないことくらい、ちゃんと分かってるつもりよ。だから安心していいわ」 分かってる。 お前は人が言うほど酷くも傍若無人でもない。 ちゃんと人を思いやれるし、意外と優しくて面倒見がいいってことも、よく知ってる。 そうでなけりゃ、俺がたったの三ヶ月でこんなにも元気になれたはずがない。 「分かってるなら、こっちに来なさい」 そう言って俺を呼び寄せたハルヒは、有無を言わさず、俺を抱きしめた。 ぐずっている子供を慰めるように、優しく。 「お腹の中に溜め込んでたら、いいものだって悪くなっちゃうんだから、吐いちゃいなさい。あたしでよければいくらだって聞いてあげるわ」 縋りつきたくなるほど優しすぎる言葉に、俺は頷いていた。 そうして、ぽつぽつと少しずつ、全てを話し始めた。 一樹との出会いも付き合いも、一樹の家族に発覚して一度追い出されたことも。 一樹に囲われたことも、俺が狂ってしまいそうになったことも。 愛されて嬉しかったことも、愛されるがゆえに苦しかったことも、何もかも全て話した。 不思議なことに、そうやって話してしまおうとすると意外と恥じらいもなく言葉と言うものは紡ぎ出せるもので、本当に、俺はずっと吐き出せる時を待っていたかのようですらあった。 言えば言うほど楽になった。 だから俺は、思いつくまま、順序も何もなく、限りなく話した。 些細なことも、自分でさえ忘れていたようなことも、全て。 そうして口に出せて、初めて知った。 俺はまだ一樹のことを愛している。 他の何よりも一樹が愛おしくて、大事で、想うだけで体が熱くなるほど強く、一樹を好きだ。 忘れたり、薄れたりしたと思っていたのは、ただの思い上がりだった。 忘れられるはずなんかない。 薄れるはずなんかない。 俺が愛しているのは一樹だけだ。 目を真っ赤に泣き腫らし、とっぷりと日が暮れるまで延々話していた俺を、ハルヒはからかいもしなければ、迷惑そうな顔もしなかった。 ひたすら、かすかに相槌を打ちつつ、俺の頭を撫でてくれた。 話しているうちにくずおれるようにして床に座り込んでいた俺は、まだ止まらない涙をハルヒの膝に押し付けつつ、 「な、んで……一樹は、俺のこと、忘れてくれなかったんだ…。俺なんか、いなくったって、いい、はず、なのに…」 「ばかね」 言葉の割に優しく、ハルヒは言った。 「本当に愛してるんだから、忘れられるわけないでしょ」 「だが、あいつには…みくるさんって、いい奥さんが、いる…し……」 「みくるちゃんと古泉くんは夫婦なんかじゃないわよ」 あっさりと、ハルヒは言い、俺は唖然とした。 みくるさんと一樹が夫婦じゃないというのはどういう意味だ。 「そのままの意味よ。法的には夫婦だけど、実際にはそうじゃないわ。みくるちゃんはあの通り、純粋培養の素直な女の子だから、まだ分かってないみたいだけどね」 「つまり…」 「一緒のベッドで並んでぐーぐー寝るだけで夫婦って言えるんだったら、夫婦かもしれないけど」 ニヤリと笑ってハルヒは言ったが、俺は今度こそ驚くしかなかった。 それじゃあ、何か。 一樹はみくるさんと結婚してすぐの頃からずっと、みくるさんに手を出してないってことなのか？ 結婚したばかりの頃なんて、俺との繋がりも完全に切れてたってのに？ それはつまり……その時もまだ、俺のことを思っていてくれたということなんだろうか。 「でしょうね。……みくるちゃんからそれとなく聞きだした時には、あのみくるちゃんのそそる体を放っておくなんて、なんて酷い男かよっぽどの不能者かと思ったけど、操立てする相手がいたんだったらしょうがないわ」 ハルヒはそっと俺の髪を撫で下ろし、上げていた前髪を下ろさせた。 「古泉くんがあんたを好きなように、あんたも古泉くんのことが、本当に好きなのね」 「…好き、だ……。一樹を、愛して…る…」 泣き過ぎと話し過ぎとで喉を嗄らした俺に、 「よく分かったわ。……それで、あんたはどうしたいの？」 「どう…って……？」 「古泉くんとよりを戻したい？ そうしてまた妾に戻りたいの？ それともみくるちゃんを追い出して、あんたが古泉くんと一緒に住む？」 「そんな、こと…」 「出来るわけない？ 何でもやってみないと分かんないわよ」 それはハルヒの行動指針のひとつといっていいようなものだ。 やってみなければ分からないからやってみる。 そうして何度無茶なことに付き合わされただろうか。 大抵は空振りに終ったが、たまには面白いことを見つけ出すことだってあった。 そんな風に、賭けてみてもいいんだろうか。 「…今は……とりあえず、一樹に、会いたい…」 「そう」 「みくるさんを、悲しませたくはないんだ…。ただ、一樹に、会いたい……」 「なら、そう出来るようにしなきゃね」 いつになく柔らかく微笑んだハルヒは、 「なんとか手を回して、古泉くんを呼んであげるわ。…ああでも、必要ないかもしれないわね」 何？ 「もしかしたら、と思って」 言いながらハルヒは窓の外に視線を向けた。 釣られるように外を見て、俺はやっと、外が騒がしくなっていることに気が付いた。 「なんだ…？」 「見に行けば分かるでしょ。ほら、いつまで人の膝に乗ってんの。行くわよ」 ハルヒは俺を押し退けるようにして立ち上がると、かつかつと勢いよく歩きだした。 当然のように、俺の手首を引っ張って。 俺たちが玄関にたどり着く頃には、騒音の元は既にすぐ近くにまで迫っていた。 「お嬢様、危ないですよ」 などと言っている下男には目もくれず、ハルヒは言う。 「大丈夫よ。キョンがこっちにいるんだから」 「は？」 と俺が戸惑っている間に、扉が開いた。 そうして姿を現したのは、乱闘でもやらかしたらしく、服も髪もぼろぼろになった一樹だった。 「な…っ…」 絶句する俺を背後に庇うような形で、ハルヒが立ちふさがる。 「夜だって言うのに、それもこんな形でなんて、凄い初訪問もあったものね。あたしは確かに面白いこととか珍しいものは好きだけど、こういうのはいただけないわ」 「そこを退いてください」 血走ったような目がハルヒを睨みすえると、別に睨まれているわけでもない俺までびくりと竦みあがった。 周囲にいる使用人連中は更に怯んだ様子で、後ずさった者もあった。 一樹、お前どれだけ本気で怒ってるんだ。 怒り狂った一樹を見るなんて、生まれて以来の随分と長い付き合いの中でもほとんどなかったことで、一樹に対して、俺は初めて怖いと思った。 だが、ハルヒは怯みもせず、怯える使用人に向かって、 「あんたたちはちょっと下がってなさい。このお客の相手はあたしとキョンだけで十分だから」 「で、でも、お嬢様…」 役目柄だろう、心配そうに反対しようとした阪中に、ハルヒは会心の笑みを向ける。 「大丈夫よ」 「……分かったのね」 ハルヒとの付き合いが長いらしい彼女には、ハルヒが言い出したら聞かないことくらいよく分かっていたのだろう。 他の使用人にも指示をして、玄関ホールを離れた。 そうして、残されたのは俺と一樹とハルヒだけになった。 その間ずっと、一樹はハルヒを睨み続けていた。 怖いほど、強く。 他の誰もいなくなったのを確認したハルヒは、俺に向かって優しく言った。 「どうする？」 「どうするも何も……」 「あんたのしたいようにしなさいよ。あたしは部外者なんだから」 無責任にそう言ったハルヒが、俺の前から退くと、まともに一樹と目が合った。 一瞬の間があって、やっと俺を認識出来たとでも言うように、一樹は瞳に優しいものを滲ませる。 その、かすかだが明確な変化に、痛感させられた。 一樹への思いが、他の誰かを不幸にしてしまってもいいと思えるほど強く醜いものだったんだと。 ハルヒへの申し訳なさも、みくるさんへの罪悪感もなかった。 ひたすら、一樹に会えて嬉しかった。 「いつ、き…」 かすれたままの声でそう呼ぶと、呪縛が解けたかのように一樹は駆け寄ってきた。 そうして、勢いよく抱きしめたにしては優しく、ちゃんと俺のことを思いやった強さで俺を抱きしめてくれる。 「どうして……」 俺がここにいると分かったんだと聞こうとした俺を遮り、一樹は叫ぶように言う。 「どうしてはこっちの台詞です…！ どうして、いなくなったりしたんですか…」 急には答えられない俺が何か言おうとするよりも早く、一樹は首を振る。 「いえ、もうそんなことはどうでもいいんです。あなたをやっと見つけられたんですから。…もう、放しません。誰がなんと言おうと、あなたの意見も、受け付けません。あなたをもう二度と、放さない…！」 放せないのは俺の方だと思った。 探しに来てくれたことが、こんなにぼろぼろになってまで会いに来てくれたことが、嬉しくてならない。 久しぶりに感じる体温が心地好くて、愛おしくて、これだけでどうにかなりそうなくらい幸せだと思った。 固く抱き合ったままの俺たちに向かって、揶揄するような視線を投げ掛けていたハルヒは、やがて飽きたように一度目をそらすと、一樹に向かって言った。 「思ったより早かったわね」 一樹はまだ苛立った顔でハルヒを見ると、 「では、あなたがわざと彼女から彼のことを話すように仕向けたんですか」 「違うわ。あたしは古泉くんが探しているのがキョンだなんて一度も言わなかった。みくるちゃんはあたしのした話を聞いて、もしかしてと思ったんじゃないの？ 大体、古泉くんが探してる人がいるなんて、みくるちゃんが直接言ったわけじゃないでしょ」 「…ええ。彼女は、あなたが拾った男性の話を事細かにしてくれました。それで僕はもしかしてと思ってこちらに来たんです。でも、あなたの差し金でないなら、どうして彼女はわざわざ僕を送り出してくれたんです？」 「そんなこと、みくるちゃんに聞きなさいよ」 そう薄く笑って、 「そんなことより、分かってるんでしょうね？ みくるちゃんもキョンもあたしのお気に入りなんだから、不幸になんかしたら絶対に許さないわよ！」 「分かっています」 決然と一樹が答えると、ハルヒは珍しくも満足気な笑みを見せた。 「なら、いいわ。許してあげる。キョン、あんたが今日まで働いた分のお給金上げるからちょっと待ってなさい」 「いえ」 と答えたのは当然俺じゃなく一樹だ。 「必要ありません。彼はこのまま連れ帰らせてもらいます」 「そう？ それならそれで別にいいわ」 そう言ってハルヒは俺に顔を近づけると、 「あんたは一度あたしが拾って面倒を見てあげたんだから、その恩を忘れるんじゃないわよ。たまには、みくるちゃんみたく、あたしに会いに来ること。いいわね？」 「…ああ、分かった」 かすかに笑って答えた俺の頬を、ハルヒがきゅっとつまむ。 「うん。いい笑顔だわ」 そう微笑んで。 たったそれだけのやりとりだってのに、一樹があからさまに渋い顔をするのも面白くて、俺の笑みは更に深くなった。 そして俺は、一樹に連れられて、初めて一樹の屋敷に足を踏み入れた。 洋館らしく綺麗に整えられた洋間では、みくるさんと長門が二人でお茶をしながら俺たちを待っていたらしい。 部屋に入ってきた俺たちを見るなり、二人ともほっとした様子を見せた。 「お帰りなさいませ、旦那様」 「…お帰りなさい」 俺はどう返せばいいんだろうかと思っている間に、一樹は柔らかな笑みを見せて、 「ただいま帰りました。それからみくるさん、彼が僕の大切な人です」 「なっ…」 いきなりそういう紹介の仕方をするのかと焦っている俺に、みくるさんは意外にも優しく笑って、 「あらためて、よろしくお願いしますね、キョンくん。…キョンくんって呼んでて、いいですか？ あたしまでお名前で呼んだら旦那様にヤキモチ焼かれちゃいそうだから」 「なんて呼ばれてもいいですけど……ええと、本当に、いいん、ですか？ 俺なんかが……妾なんかが、一緒に住んでも…」 「いけないんですか？」 混乱する俺に、きょとんとした顔で彼女はとんでもないことを言ってくれた。 「あたしの家も、お母様が二人いましたよ。あたしを産んでくれたお母様と、あたしを育ててくれたお母様と」 「…は？」 混乱している俺に、一樹がそっと耳打ちする。 「彼女は庶子なんです。でも、家族仲はとてもいいようですよ。彼女を見れば分かるでしょうけど」 なんてこった、そんなことがあるなんて。 それとも、彼女のようなお嬢様だとかえって普通のことなのか？ 戸惑う俺の手を握り締めて、みくるさんは天使のような笑顔で言った。 「あたしは何にも分かってないんです。だから、色々教えてくださいね。キョンくんはお料理も出来るんでしょ？ 長門さんから聞きました」 「まあ、一応…できますけど……」 「あたしに教えてください。あたしも、少しだけでもいいから、旦那様にお返ししたいんです。大事にしてもらえて、あたしはとても幸せだから」 本当にこの人は純粋なんだと思った。 この人を他所に、一樹と幸せになるということに、少しばかり胸が痛むけれど、予想していたほどじゃない。 もしかするといつか本当のことを知って、彼女が傷つく日が来てしまうのかもしれないが、それでも今は、彼女は本当に幸せを感じてくれていて、俺が一緒に暮らすことをむしろ喜んでさえいてくれる。 「俺の方こそ、よろしくお願いします」 「はい」 嬉しそうに笑ったみくるさんは、 「長門さんとキョンくん、二人も家族が増えちゃいましたね」 と心底楽しげに言った。 こうして俺たちの、ちょっとばかり変わった生活が始まった。 |