何度も思い出してしまう光景がある。 嬉しくもない、楽しくもない、苦く悲しいだけの景色。 あれは、いつのことだったか。 一樹に囲われても、一樹にはたまにしか会えなかった。 それでも、全然会えなかった頃と比べると酷く幸せで、幸せ過ぎてどうにかなってしまうんじゃないかと思っていた。 その反面、寂しさも強かった。 いつ会いに来てくれるんだろうかと思うと、家から動く気すらなくなってしまい、家の中に籠もりがちになってしまった俺を、長門が無理矢理に散歩に行かせた時だっただろうか。 自分でも、流石に家の中でじっとしていては心身に悪いと思い、あちこち歩いてまわった。 一樹が買い与えてくれた、ちょっとばかり洒落た着物を着ていたから、余計に気分がよかったんだろう。 財布も持たされていたが、特に欲しいものはなかった。 俺が欲しいのは一樹のものだけだった。 どうせなら、一樹に似合いそうなものを売っているところに行こうかと、百貨店なんかがあるような、賑やかな辺りに向かった。 結構な道程を歩いて――人力車なんかを使うといった発想は持ち合わせていなかった――、やっとたどり着いたそこで、俺は買い物をすることが出来なかった。 別に、店員に追い返されたとか、財布を落としたとか、そういうわけじゃない。 ただ、単純な理由だ。 百貨店から出てきて、馬車に乗り込む、一樹と奥さんの姿を見てしまったというだけ、ただ、それだけで。 初めて見た奥さんは、本当に綺麗な人だった。 洋装がよく似合っていて、愛らしくて、とても優しそうで。 一樹と並ぶと、お似合いと言うしかない。 絵に描いたような見事な夫婦の姿に、俺は羨んだり妬いたりする前に、素直に見惚れていた。 それくらい、見事だったのだ。 それを見て、思い知った。 やっぱり、一樹には俺以上に相応しい人がいるんだと。 しかも、その人は既に一樹の隣りにいる。 つまり俺は、邪魔者以外の何者でもないわけだ。 一樹には、俺なんて必要ない。 俺なんか、いなくたって大丈夫だ。 だってもう、あいつには奥さんがいる。 あいつは、俺なんかにかまけているせいで気付いてないのかもしれない。 だが、それなら俺がいなくなれば気づくだろう。 自分の隣りにいる、最高に素敵な人のことに。 俺がいなくなれば、きっともっと真剣にあの綺麗な奥さんを愛せて、二人とも幸せになれるに違いない。 だから俺は、一樹にもう一度会えて、話せて、……欲張りだが、愛してると言ってもらえたら、それを胸に抱いて死のうと決めた。 決めただけじゃなく、一樹と花火を見に行ったことがある思い出の橋にまで行き、その欄干に足を掛けた。 飛び込んだ水の感触だって、覚えている。 ――というのにどうして、俺は今、見慣れない洋間の、それも天蓋付きの豪奢な寝台に寝かされているんだろう。 「ここ、は…?」 どこなんだ、と声を上げるが、部屋の中に答えてくれる人間はいない。 体を起こそうとしたが、風邪を引いて熱を出している時のように、体の節々が痛んだ。 というか、実際、そうなんだろうか。 体が熱い。 頭がぼんやりする。 水が飲みたい、と思っていると、ドアが開き、若い女性が入ってきた。 女中には見えない。 見事に着こなしたドレスよりも、キラキラと光る意志の強そうな瞳の方が、やけに印象的な女性だった。 年頃は、一樹の奥さんと同じくらいだろうか。 俺とさして離れているようにも見えなかった。 「やっと起きた?」 そう言って、彼女は俺を見た。 「ああ…」 と答えた声がかすれていたからだろうか。 彼女は手袋を外して、綺麗な白い手で水入れを取ると、グラスに水を注いだ。 なんとか半身を起こした俺の唇にそれを宛がいながら、彼女は言う。 「まだ熱が高いみたいね。後で食事を持ってこさせるから、軽く食べてから薬を飲みなさい」 「お前は…?」 そんな口を聞いたらまずいような相手だろうと察しは付いていたのだが、熱にやられた頭はうまく働かず、そんな言葉が口をついて出ていた。 だが、彼女は気を悪くした様子もなく、 「覚えてないの? あんたを助けてやったってのに」 「助けて……?」 「そう。あんたが川に飛び込んだりするから、あたしのドレスが一枚駄目になっちゃったじゃないの」 …ということは、目の前のこの細腕で、川に飛び込んだ俺を助けあげたということなんだろうか。 それが本当なら、美少女然とした見た目に反して大した女傑だ。 唖然としている俺に、彼女は憤然と、 「なに考えて死のうとしたかしらないけど、あんたはこれであたしに借りが出来たんだから、それをちゃんと返すまで、勝手に死んだりするのは許さないわよ!」 と言い放った。 何の権限があるんだとか、お前には関係ないとか言ってやりたかったのだが、うまく言えなかった。 …どうしてだろうな。 傍若無人にも思えるような言葉が、不思議と優しく思えたのだ。 「どうせ要らないと思った命なんでしょ。それならあたしに寄越しなさいよ。拾ったものでも大事にしてやるわ」 「それは…使用人にでもなれってことか?」 「そうね…。まあ、そんなところかしら」 「…なら、いい」 「偉そうね。…でもまあ、慇懃無礼なのよりはずっといいわ。そのままでいなさい」 上機嫌に命じた女主人は、 「で? あんたの名前は?」 「……」 答えられず、俺は黙り込んだ。 名前を口にすることで誰かの耳にはいることも恐ろしければ、その誰かによっては彼女に迷惑が掛かってしまうかも知れないとも思ったのだ。 黙った俺に、 「言いたくないわけ? あんたも相当の訳アリね」 そう言いながらもそいつはむしろ面白がる様子で、 「じゃあ、あたしがあだ名でも付けてあげるわ。楽しみにしてなさい」 「…お前の名前は?」 「あたしはハルヒよ。涼宮ハルヒ。ハルヒって呼んだんでいいわ」 「分かった。ハルヒだな」 変わった奴だと思いながら、俺はもう一度目を閉じた。 まだ体は調子が出ない。 何より、起きていることで思い出したくないことまで思い出し、考えてしまいそうになるのが嫌だった。 そうして俺はハルヒの世話になることになった。 待遇は異常によかった。 ハルヒの主治医だというまだ若い医者は、 「ただの風邪と栄養不足ってところだね」 と診断を下すためだけに呼ばれたようなもんだったし、食事もやけに栄養価が高そうなものを用意された。 卵だの肉だのなんて、使用人にほいほい食べさせるもんじゃないだろうに。 そんな贅沢な食事を並べられても、俺はやはり食欲が湧かなかった。 「食べたくないんだが…」 とハルヒに言ってみたのは、使用人頭の女性が、俺が余りに食べないのを案じてハルヒに報告した後だった。 心配して、というよりむしろ憤慨してやってきたハルヒにそう言ったのだ。 するとハルヒは、 「食べたくないって言っても食べなきゃ人間死ぬのよ。あんたの命はあたしが拾ったものなんだからあたしのものでしょ。勝手に死ぬのは許さないんだから、あんたはちゃんと与えられたものを食べなさい」 と言った。 どういう理屈だ。 「どうしても食べたくないって言うなら、最終手段を取るわよ」 「…最終手段?」 胡乱な響きに俺が眉を上げると、ハルヒは悪辣な笑みで俺を見下し、 「まずこの料理を全部一緒くたにしてすりつぶすでしょ」 想像もしたくないような気持ち悪いものが出来上がるだろうな。 「それからあんたを拘束する」 何? 「でもって、あんたの口を開けさせて、喉まで筒を突っ込んでやるから、そこにすりつぶした料理を流し込んであげるわ。そうしたら、嫌でも食べるでしょ。吐くのも許さないわよ。しっかり消化しきるまで、ベッドに雁字搦めにしてやるわ」 本気でやりたそうな笑みを見せるハルヒにぞっとした俺は、 「勘弁してくれ…」 と顔を歪めるしかない。 「嫌ならちゃんと食べなさい」 恐怖の強制摂取よりはまだマシだと、俺は気持ちの悪さを耐えつつ、食事を取らされた。 そんな風に無理矢理にでも食べるようになれば、少しずつ慣れていくもので、やがて俺は普通に食事を取れるようになり、一月もすれば体も元に戻っていた。 …むしろ、前より太ってしまった気もするが、見た目を気にする必要はもうないんだから気にしないでおこう。 それでも、……まだ、一樹のことは忘れられない。 考えるだけで胸が痛む。 何気なく、一樹と一緒に食べたものや一緒にみたもの、話題にしたものを見聞きするだけでも泣き出しそうになる。 それを何とか抑えながら、俺はハルヒの使用人として働いた。 がむしゃらになって働けば忘れられるかもしれないと思ったのだ。 しかし、ハルヒに扱き使われるというのはどうも、普通に仕えるのとは違っていた。 何しろハルヒが命じるのは、 「隣町で面白い怪奇事件が起こったらしいから、あんた聞き込みしてきなさい!」 だの、 「花見に行って桜の下を掘ってみるわよ! あんた、しっかり掘ってよね!」 だのといった、訳の分からない命令ばかりなのだ。 先人であるところの使用人頭――と言ってもしかつめらしい顔をした中年のおばさんなどではなく、俺と同じくらいの年頃の若い女性だ――の阪中に聞いたところ、 「ハルヒお嬢様の趣味なの。悪いけど、付き合って差し上げてほしいのね。キョンくんと一緒だと、お嬢様も楽しそうだし」 と返された。 なお、キョンというのがハルヒが俺につけたあだ名である。 拾われたり、餌を与えられたりと、まるきり動物扱いだな。 傍目には本物の男妾にしか見えないのだろうが。 そう自嘲しながら、俺はハルヒと一緒にあちこち駆けずり回った。 古泉や長門が探しているといけないから、服装を変えて。 以前には着なかったような、小奇麗な洋服を着て、下ろしていた前髪を上げた。 面白がったハルヒが伊達眼鏡なんぞを掛けさせてくれたから、まず、俺だとは分からないだろう。 眼鏡なんて高いもんを変装のために付けているなんて、考えないだろうからな。 そうして俺は、一樹のことを忘れられるよう期待しながら、それなりに楽しく、平和で、それなりに大変な日々を送っていたのだが、4月も半ばに入ったある日、思いがけない客人がハルヒを訪ねてきた。 俺はハルヒに命令されて、お茶を運んで行ったのだが、ドアを開けてその人の姿を見るなり、硬直した。 そんな俺を不審にも思っていないのだろうその人は、俺みたいな使用人にまで軽く会釈を寄越すような律儀さを見せた上で、ハルヒに聞いた。 「新しいお手伝いさんですか?」 「そうよ。なかなか毛色が変わってていいでしょ」 新しいおもちゃを自慢するようにハルヒが言う。 俺はと言うと、その会話でやっと意識を取り戻し、そそくさとお茶を二人の前に置いた。 ハルヒのそんな物言いにも慣れているのだろう。 その人はくすくすと小さく笑って、 「涼宮さんらしいですね。今度はどこで拾ってきたんですか?」 「川よ。ほら、みくるちゃんの旦那様の実家がある辺りの。…分かる?」 「えっと……」 問われた彼女は少し視線を空中に向けた後、 「なんとなく、分かります。結構大きな川がありますよね。橋も大きくて…夏になったら花火が見られるんだって、旦那様が言ってました。昔、仲の良いお友達と見に行って、とても楽しかったって」 「そうそう、その辺りよ。あそこで拾ったの」 「ふわぁ…」 小さく感嘆の声らしきものを上げて、彼女は俺を見た。 「川に落ちちゃったんですか?」 「そんなところです」 曖昧な笑みと共に返しながら、俺は部屋を出て行こうとしたのだが、ハルヒがそれを許さなかった。 俺の着ているベストの裾を引っ掴み、留めたのだ。 「キョン、あんたの話してるんだから、ここにいなさいよ」 「…普通そういう話は本人のいないところでするもんだと思うんだが?」 「いいの!」 ハルヒは手を離そうともしないまま、困った顔のみくるさんに向かって言う。 「こいつったら、ばかなのよ! もう、三ヶ月くらい前かしら。だから、二月頃よね。あのとんでもなく寒い季節に、川に落ちたりするんだもの。おかげであたしはドレスを一枚だめにしちゃったし、こいつは風邪を引くしで散々だったんだから。しかもこいつったら強情にも本名を言わないのよ? 腹が立ったからキョンなんて変な名前を付けてやったわ」 金持ちのくせにドレス一枚のことをまだ忘れていないらしい。 その上どうやら本当に、この間抜けなあだ名には悪意があったらしいと知り、俺が嘆息すると、何故かみくるさんも一緒になって、酷く悩ましげなため息を吐いた。 「みくるちゃん? どうかしたの?」 「ううん…なんでもないんです」 「なんでもないなんて顔じゃないわよ。それに、隠し事なんて許さないわ。分かってるんでしょ?」 ハルヒの咎める、どころか睨みつけるとしか言いようのない視線に、あまり気が強い方ではないらしいみくるさんは、小さく悲鳴まで上げた。 そうして、観念したふうに口を開く。 「三ヶ月前、って聞いて、旦那様のことを思い出しちゃって……」 その言葉に、今度は俺が狼狽する番だった。 みくるさんは、一樹の奥さんだ。 つまり、彼女の旦那様というのは一樹のことに他ならない。 みくるさんが来ているのを見た時にまさかと思いはしたものの、本当に一樹の近況を聞くことになるとは思わなかった。 それも、みくるさんの様子からしていい状態ではないらしい。 「旦那様がどうしたの?」 遠慮の欠片もなく聞くハルヒに、みくるさんはかすかに眉を寄せながら答えた。 「三ヶ月くらい前からずっと、元気がないんです…。あちこち走り回ってるみたいなのに、会社の方には全然顔を出してないんですって。それで、ご実家に呼び出されて、お爺様やお父様からお叱りを受けたりして、余計に元気がなくなってしまって……。あたしじゃ、どうしても、だめ、みたいで……」 じわりとみくるさんの目から涙がにじみ始める。 ハルヒがそっと絹のハンカチを渡しているが、俺には彼女を慰めるような余裕などなかった。 一樹が何をしているのかと言うことは、おそらく考えるまでもなく分かってしまえることだ。 俺が自分に都合のいい考えをしようとしているだけに過ぎないのかもしれないが、長年一緒に過ごしてきたあいつのことだ、俺の推測でまず間違いはないだろう。 あいつはきっと、俺を探している。 仕事も放り出して、みくるさんのことを悲しませて、あの厳しすぎる爺さんやおっさんを敵に回してまで。 だが、どうしてだ? 俺なんていなくてもいいはずだろ? 俺なんか、いない方がいいくらいのはずだ。 それに、三ヶ月もあれば、俺だって一樹のことばかり思ってなどいなくなっていた。 ハルヒと一緒に笑いながら馬鹿なことをやれるくらいにまでなっている。 そりゃ、完全に忘れたりはしていない。 今だって一樹のことは愛しいと思っている。 けれどそれが身を焼くほどの熱を持つほどでなくなっているのもまた事実だ。 それなのに、一樹はまだ俺のことを探し続けてくれている? こんなに綺麗で優しい奥さんを放って、他の何もかもを放り出して、ひたすら、俺のことを…。 嘘だろ、と思わず唇の動きだけで呟いていた。 声に出さなかっただけ上出来だ。 ハルヒには怪訝な顔をされちまったが、察しのよすぎるこいつのことだ、おそらくそんな風に呟かなかったとしても気付かれているに違いない。 そう思った俺はどうやら正しかったらしい。 泣き出してしまったみくるさんを宥め、帰らせてしまってから、ハルヒは俺を自室に呼びつけた。 そのくせ、ハルヒはドアからそう遠くない位置に突っ立っている俺には目を向けず、書斎机の大きな革張りの椅子に腰掛けたまま、窓の外などを眺めていた。 そのまま、ハルヒは呟くように、 「…あたし、こう見えて結構顔が広いのよ。くだらない連中ばかりだけど、情報を集めるにはいいから、パーティーなんかにも顔を出すしね。だから、ちょっとした噂なんかも耳に入るって訳。そうやって、聞いた噂の中にはみくるちゃんの旦那の話もあったんだけど、どうやら、会社の近くで妾を囲ってるらしいって話だったわ。三ヶ月前から、彼が必死になって探してるのは、その妾じゃないかって噂もあったわね」 つらつらとそんなことを口にしたハルヒは、やっと俺の方を見たかと思うと、まるで射竦めるように俺を睨んだ。 「あんた、その妾について、何か知ってるんじゃないの?」 そんな風に睨みつけられたり、厳しい声でそんな言葉を叩き付けられなくとも、こうして呼び出された時点で、言い逃れなど出来ないと分かっていた。 だから俺は、大人しく頷き、唇を開いたのだが、うまく言葉には出来なかった。 出来るはずなどない。 一樹とのことを誰か他人に話すなんてことは、想像だにしなかったのだから。 代わりに、先走ったような雫が俺の目から零れ落ちていった。 |