青い月の下で
  第四話



小さな足音が聞こえて、僕は思わず目を細めながらもそのまま寝たフリを続けた。
キィという音と共に、そっと扉が開く。
そこから顔をのぞかせたその人はベッドに横になったままの僕の頬をちょこんとつついて、
「旦那様、朝ですよ」
と楽しそうに言った。
「おはようございます、みくるさん」
僕が目を開けてそう返すと、彼女は嬉しそうに笑った。
「あたしには大したことは出来ません。でも、少しでもお役に立てるなら、あたしだって何かしたいんです」
華族の箱入り娘のはずなのに、女学校時代によっぽど先進的な友人でもいたのか、嫁入り初日に気丈にもそう言った彼女は今、家事を覚えるのに一生懸命だ。
と言っても、使用人もいる以上、彼女のすることなどあまりありはしない。
こうして僕を起こしに来たり、身の回りの本当にちょっとしたものを磨いてみたり、花の世話をしてみたりというくらいのものである。
それをひとつひとつ、
「今日はお菓子を焼いてみたんですよ」
「今日はお庭に植えたお花の種から芽が出ました」
などと嬉しそうに報告する彼女には、僕も心温まる思いがする。
そんな僕たちを、まるでおままごとみたいな夫婦だと使用人が噂していることくらい、僕だって把握している。
けれど、この見た目も中身も幼くて、愛らしい彼女には、こんなままごとみたいな夫婦生活こそ相応しいんじゃないだろうかと思う。
こんな彼女だからこそ、自分がまだ本当の意味で僕と夫婦でないということに気がつかないでいてくれるわけだし。
彼女に黙って、彼を囲っている状況に、罪悪感がないわけではない。
申し訳なく思っているからこそ、出来るだけ彼女のワガママには付き合いたいと考えている。
そんなことで償いになるとは到底思えないけれど、僕はこのまま、彼女とは夫婦にならないままでいると誓っている。
いつか彼女がそれに疑問を持ったり、その結果として僕以外の男を好きになったら、いつだって彼女に協力したいとも思っている。
僕は彼女を、本当の妹のように思っているのだから。
「旦那様、今日はお帰りになるんですよね?」
僕の会社はちょっとした貿易商社で、今の時勢に乗った仕事でもあるから、そこそこ忙しい。
それこそ、会社で寝泊りするなんてことも珍しくはないくらいに。
昨日までなんて、遠く清国まで買い付けに行っていたくらいだ。
長い船旅の後、休みもせずに出社する僕が、流石に今晩くらいは帰ってくるだろう思ったのか、そう聞いてきたみくるさんに、僕は苦笑して、
「すみません。今日もちょっと帰れそうにないんですよ」
「そうなんですか…」
そう呟いて表情を曇らせるのは、僕が帰ってこないからどうとかいうよりも、僕の体を案じてのことなのだろう。
「大丈夫ですよ。ちゃんと休む時間は取りますから」
僕がそう言うと、彼女はまだ心配そうな顔をしながら、
「ちゃんとお休みは取ってくださいね。旦那様が倒れたりしたら…あたし……」
と目尻に涙を滲ませる。
「大丈夫です。こう見えても、そんなにひ弱じゃないんですよ?」
人目にはどうやら軟弱に見えるようだけれど、僕だって一応子供の頃からいくらか武芸の鍛錬は受けさせられているのだ。
あちこち奔走する仕事でもあり、体は鍛えてある。
「だから、心配しないでください」
「…はい。旦那様のお帰りを、お待ちしてますね」
と僕のためにだろう笑って見せた彼女に、またもや胸が痛んだので、精々お土産でも買ってこようと思った。
「それじゃ、行ってきますね」
「はい、行ってらっしゃいませ」
玄関先で小さく手を振って見送ってもらい、僕は家を出た。
結婚祝いと称して祖父から与えられた洋館は、僕がずっと育ってきたそれよりは新しくて小さめだ。
けれどどこか堅苦しいあたりは実家とそっくりで、みくるさんがいてくれなければ正直息が詰まって仕方がないだろう。
彼女の存在に感謝しながらも、僕はそっと手を合わせた。
すみません。
僕は今日の仕事を早々に切り上げた後は、僕の本当に愛しい人のところへ行くつもりなんです。
予定としては、午後にはすぐに仕事を終らせるつもりだ。
そうしてすぐに、彼のもとへ向かう。
そうしなければならない理由があった。

事前に連絡もしてあったのに、僕の姿を迎えた彼は、本当に嬉しそうに微笑んだ。
「一樹」
そう呼ばれて嬉しいのに、心苦しい。
前に訪れた時よりも遥かにほっそりとした体を抱きしめて、
「…また、痩せたでしょう」
咎めるように口にすれば、彼が目をそらした。
「ねえ、」
「分かってる」
駄々をこねるように彼は僕の言葉を遮った。
「ちゃんと、食わなきゃならんということも、分かってるし、お前と長門を困らせてるだけだってことも、ちゃんと、分かってるんだ。けど、食えないんだ…」
早口にまくし立てながら、彼の手が僕の服を握り締める。
指先が白くなるほど、きつく。
「…お前が、いて、くれないと……だめ、なんだ…」
苦しげな言葉が、僕の胸を締め付ける。
「どうして、そんなに不安なんです?」
分かっていながら問う僕は、最低だ。
「……お前が、いてくれる、時だけ…俺は、お前の側にいていいと、思えるんだ。お前がいないと……次、また、いつ、お前に会えるのかと、思って……それだけで、苦しくて…」
その目から小さな雫が零れ落ちる。
それを指先で掬い取り、彼の頬に口付ける。
「僕はちゃんといます。あなたのところへ帰ってきます。…信じてくださいとしか、言えなくて、すみません……」
「俺の方こそ……すまん」
本当に申し訳なくて堪らない気持ちなんだろう。
辛そうに謝罪の言葉を口にする彼に、
「わがままを言って欲しいと言ったのは僕の方なんですし、気にしないでください。それより、ちゃんとあなたの望みを叶えられなくて、すみません」
ふるりと首を振る儚げな彼を強く抱きしめる。
いつの間に、こんなに細くなってしまったんだろう。
こんなに弱々しくなってしまったんだろう。
彼はもっと強い人だったはずだったのに、僕が、こんな風にしてしまった。
今更になって、長門さんが言っていた言葉が堪える。
僕は彼女に言われた通り、身辺をきちんと整理して、そうして彼を迎え入れるべきだった。
彼がなんと言っても聞かずに。
みくるさんに今のような愛着が湧くよりも早く。
だから僕は、
「今からでも遅くありません。やっぱり、僕の家に来ませんか」
「何、言い出すんだよ…」
困惑に彼の瞳が揺れる。
「あなたがこれ以上人を傷つけたくないと仰るなら、出来る限りのことはします。みくるさんを悲しませないよう、努力もします。だから、どうかうちに来てください…!」
「――駄目だ」
憔悴しているはずなのに、残酷なまでに強い声が響いた。
どうして、こういう時ばかり意志の強さを見せ付けるんだろう、この人は。
「駄目って……あなたは、そのまま死んでしまうつもりなんですか!?」
僕が怒鳴るように言うと、彼は驚いた様子で目を見開いた後、悲しい笑みを見せた。
自嘲するような、笑みと呼びたくもないようなものだった。
「…いっそ、このまま消えられたらいいのにな」
その手が、怒りとも憤りとも分からないものに震える僕の腕を、そっと掴む。
「このまま、お前の腕の中で…」
「嫌です…!」
その言葉通り、本当に消え入りそうな彼が確かに存在するのだと確かめるように、僕は彼を強く抱きしめる。
「いなく、ならないで、ください…! もう二度と、あなたを放したくないんです…っ……」
「…泣かないで、くれ。お前に泣かれると、困る…」
「泣きたくも、なりますよ」
開き直ってそう言えば、彼が優しく僕の体を撫でた。
「…すまん。お前のことまで、苦しめて……」
「だから、」
「でも、……駄目、なんだ。もし、お前の奥さんがいいって言ってくれたとしても、一緒に暮らすようになったりしたら、俺は…自分が、何をするか、分からん…。それくらい、俺は、お前が……好きなんだ」
こんなに悲しい告白があっていいんだろうか。
胸を締め付けるような愛の告白があって、いいんだろうか。
嬉しいはずの言葉が、罪悪感をもたらすなんて。
「愛してます…。僕が愛しているのは、あなただけなんです」
「ああ、分かってる。ちゃんと…分かってるのにな」
それなのに彼は不安を感じ続ける。
食が細り、体がこんなにも痩せてしまうほどに。
眉を寄せた僕に、彼はわざとらしくも明るい笑みを見せ、
「それより、そろそろ食事も出来る頃だろ。お前が来てくれるって聞いてたから、長門に頼んで色々作ってもらったんだ」
とはしゃいだ様子を装って僕の手を引く。
痛々しい。
「それは楽しみですね」
泣きそうになるのを堪えながら、僕はそう笑みを作る。
連れて行かれた居間では、長門さんがすっかり食事の用意を整えて待っていた。
彼の席にはたっぷりの食事が盛られ、
「…長門……流石にこれは食い切れんぞ…」
と彼が引きつったほどだったが、彼女は意に介さず、
「…食べ切って」
「と言われてもな……」
困った、と呟き、助けを求めるように僕の方を見る彼に、
「時間を掛けてでもいいですから、しっかり食べてください。長門さんが心配するほど食べなかったんでしょう?」
「うー……」
愛らしく唸った彼は、諦めた様子で箸を取った。
僕がいれば、本当にちゃんと食べてくれるのだ。
それこそ、二人分はありそうだったお膳をなんとか空にしてくれるくらいには。
そうして食べている様子を見ると、拒食なんてたちの悪い冗談のように思えるのに、そうでないことは明白だと分かるほど、彼は痩せてしまった。
やつれた頬も、余計に薄くなってしまった胸板も、見ていると酷く痛々しい。
「あー…食った食った」
二杯目のご飯の最後の一粒まで綺麗に平らげた彼に、長門さんがぼそりと呟く。
「…いつもこれくらい食べてくれたらいいのに」
「あのな長門、いつもこんなに食ってたら俺はあっという間にまるまる太ってるぞ」
そう顔をしかめる彼に僕は、
「丸くなったあなたというのも、見てみたいものではありますね。きっと可愛らしいですよ」
「ばか」
ふくれっ面でそう言って、彼は顔を背ける。
そうしていると、以前のようなのに、違う。
「一樹、お前、先に風呂入って来いよ。その間に片付けておくから」
「…ええ、そうですね」
気まずさから逃れるように、僕は立ち上がる。
そうして、古臭い風呂釜だと言うのに驚異的なほど心地よい温度に調節された湯船に浸かりながら、僕は外で火を見ている長門さんに言った。
「長門さん…」
「……何」
「…次にこちらに来られる日が決まったら、あなたにだけお知らせします。そうしたら、身の回りのものをまとめておいてください」
それだけ言えば、彼女には通じたらしい。
僕が彼を自分の家へ連れて行くつもりだと。
「……その方が賢明」
そう言われ、ほっとした。
「彼には気付かれないように」
「ええ、気をつけます」
帰ったらみくるさんに打ち明けて、彼を迎える準備を急いで整えよう。
そうして、彼も長門さんも二人とも家に迎えて、前のように、いや、前よりも幸せに暮らそう。
いい気分で風呂から上がり、寝間に向かうと、彼が行灯の弱々しい光の中、ぼんやりと座り込んでいた。
まるで幽鬼のように影が薄い。
「あなたは入らないんですか?」
そう声を掛けると、彼はかすかに眉を寄せながら、
「入る、が……」
と僕を見つめ、
「…帰ったり、しない、よな…?」
「ええ、大丈夫ですよ」
そう請負いながらも、彼はこんなに小さかっただろうかともう一度思った。
感じられる彼の小ささが、胸に痛い。
それでも彼はかすかに微笑み、風呂へと向かった。
後ろ髪を惹かれるように、何度も僕を見返りながら。
ざっと体を流しただけであがってきたのだろう彼は、まだいくらか雫を纏った髪のまま、僕を抱きしめた。
「いてくれて…よかった……」
「ちゃんといると言ったじゃないですか。…そんなに不安なんですか?」
「ごめんな…」
「いえ、謝らなくていいんですよ」
出来るだけ優しく抱きしめ返すと、
「…もっと、強く」
とねだられた。
それでも、今の痩せ細ってしまった彼は、力を込めると折れてしまいそうなほどで、僕はほんの少し力を加えることしか出来なかった。
不満げに僕を見上げながら、彼が目を閉じる。
口付けをねだっているのだろう。
その唇に自分のそれをそっと合わせれば、悪戯でも仕掛けるように舌で舐められた。
それに誘われるまま、口づけを深くする。
彼の柔らかな唇を食み、舌を吸い上げると、
「んっ……ふ…あ……」
と甘やかな声が上がる。
気持ちいいんだなと分かった。
そのまま押し倒してしまいたいと思うのは、もう半月以上も彼と会うことすら出来ていなかったからだ。
けれど、その会えなかった半月の間に、彼はそれまで以上に速いペースで痩せ細ってしまった。
今はまだ体に無理をさせるべき時期じゃない。
だから僕はほどほどで彼を解放し、優しく布団に横たえた。
その体に掛け布団をそっと掛けると、彼はくしゃりと顔を歪めてしまった。
「…なんで…しないんだよ……」
「自分の健康状態くらい、分かっているでしょう?」
つい、咎めるような口調になってしまったからだろうか。
彼は軽く唇を尖らせて不満を示した。
「無理はして欲しくないんです」
「お前は…それで、いいのかよ……」
「あなたの方がずっと大事ですから」
「んなこと、言って…」
彼の声が泣き出しそうに震える。
何かまずいことを言ってしまったんだろうかと眉を寄せ掛けた僕に、
「俺のこと……き、嫌いに、なったん、だろ…」
「そんなことはありません!」
思わず声を荒げ、彼を驚かせてしまったが、僕だって驚いていたのだから仕方がないだろう。
「あなたのことを愛しています。それに変わりはありません。この先も、これまでも、僕が愛しているのはあなただけです。何にだって、誓えます。…僕が不甲斐無いことは僕自身よく分かっているつもりです。でも、どうか、お願いです。そんなことは、言わないでください……」
「…ごめん……」
泣きそうな顔をして謝る彼を、僕は出来る限り優しく抱きしめる。
子供をあやし、寝かしつけるように。
「…体が弱ってるから、心も弱ってしまっているんでしょう。どうか、無理はせずに休んでください」
「ん……」
その耳に唇を寄せて、
「早く元気になってくださいね。…僕があなたに無理強いしてしまいそうになる前に」
「ばか」
毒づく彼が愛おしくてならなかった。
僕はそのまま彼を抱きしめて眠った。
みくるさんには悪いけれど、久しぶりに落ち着いて眠れたような気がした。
やっぱり僕には、彼が必要なんだ。
その事実に感じるのは、不自由さなどではなく、心からの喜びだった。
けれど、穏やかな眠りは唐突に破られてしまった。
まだ夜が明けるかどうかという早い時間に、会社から走ってきた秘書に叩き起こされたのだ。
正確には、彼が持ってきた報せに。
長門さん伝いに知らされて、僕は布団から体を起こしながら、
「船が一隻行方不明に?」
と唸った。
木造船で運搬していた時代でもないというのに、と眉を寄せながらも、会社に飛んでいく他ない。
全く、面倒なことだ。
一緒に目を覚ましてしまった彼に、
「すみません」
と謝ると、彼は黙ったまま首を振った。
「急いで会社に向かう必要があるようなんです。…今度こそ、近いうちに来ますから」
そう約束する僕の言葉を、彼は僕を抱きしめることで遮った。
「…一樹……愛してる」
「……はい。僕も、あなたを愛しています」
どうして突然、と訝しみながらもそう返し、僕は彼に口付ける。
長門さんの前だが、これくらい構わないだろう。
「…行ってきますね。あなたのために、頑張ってきます」
「ん…」
僕は急いで身支度を整え、それこそ朝食を食べる暇もなく家を飛び出した。
会社に着いてからは一日中ばたばたと動き回り、客の応対に追われ、本当に散々な一日だったと、それでもなんとか一息つけた夕方。
白い頬を真っ青にして、長門さんが会社に飛び込んできた。
その顔を見れば、それだけで何かが起こったのだと分かる。
「どうしたんですか!?」
思わずそう叫べば、社員達が皆驚いていたが、構うものか。
長門さんは呼吸を整える余裕もなく、掠れた声で言った。
「彼、が……、いなくなった…!」
一体何を言われたのか、僕は理解出来なかった。
彼が、いなくなった?
なんの悪い冗談だろう。
彼女を疑う必要などないと分かっていたのに、僕はそのまま会社を飛び出した。
馬車を用意させる時間さえ惜しくて、自分の脚で走った。
そうして飛び込んだ家は、もぬけの殻だった。
彼がいないだけ、それだけでがらんどうのあなぐらのように思える部屋の中には、ただ一通の手紙だけが、彼の使っていた文机に置かれていた。
走り書きのようなそれには短く、
『俺のことは忘れて、幸せになってくれ』
とだけ記されていた。
それだけの文章が、僕には全く理解出来なかった。
「どう、して……どうして…!」
僕の視界を歪ませた液体が、彼の筆跡をも滲ませた。