青い月の下で
  第一話



薄汚れた路地に転がって、俺は空を見上げた。
汚い路地よりも更に汚れ、ボロボロになった体で見上げても、月は酷く綺麗だった。
それだけで、泣きたくなるほど。
黄色く見える月が、恐ろしいほど綺麗に青く見えた時もあったんだ。
その頃を思い出し、月のあばた面に重ねるには、余りにも綺麗過ぎる顔を思い出す。
「…古泉……」
逢いたい、と呟くことすら出来ないまま、俺は目を閉じた。
浅い夢の波間に見るのは、あの屋敷でのことばかりだ。
明治になってから生まれた俺たちも、もう20才を数えるまでになったが、それでもまだ大抵の人間は和装をしていて、洋装をしている人間なんてよっぽどの高官とか着道楽くらいのものだ。
それに正直、日本人なんだから洋装なんてものが似合う人間はそうそういやしなかった。
なのに、嫌味なくらいそれが似合うのが、古泉一樹という奴だった。
俺とは乳兄弟で、そうでなければ俺みたいな使用人の子供が気安く名前を呼んだり、親しく出来たはずもないくらい、家柄も家格も立派な家に生まれた古泉は、それなのに俺や長門やそれ以外の使用人をさげすむこともなく、優しく接してくれる奴だった。
「僕は、父や祖父の方が苦手です」
育ちの良さを表すように敬語を崩せない古泉に俺と長門はよく、もう少し偉そうにしろとか言ってたものだが、何度言っても古泉は聞かなかった。
行儀がよくて、大人しくて、頭もよくて。
小難しい話をする古泉に嫌な顔をして見せながらも、俺は古泉といるのが嫌じゃなかった。
仕事の合間に古泉に呼ばれて会いに行くのが嬉しかったのは、仕事を休めるからじゃない。
古泉と会えるからだ。
それくらい、俺は古泉が好きで、古泉も俺を好きだと言ってくれた。
男同士で、なんてことは不思議にも思わなかったな。
周りも見えなくなるくらい、古泉が好きで、ただ、それだけだったんだ。
だが、それは古泉の祖父の逆鱗に触れるには十分だった。
華族のお嬢様を嫁に貰う約束をしているのに下男に手をつけるとは、と古泉は恫喝され、俺は命令された他の使用人仲間に叩きのめされた挙句、屋敷を放り出されたというわけだ。
追い出された俺でも、皆がこっそり手加減してくれたおかげで傷やなんかは大したことはなかった。
東京に住んでいれば、仕事くらいいくらでもある。
だから俺は古泉のことを忘れたくて、必死に働いてきた。
風の便りに古泉が嫁さんをもらったことも聞き、これで古泉も俺を忘れてくれると思った。
それで、いいんだと思った。
で、その俺が何でこうして路地裏にほっぽり出されているかというと、理由は簡単だ。
働いていたある家で、その家の奥さんに押し倒され、抵抗しているところをその旦那に見つかったという、何で俺がこんな目に遭わねばならんのだとそこいらじゅうの神社仏閣に喧嘩を吹っかけに言ってやりたくなるような事件が原因である。
今度こそ情け容赦なく打擲された俺は、こうして虚しく転がされているわけである。
正直、動けん。
どこを動かそうとしても体が痛むし、それ以上に動こうという気力が湧かなかった。
このまま、死んでしまってもいいな。
古泉のことを思いながら死ぬなんて、俺の身に余るほどの幸せじゃないかとさえ、思った。
だから大人しく目を閉じた。


はずだったのだが、どういうわけか、あの白い飯特有と言っていいだろう、ふわりと甘い匂いで目が覚めた。
目に映る天井は見覚えがないのだが、かすかに聞こえてくる高速かつ規則正しい包丁の音は妙に聞き覚えがあった。
「大丈夫ですか?」
不安げに震える声も。
「ど……して…」
喉が渇いていたからか、声がうまく出なかった。
だが、どうやら喉のせいだけじゃなかったらしい。
目に浮かんだ液体で、視界が歪む。
幻覚だ、まやかしだ、と自分に言い聞かせることすら出来なかった。
その前に、そいつに抱きすくめられたからな。
「よかった…。あなたが、無事で、…っ、よかった…」
生まれ持っての整った顔を歪めて、子供のように涙を流す古泉に、俺は言葉を返すことも出来なかった。
ただ驚き、現実として受け止めかねている俺に、古泉はそっと口付けた。
初めてのそれに、俺が更なる衝撃を受けていると、
「愛してます」
告げられるのは率直過ぎるほどの告白だった。
「愛してるんです。あなたのことを、あなただけを、愛してます。…あなたがいなくなって、僕がどんなに悔やんだか、分かりますか……?」
涙の雫が俺の顔に降ってくる。
それを勿体無いと思った。
俺なんかのために古泉が涙を流すことも、それが零れるに任されていることも。
「もっと、慎重に振舞っていればよかった…。誰にもばれないように、ちゃんと気をつけていればよかったのに……我慢、出来なくて、すみません…っ」
我慢なんて十分以上にしてただろうよ。
大体、付き合ってたなんてことがばれたがために追い出されたり結婚させられたりした二人が、口吸いすらしたことなかったなんて、お天道様でも思うまい。
「お前は悪くなんかないだろ…」
「でも、」
「こうして、助けてもらって、それで文句を言ってたら、それこそバチが当たるってもんだ。…ありがとな。古泉…」
「……そのことなんですが…」
苦笑を浮かべた古泉に、俺は首を傾げる。
「どうかしたのか?」
「あなたを助けたのは僕ではありません。僕は連絡をもらってこちらに来たまででして…」
ということは、俺を助けてくれたのはさっきから聞こえてきている包丁の音の主か。
俺は古泉の手を借りて起き上がり、障子の向こう、土間の方に向かって言った。
「長門、ありがとな」
耳慣れた包丁の音が止み、障子が音もなく開く。
幼馴染の無口な少女は、
「…当然のことをしたまで」
と短く答えてから、再び調理作業に戻っていった。
障子を閉じるのは、俺の弱った体に土間の冷たい空気が障ると思ったからだろうか。
長門らしい、と思いながら、
「何作ってるんだ?」
と聞いてみた。
障子の向こうから声が返ってくる。
「私と一樹の昼食。あなたの分のお粥はもう出来ている。……すぐに食べる?」
「そうだな…」
言われてみれば、腹が減っているような気もする。
「そうでしょうね、」
と古泉は困ったような顔をして、
「あなた、二日ほどずっとうなされてたんですよ?」
「そんなにか」
自分としてはすぐに目を覚ましたような感覚だったのだが、どうやら違ったらしい。
「あなたがどうしてこんな大怪我をして倒れていたのか、うちを出て行ってからどうしていたのか、聞きたいことは尽きませんが、とりあえず今はやめておきます。まずは、しっかり養生してください」
「ん……分かった」
そう答えながら笑みを零した俺に、古泉が顔を近づける。
自然に目を閉じた俺の額に、こつん、と自分の額を合わせた後、悪戯でもするように少しだけ唇を触れさせた古泉は、
「熱はすっかり引いたようですね」
と安堵の笑みを零し、
「本当に…あなたが無事でよかった」
ともう一度繰り返した。
それから、ふと思い出したように、
「ところで、もう、僕を古泉と名字で呼ぶのは止めてくださいませんか? あなたはもう、うちの使用人ではないのですから」
理由として古泉がそれを挙げたのは、以前古泉が、「恋人なのだから」と言って同じことを言った時に、俺がそれを理由に拒んだからだろう。
あの時は恋人と言われたその一言だけでも妙に嬉しくて舞い上がってたな、なんてことを思いながら、俺はにやりと笑って問い返す。
「じゃあなんて呼べって言うんだ?」
「勿論、一樹、と名前で呼んでください」
「そんなに呼んで欲しいものか?」
「当然でしょう? ほかでもないあなたに、恋人として、呼んでいただきたいんです」
今もまた、恋人と言われただけで心臓が落ち着きを失う。
俺が、痛いくらいに感じられる胸をそっと押さえながら、
「いいのか? …そう、呼んで」
まだ、恋人と思っていてくれるのか?
それで、いいのか?
言外に問えば、古泉は嬉しそうに微笑み、
「あなたさえ、いいなら」
「……一樹」
と呼ぶと、古泉――じゃない、一樹はその顔を嬉しそうに輝かせた。
きらきら光る瞳が近づく。
それが限界まで近づく寸前で目を閉じると、また、唇に優しい感触が触れた。
今日、生まれて初めてのそれが、何度しても飽きないほど嬉しく、楽しい。
もっとして欲しいと思う。
それはきっと、俺が今も間違いなく一樹を愛しているからだ。
一樹の体が離れる前に、俺の方から手を伸ばして抱きしめる。
「…好きだ……」
「僕も、あなたが好きです。あなたと一緒にいたい。もう、離したくない…っ」
一樹が珍しくも敬語を崩してそう言い、俺を抱きしめた。
痛いくらいに力を込められても咎める気になれない。
むしろ、嬉しくて、
「……もっと、抱きしめろ」
と言うと、
「いいんですか?」
恐る恐る、と言った風に聞き返され、俺が頷こうとしたところで、
「だめ」
と長門の声がした。
ぎょっとして顔を上げると、お盆を手にした長門が立っており、
「怪我人にそれ以上の無茶は認めない。それに、」
と長門は一樹をじっと見つめると、
「あなたには、やるべきことがまだあるはず」
「……そうでしたね」
一樹は神妙に頷いたが、俺にはさっぱり分からん。
「どういう意味だ?」
「そのままですよ。…今のままでは、僕はあなたに触れる権利もないということを、すっかり忘れていました。すみません」
「……は?」
一体どういう意味だ。
俺に触れる権利もないってのがまず分からん。
「妻のいる身で、あなたに触れることは許されないという、ただそれだけのことですよ」
そう一樹は断言したが、
「…じゃあ、何か。お前は結婚したってのに俺のために嫁さんを追い出すつもりなのか?」
「……何かいけませんか?」
怪訝な顔をした一樹に、
「当たり前だろう」
一樹の嫁さんが、前に聞いた通りの人ならば、華族のお嬢様なだけあって実におっとりとしたお嬢さんだと聞く。
そんな人に出戻りという拭いようのない汚点を残すつもりかお前は。
「……あの、じゃあ、お聞きしますけど、」
戸惑いも露わに一樹は俺の顔をのぞきこみ、俺が嘘を言っていないか確かめるように言った。
「あなたは、…その、僕と一緒にいたいとか、思っては、くださらないのですか?」
「…そりゃ……思ってるに決まってるだろ」
何分かりきったことを聞くんだ。
「なら、」
「俺は、」
一樹の言葉を遮り、俺ははっきりと言った。
「妾でいい。…自分からこんなこと言うのは情けないとも思うけどな。でも、お前になら、囲われてもいい。そう、思うから…だから……これ以上、俺とお前のことで、誰も傷つけたくないんだ。俺は…」
思い出すのは、最後に見た母親の顔だ。
俺の分も這いつくばって、必死に頭を下げ、泣きながら謝っていた。
俺を咎めようとはせず、ひたすら、俺の分まで謝って、謝って、…俺たちの背信行為で、お袋も傷ついていただろうに。
あんな風に誰かを泣かせたくないと、俺は思うのだ。
たとえ相手が、会ったこともない上、太刀打ちのしようもないだろう古泉の嫁さんであったとしても。
「……あなたは、それでいいんですか?」
「…ああ。そうしてくれ。…生活費くらいは、自分で何とかするから……」
「いいえ」
きっぱりと一樹は言った。
「囲っていいと言うなら、その通りさせてください。あなたの住む家も、生活費も、何もかも僕が用意します。あなたは家から出なくていい、それくらいに、環境を整えます。あなたを僕にください。僕だけのあなたで、いてください」
「……それが、お前の望みか?」
「…本当なら、無理矢理にでも連れて帰って、妻に実家へ帰っていただいた上で、あなたと一緒に暮らしたいですよ。でも、それがだめだと言うなら、せめてそれくらいのわがままは、認めてください。……お願いします」
「…ありがとな、一樹」
そう言った俺は、長門に目を向けると、
「そういうことだから、そういうけじめのつけ方で許してやってくれるか?」
「……あなたがそれでいいのなら」
「ああ、俺はこれでいい。十分過ぎるほど、満足だ」
「…そう」
どこかまだ得心のいかない様子ではあったが、長門はそう頷いてくれた。
その上、一樹に向かって、
「彼の世話をするために、私を雇って欲しい。私なら、あなたも安心できるはず。……違う?」
「いいえ、助かりますよ。確かに、あなたなら安心です」
長門は口が固いからな。
「それに、彼女は決して、あなたに劣情を抱いたりしないでしょう?」
「……なんだそれは」
「あなたはわかっていないでしょうけれど、あなたはとても魅力的な人なんですよ。僕にとっては勿論のこと、僕以外の人間にとってもね」
困ったように笑いながらそう言った一樹は、
「それでは僕は、丁度いい物件を探しに行ってきましょう。あなたはしっかり体を休めてくださいね?」
「…ああ」
頷きながらも、一樹が離れていくことが酷く寂しかった。
怪我をして、弱っているからだろうか。
そんな俺に向かって、一樹は優しく微笑むと、
「出来るだけ早く、帰ってきます。…それでは、行ってきます」
『行ってきます』という、ただそれだけの言葉が、酷く嬉しかった。
俺の場所に帰ってきてくれるから、戻ってきますではなく、行ってきますと言ったのだろう。
ちょっとした言い回しの違いといってしまえばそれまでだが、それだけのことが嬉しくて堪らなくて、泣き出しそうになりながら、
「行ってこい」
と送り出した。
住む家はどんな家でもいい。
豪華じゃなくていい。
小さな、そう、ちょっとした家で十分だ。
一樹と、たまにしか会えなくてもいい。
毎日会いたいなんて贅沢も言わない。
一樹の帰ってくる場所が、俺であれるのなら、それで。