三学期が始まり、僕はなんとも言えないような気持ちで坂道を上っていた。 今日は彼と顔を合わせなければならない。 しかし、どんな顔をして? 彼が――ただの一般人だと思っていた彼が、実はただの人間などではなく、それどころか人間ですらない、妖狐だと知ってしまったのに。 それも、単純に狐だとかそういうことだけでなく、狐使いだったという僕の祖父が使役していた狐で、僕が子供の頃遊んでもらっていた狐のお兄さんだったなんて。 ずっと僕たちを騙してきた彼を賞賛するべきか、それとも祖父を恨むべきか。 ほう、とため息を吐いたところで、 「よう」 と背後から声を掛けられた。 びくっと竦みながらも表情は緩んでしまう。 これは多分、お兄さんへの条件反射に違いない。 「おはよう…ございます……」 「そう怯えるなよ。取って食ったりするとでも思ってんのか? 一樹」 そうにやりと笑うお兄さんに、僕はびくつくしかない。 「大丈夫なんですか?」 「何が」 「その…僕のことをそんな風に呼んだりして。人目もあるのに…」 登校時間だから、僕たちの近くにも大勢の北高生がいる。 しかしお兄さんは少しも慌てず、 「ああ、心配要らん。周りには俺たちの会話は聞こえないようにしてあるから」 「聞こえないように…というのは?」 「簡単な結界みたいなもんだな。周囲の人間には俺たちが何か話していることは分かるが、その内容まではぼやけて理解出来ないようにしてある。そのことに違和感を抱かないようにも」 「わざわざそんなことをしてまで、話す必要が生じたんですか?」 思わず真顔になりながらそう聞くと、お兄さんは軽く笑って、 「いや、大したことじゃない。ただ、ここしばらくはお前も忙しかっただろ? それであれこれ話せてないからな。ちょっとばかり打ち合わせでもしておこうかと思ってな」 「打ち合わせ……ですか」 「ああ。まずひとつめは、長門のことだ」 長門さん? 「長門にも、俺が狐であることは知られてない。薄々、何かおかしいとは思われてるかも知れないがな。だから、長門についてどうするかはお前に任せる」 「えぇ?」 「お前が俺を祀ってる、言ってみれば祭主なんだから、それくらいお前に委ねてもいいだろ。長門に相談しておきたいとか、俺のことを長門に伝えておくことで今後の危機に備えたいって言うんなら、説明して構わない。俺も、証明してやらんでもないぞ」 だが、とお兄さんは悪戯っぽく笑い、 「お前が俺の秘密を独占しておきたいんだったら、黙っててもいい」 「独占……って…」 この人はどうしてこうなんだろう。 僕の心を必要以上に揺さぶってくすぐって、僕の反応を見て笑うなんて、たちが悪い。 「どうする?」 意地の悪い笑みを浮かべて言ったお兄さんに、僕はそっと嘆息して尋ね返した。 「お兄さんはどうしたいんです?」 「俺? 俺は別にどっちでもいいぞ」 「そうなんですか? 随分、長門さんのことを気にしておられるようだったので、明かしておきたいのかと思ったんですが…」 「別に?」 お兄さんは首を傾げてそう言った。 どうして僕がそんなことを思ったのか、理解出来ないとでも言うように。 「長門のことはそれなりに気に掛けてるが、お前と比べると別にどうでもいいな。お前に危害を及ぼさなけりゃ、好きにしてくれとしか言いようがない。SOS団も楽しいから、一応守ったりする気ではいるが、わざわざ明かす必要があるとまでは感じてないし」 普段の「彼」の様子からすると冷たく感じられるようなお兄さんの言い方に、僕は思い出す。 生前、祖父が言っていた言葉だ。 『人の姿をしていて、人と同じように考えているように見えても、所詮は妖し。全く同じではない。彼らには彼らの道があり、それに従って生きているのだから、完全に理解し合えると思うのは間違いだ。ただ少し力の貸し借りをするだけだと思っていないと、傷つくのはお前だよ』 優しくそう言ってくれた言葉も、封印されてしまっては意味がないと思う。 封印されている間に、僕はすっかり彼のイメージを固めてしまった。 それがお兄さんのそれとは全く同じでないことにも戸惑うし、間違いなく人だと思っていた相手が実は人ですらなかったと知ったショックと言ったら…。 「ため息ばかり吐いてどうしたんだ? そんなに嫌な話だったか?」 心配そうに不思議そうに言うお兄さんに、僕は小さく首を振る。 「いえ。……少しばかり僕の認識が甘かったことを痛感しているだけです」 「…よく分からんが……結局長門にはどうすることにするんだ?」 「そうですね…」 と僕は考え込む。 長門さんになら説明しておいた方がいいかもしれないと、さっきまでは思っていた。 しかし、彼女にお兄さんの本当のことを伝えた結果として、お兄さんがさっきのようなことを面と向かって口にしたら、彼女の出来たばかりのように純粋で無防備な心がどんなに傷つくだろうか。 それを思うと、とてもじゃないが伝えられない。 お兄さんが狐であることを考えれば、そうして特定の人間を庇護したいと思っていることだけでも十分親しみを感じているということなのかもしれないけれど、それは仲間としての連帯感には程遠いものに思える。 そんなことをわざわざ彼女に知らせる必要などない。 しかし、何か遭ったらその時には明かさなければならないだろう。 だから僕は、 「とりあえずは長門さんにも秘密にしておきましょう。あなたや僕に何か遭った場合、長門さんの助力がどうしても必要な場合に限って、彼女に本当のことを伝える、ということでどうです?」 「分かった」 あっさり頷いたお兄さんは、 「ふたつめの質問に移っていいか?」 「ええ」 しかしそろそろ校舎についてしまうのだけれど。 「心配ない。すぐに終る質問だ」 そう笑ったお兄さんは、 「お前、これを首に掛けておけるか?」 と言って、ポケットから細い組み紐のようなものを取り出した。 「なんですか? これは」 「簡単なお守り…というか、結界を作り出すための道具だな。お前がキョンにじゃなくて俺に用がある時、誰かに聞かれるとまずいだろ。だから、お前が俺に向かって『お兄さん』と呼びかけることを発動条件として仕込んである。お前がそう呼んだら、今のと同じ結界が展開されるって訳だ」 「なるほど。…しかし、これはちょっと目立ちませんか?」 体育で着替えたりもするのだけれど、真っ赤な組み紐なんて、何を言われるか分からない。 「それも考慮した。これは、俺とお前にしか見えないようにしてある。もし見える奴がいたら、よっぽど力の強い術者か妖しだから気をつけろよ」 「それなら、掛けておけると思います」 「よかった。…一応お前の許可がないと俺はお前に対して何も出来ないんでな。まどろっこしいが説明をさせてもらった」 そう言って、お兄さんが組み紐を僕の首に押し当てたと思うと、閉じた輪のようになっていたはずのそれは、すとんと僕の肩に落ちた。 どうやって輪が開き、また閉じたのかなんて理解しようもない。 「それから最後に、」 もう靴箱が近づいてきた辺りになって、お兄さんが言った。 「今度はなんですか?」 「……お前、今日暇か?」 「えぇと……そう、ですね。一応暇です」 「なら丁度いい。今日は団活も休みになるから、お前の家に行っていいか?」 喜色を滲ませて言うお兄さんに、僕は戸惑いながら、 「ええ、構いませんよ。しかし、団活は休みになるんですか?」 「ハルヒは急用が入る。そういう星回りだ」 星回り。 彼の口から出たと思うと戸惑うしかないが、お兄さんの言葉だと思うとすんなりと飲み込めた。 僕が小さい頃にも、よく星空を見ながらあれこれ占っていたっけ。 それで僕は天体観測なんて好きになったのだけれど。 「とりあえず、今はこれだけだ。それじゃ、また放課後にな。……古泉」 そう言って、お兄さんは彼としての表情に戻り、僕たちの周囲にあったという結界も消えたようだった。 「ええ、また後ほど」 苦笑混じりに答え、僕は彼から離れた。 切り替えはちゃんと出来る。 それくらい、お兄さんは纏う空気を変えている。 言ってみればそれが、人に化けると言うことなのかもしれない。 僕に対する時には人の形をとってはいるけれど、狐としての部分が大きく雰囲気に現れていて、人間らしさが酷く薄れている。 しかし、一度「彼」に「化けて」しまえば、本当に人間らしく、狐だなんて嘘のようにも思えてしまうのだから、化けるというのは本当に凄い術なんだろう。 そんな風に力を消耗し続けていて、お兄さんは平気なんだろうか。 考えながら教室に向かう。 僕に何か出来ることはないだろうか。 僕のために頑張ってくれている、もう十年ほども僕を守り続けてくれたお兄さんのために、出来ることは。 おじいちゃんはどうしていたっけ。 僕とお兄さんの関係は、おじいちゃんとお兄さんの関係とは微妙に違うから当てにならないかもしれないけれど、参考にくらいはならないかと、必死に記憶の糸を手繰る。 それこそ、授業もろくに聞きもせずに。 そうして思い出したのは、お兄さんの話だった。 甘く炊いた油揚げを僕と一緒に食べていたお兄さんに、僕が聞いたのだ。 「お兄さんは、いつも油揚げしか食べないの?」 「他のものを食う時もあるが、今のところ、ここで食うのは油揚げと稲荷寿司くらいだな。そういう約束だから」 「約束?」 「お前の爺さんと約束してんだよ。毎日欠かさず油揚げか稲荷寿司を食わせる代わりに力を貸してやるってな」 「……お兄さんかわいそう…」 「……へ?」 ぽかんとしたお兄さんに、僕は泣きそうになりながら言ったものだ。 「お兄さん、毎日色々大変そうにしてるのに、お給料がそれだけなんて、かわいそうだよ…」 「お前、ちっさいのに給料とかいう言葉を知ってんのか」 そんな風に言われるほど小さくなかったと思うのだけれど、お兄さんには人間の年齢がどの程度のものなのかなんてよく分かってなかったのかもしれない。 ふわりと優しく微笑んで、お兄さんは僕の髪を撫でた。 「別に、俺はかわいそうじゃないぞ。これで十分なんだ」 「どうして…?」 「心を込めて用意されたものには、少なからず心や気が宿る。俺はそれから力をもらってるからな。本当は油揚げと稲荷寿司に限らなくてもいいんだが、単純に味が好きでそれにしてもらったんだ」 「そういうものなの?」 「油揚げ、うまいだろ?」 「うん」 「手作りなら、炊いてない奴でもいいんだけどな。物凄く手間がかかるからそこまでは要求せん。買って来た油揚げを炊くだけでも、結構な手間だ。その手間が、油揚げに力を移してくれる」 「じゃあ、手間を掛ければ掛けるほど、お兄さんにとって美味しいものになるの?」 「美味しくて、力になるものにな。…もし豆腐から全部手作りした稲荷寿司とか食ったら、どれだけ力になるか」 うっとりしたお兄さんに僕は笑って、 「そんなの、お豆腐屋さんじゃないと無理じゃないの?」 「だろうな」 そう残念そうに笑ったお兄さんに、出来る限り手作りした稲荷寿司を食べさせてあげたいと思ったんだった。 それくらいなら、僕にも出来るだろうか。 豆腐から全部は無理でも、豆腐を揚げて、油揚げを作ることくらいからなら始められるかもしれない。 帰りに豆腐と、それから一応失敗した時のことを考えて油揚げも買って帰ろうか。 そうしておじいちゃんがしていたように、甘辛く炊いて、稲荷寿司を作ったら、お兄さんは喜んでくれるだろうか。 油揚げの作り方を後で調べておこう。 そんな風に思うくらいには、僕はやっぱりお兄さんが好きであるようだ。 僕はそっと口元を覆い隠し、困ったな、と苦笑した。 |