どうにも周りの態度が少しばかりおかしいなと思ったら、どうやら俺がゲイだという噂が前よりも広まっているということらしい。 そのことは別に構わないといえば構わない。 俺が一樹と夫婦を気取っている以上、ゲイじゃないと言い張れるもんでもないからな。 ただ不自由なのは、遠巻きにあれこれ見られたりするばかりでなく、俺が近づくと逃げる野郎がいるってことだな。 別に取って食ったりしないっつうのに、と呆れていたのは最初で、噂に酷い尾ひれがつき始めると苛立ちが募りだした。 それもこれも、あの馬鹿のせいだ、と俺は吐き捨てたくなるのをぐっと堪えた。 話は、数日前に遡る。 その日、講義が終わった後、一樹のいる研究室をのぞきにいこうかと俺はぼんやりと構内につっ立って考えていた。 のぞきに行けば一樹が喜ぶのは分かっているんだが、土産もなしに他学部の研究室に邪魔をしに行くのは気が引けるし、そもそも今日辺り作業が一段落するとかなんとか言ってたから、行くだけ無駄かも知れない。 ……メールか電話で聞いてみるか、と俺が携帯を引っ張り出そうとしたところで、 「ねえ、」 と声を掛けられた。 なんだ、と思いながら振り返ると、そこにはたまに講義で見かける男が立っていた。 すらりとした長身で、顔もそこそこ整っているというので女の子が騒いでいたような気がするが、俺からすると一樹の方がいい男だと思う程度でしかない。 つまりは、惚れた欲目に負ける程度のものであり、誰しもがそう思うような美男子ではないということだろう。 「何か用か?」 「ちょっと話がしてみたくて」 にこりと笑った顔に何故か寒気がしたのを、後になっても覚えている。 「話?」 「そう。…でも、結構忙しそうにしてたから、声が掛け辛くて。いつも忙しそうだね?」 「まあ……それはそうかもな」 何しろ、まだ小さい息子に手のかかる旦那がいるからな。 「見かけたと思ったら、別の学部の方に行っちゃうし。…仲がいい人がいるとか?」 「…そう、だが」 だからなんだというんだ、と警戒を強める俺に、そいつは小さく笑って見せた。 一体何がしたいんだろうか。 長門への探りを入れたいのか? それとも一樹だろうか。 どちらにせよ、こういう胡散臭い雰囲気の奴に渡すつもりなど毛頭ないのだが。 「そんなに警戒しないでよ」 「するに決まってるだろ。一体何が目的だ?」 「目的…と言うと響きが悪いけど、ただ、あなたと仲良くしてみたいなってだけなんだ」 「はあ?」 「あなた、ゲイですよね?」 いきなり言われて流石に驚いた。 驚きに目を見開いた俺に微笑みかけ、 「俺もなんです」 と言われて更に驚いた。 なんだって? 「そうじゃないかなって思ってたから、話してみたかったんだ。当ってたみたいでよかった」 なるほど、と納得したまではよかったし、俺としても他のゲイがどんなもんか知りたかったというのもあって、そのまま自販機近くのベンチに移動して話すことになった。 「よく一緒にいる人は友達? 彼氏?」 と聞かれたので、俺は苦笑しながら、 「あー……どっちかっていうと、旦那、かな」 「旦那?」 「あ、別に援助交際だとかそういう怪しい意味じゃないぞ。文字通りの意味だ」 「一緒に暮らしてるとか?」 「ああ」 子供がいる、なんてことまでは言わなくていいだろう。 説明するのも面倒だし、言っても理解出来るとは思えん。 「ふうん、じゃあ、その旦那さんにべた惚れなんだ?」 「……恥ずかしながら、そうなるんだろうな」 「もしかして、旦那さんしか知らない、とか?」 「う」 言葉を詰まらせた俺に、そいつは愉快そうに笑って、 「凄いなぁ、純情なんだ?」 「純情とは言わんだろ…」 「俺の周りはとっかえひっかえ、みたいなの多いから」 そう軽く笑い声を立てたそいつは、俺を見つめて、 「試したい、とか思わねえの?」 「……は?」 「ほかの男とか」 「……思わない、な」 「ええ? 試してみようぜ」 そう言ってにじり寄られて、ようやく俺はそいつの意図に気がついた。 うげっとひきつったところで、 「何をしてらっしゃるんでしょうか?」 という一樹の声が聞こえた。 驚いて振り向けば、仁王か何かのような恐ろしげな顔をした一樹が立っていた。 助かった、と思いながら俺は急いでベンチから腰を浮かし、 「悪いが、俺はこいつで手一杯だ。そういうことがしたけりゃ、ほかを当ってくれ」 と言い捨てて一樹の手を引っ掴み、そのまま遁走した。 大分離れたところでそいつが追いかけて来ないのを確かめ、速度を緩めると、一樹は苦笑して、 「なんだか、助けは必要なかったみたいですね?」 と言ったがとんでもない。 「来てくれて助かった」 来なかったとしても逃げることは出来ただろうが、それにかかっただろう無駄な労力と時間を思うと、本当にありがたい。 それにしても、 「よく分かったな」 「実は、有希からメールが来まして…」 「なるほど」 じゃあ有希にも礼を言わなきゃな。 とりあえず、 「ありがとな」 と一樹を見つめて告げると、一体何がどう奴を刺激したのか分からんが、いきなり抱き締められ、その勢いのままキスされた。 それでも歯をぶつけたりしないだけ、お互い慣れたもんだと思わないでもないが、 「往来で何しやがるんだこの馬鹿野郎!」 とぶん殴るのは当然だろう。 それから、噂が酷くなったのだから、間違いなくこの馬鹿あるいはもう一人の他所の馬鹿のせいに違いない。 尾ひれがついて多種多様になった噂の中には、俺がゲイだとか一樹と同棲しているだとかいう真実を伝えているものもあったが、中にはノーマルだった一樹をたらしこんだとか好みの男なら食っちまうだとか、そうでなければ古泉に付きまとわれてるとか別れ話の真っ最中だなんて無茶な噂もあるらしい。 いっそ聞いてくれば当たり障りのない程度で答えてやるってのに。 というか、噂になるのが遅すぎないか? 俺はもともと普通にカムアウトしてたんだし、だからゼミやなんかで一緒になった奴はよく知ってるはずだ。 それで無責任な噂が広がらなかったということは、そういう連中は口が固かったということか、それとも噂を広めるやつらが適当すぎるかだな。 ……両方か。 ともあれ、そんな訳だからゼミなんかの友人は心配もしてくれるし、男でも人目がないところならこそっと声をかけてくれたり、メールをくれたりもする。 しかし、俺くらい開き直ってなけりゃ、辛い状況だろうな。 世のゲイの方は大変だ。 まるきり他人事調で慨嘆するばかりの俺である。 噂がしたけりゃ好きにしてくれ。 どうせ75日も持たないんだろ。 構わないから勝手にやってくれ。 本当に俺としてはどう言われようとも構わないんだが、 「僕とあなたが不仲だなんて噂は許せません!」 とかなんとか主張する一樹にべたべた付きまとわれて鬱陶しいのだけはなんとかしてもらいたい。 「別に何を言われてもいいだろうが……」 「なんと言われようとも、これだけは譲れません。それでもし、あなたがフリーだなんて思い込んだ輩があなたに手を出そうとしたらどうするんですか!」 「心配しなくても、俺なんかを気に入るような奇特な人間はお前くらいだろ」 「何を言うんですか!」 と怒鳴るように強く言った一樹がそれから延々こっ恥かしい台詞を並べ立て、ありもしない俺の美点を並べ立てやがったのだが、そんなあほらしいもんをわざわざ拾い上げるような耳を持ち合わせてはいないので聞き流した。 それを分かっているんだろう、一樹は不機嫌な顔でそれを止め、 「とにかく、何を言われてもいいというなら、別にいいでしょう?」 「何がだ」 「嫌な噂をかき消すべく、あなたと過ごしたって」 「鬱陶しいって言ってんだろ」 「嘘ですね」 と一樹はいつになくきっぱりと言い切りやがった。 「なんだと?」 「鬱陶しいなんてのは嘘です。本当はそうじゃないんでしょう?」 にや、と唇を歪めた一樹は俺の耳に唇を寄せ、 「…側にいたらもっとしたくなるから、と正直に言ってくれたら、僕だって考えるのに」 「なっ…!」 絶句した俺に、一樹はくすくす愉快そうに笑う。 「違います?」 「違うっ、断じて違う!」 「そんな真っ赤な顔で言われても説得力がありませんよ?」 「怒ってるからだ!」 と言い張ったところで一樹が聞かないのはいつものことだ。 にこにこにやにやと緩みきった顔で一樹は俺の手を握り締め、肩を寄せてくる。 それを拒めない程度には俺も甘いらしい。 くそ、と小さく毒づきながら、一樹の指をきつく抓ってやった。 |