仲直りなら
  お題:古泉 お菓子 途方に暮れる



結婚して何年になるのか、数えるのが馬鹿らしくなるくらいには一緒にいる。
しかしながら、それでも亭主の馬鹿さ加減に腹が立つことはあるし、更にはそれを抑えきれずこちらが爆発しちまうことだってある。
で、その内10回に9回くらいは俺が切れた段階であいつがはいすいませんと頭を下げて事なきを得るのだが、10回に1回くらいはあいつが売られた喧嘩を言い値で買取り、ケンカに発展することとなる。
ちなみに、今回のケンカの理由は、和希が来なくていいと言った運動会に行きたがってごねたせいである。
俺としては極力理路整然と、
「高校生にもなったら嫌がったりもするだろ。というか、俺だって嫌だったぞ」
というようなことを言ってやったのだが、あいつは呆れるまでに感情的で、
「せっかくあの子が学校でどうしてるか見られる機会なんですよ? 僕は行きたいです」
と訴え、しかも、
「…あなたは参観日があれば様子を見に行けますし、家にいるだけあの子と過ごせる時間も多いからそんな風に言えるんでしょうけど、僕はこういうことでもなければ見に行けないんですよ?」
と怨みがましく言ったのが俺の逆鱗に触れた。
「…っ、そんなに和希が可愛けりゃ勝手にすりゃいいだろ! 俺は行かんからな! 勝手にして、和希に嫌われてろ! この馬鹿!!」
と怒鳴って、商売道具を抱え込み、寝室に籠城してやった。
こういう時のため、俺はノートパソコンを用意しているのかも知れないと思いつつ、怒りに任せてキーボードを叩いて過ごした。
なお、寝室には非常時のためという名目で非常食なんかも用意してあるので、数日の籠城に耐えられる計算になっている。
いざとなったら携帯で有希を呼べばいいだろう。
ケンカから数時間が経過したところで、控え目にドアをノックされた。
返事はしてやらん。
誰か分かっているからだ。
和希だったらもうちょっとはっきりノックをするからな。
「……出てきてくれませんか」
やなこった。
「そりゃ、僕だって言い方がまずかったとは思いますけど、でも、分かってくださいよ。…あっという間に大きくなる我が子の成長を見守りたくない親なんていないでしょう?」
んなもん、お前が忙しさにかまけて休みを一緒に過ごせなかったり、帰りが遅かったりするのが悪いんだろうが。
「……ねえ、返事くらいしてくださいよ」
泣きそうな情けない声で言うな馬鹿。
今はそんなもん、逆効果でしかないんだよ。
全く腹が立つ。
俺はすうっと息を吸い込むと、
「お前の声も聞きたくない。分かったら、とっととあっちに行け。この部屋にも近づくな。…いいな、古泉
とケンカをした時の常で、殊更に名字で呼び捨てにしてやると、生意気にも反論が返って来た。
「あなただってとっくに古泉じゃないですか」
やかましい。
古泉なんて呼ばれても返事なんてしてやると思うな。
ムカつきながら俺はパソコンを終了させ、ばたんと勢いよく閉じる。
そうして、不貞寝の構えでベッドにもぐりこんだら、古泉の匂いにむかついたので、枕を投げ飛ばしてやった。
次に部屋のドアがノックされたのは、翌朝になってからだった。
家事があるおかげで、フレキシブルな職業にも関わらず昼行性を保っている俺が目を覚ましたところで、コンコンとはっきりしたノックの音がした。
「お袋、また親父とやりあったのか?」
声変わりして以来、余計に古泉そっくりになった声だが、可愛い我が子の声なのでむかつくはずもない。
少しばかりの罪悪感と共に、
「悪いな。朝飯は好きにしてけ」
「んじゃあ、」
「言っとくが、ジャンクフードで済ませたりするなよ」
「…へーい」
そういういい加減なところまで親父に似なくていいだろうに。
呆れていると、和希は気を利かせたつもりか、
「親父、ソファで不貞寝中。目の辺りが濡れてた気がするけど見なかったことにしてやっといたから」
「邪魔だったら蹴り落としとけ」
「分かった。お袋からってことでよければ、タオルケットくらい掛けといてやるよ」
くっくっと楽しげに笑いながら和希が行っちまうと、他に大した音もなくなる。
非常袋から引っ張り出した乾パンをかりかりと前歯で削りながら、俺はため息を吐いた。
何やってんだか、と思いもする。
というか、本当にその通りだ。
一樹のあの言い回しは腹が立った。
俺を家に縛り付けたのはあいつのくせに、俺が好きで家にいるみたいに言われて、頭に来た。
だが、それだって俺が選んだことなんだし、和希との接触時間が違うのも事実だ。
何よりも、俺があんなに腹を立てた理由が、自分でも情けなかった。
……和希に嫉妬した、なんて、口が裂けても言えやしないが。
俺はのそのそと床を這って行くと、昨日投げ飛ばした枕の上に突っ伏した。
どこか甘ったるい、一樹の匂いがする。
昨日は鼻についたはずのそれが、今はどうにも薄く、遠く思えて、胸が締め付けられるように思えた。
結婚してからもう何年だ?
有希は、近くとはいえ他家に嫁いだ。
式のすぐ後に生まれた和希はもう高校生になってる。
それだけの年月を重ねてきた。
それでもまだ、――俺はこんなに一樹が好きなのに。
「……って、うわ! 今のなし! なしったらなし!!」
ひとりで暴れて、暴れついでに枕をばんばんと床に叩きつけた。
それから、枕を抱き締める。
「…早く謝りに来いよ、ばか……」
一樹が今すぐ謝りに来たら。
あの酷い言い回しを謝罪したら。
俺を好きだって言ったら。
そうしたら許してやろうって思ったってのに、こういう時に限ってあの間の悪い男はやって来ない。
おかげで苛立ちが再燃してくる。
むかむかしながら仕事をしていると、文章もどこかささくれ立って来る。
後でなんとか怒りが収まってから手を入れなきゃならんな。
…そう思うと余計に腹が立ってくる。
一樹の馬鹿野郎。
そうする内に、一樹の車が出て行く音がした。
出勤してったってことだろう。
俺は寝室から恐る恐る寝室から出た。
足を踏み入れたリビングには、俺と一樹のケンカの痕跡などはなく、ただ少し皺の寄ったソファカバーと、くしゅくしゅになって放り出されているタオルケットくらいが、一樹が拗ねて寝てたらしいとうかがわせてくれた。
ソファカバーを直し、タオルケットをたたんで膝に乗せる。
腹は空いているのだが、食べる気にはならなかった。
ため息を吐いても、虚しく消えるだけだ。
俺は一樹の匂いの残るタオルケットをぎゅっと抱き締めて、ソファに横たわった。
どうしようか。
いっそのこと逃げてやろうか。
逃げて、そうして、一樹が追いかけて来てくれたら、許してやってもいいかもしれない。
…だが、追いかけて来なかったら?
一体どこまで逃げたらいいんだろうか。
実家までじゃ近すぎる。
かと言って、誰も知り合いがいないような遠方じゃ、見つけてもらえる気もしない。
ハルヒは最近何をしているんだったか、なんてことを思ったところで、車の音がした。
「……え」
ぽかんとしている間に、慌ただしい足音が聞こえ、一樹が顔を見せた。
そうして、本当に綺麗に笑ったのだ。
思わず見惚れて、逃げ出すのも忘れるほど、柔らかくて綺麗な笑顔だった。
「よかった」
心底ほっとした声で、一樹は呟いた。
「もしかして、と思ったんですけど、間に合ってよかったです」
「な……」
いかんいかん、うっかり顔を合わせちまった以上、せめてだんまりを決め込むくらいのことはしてやりたい。
慌てて口をつぐみ、そっぽを向いた俺に、一樹は微笑みながら近づいてくる。
そうして、逃げられない俺のすぐ側に腰を下ろして、俺の目を覗きこもうとするように身を乗り出してきた。
近いっつの。
「今日は、会社をお休みしちゃいました」
突然のことに、俺は驚いて一樹を見た。
休んだってお前……。
「あなたとケンカしたままじゃ、仕事になるとも思えませんし、何より、あなたがどこかへ行ってしまわないか、心配だったんです」
…とか言いながら、今までどこかに行ってたくせに。
「今の間も、不安だったんですよ。可能な限りに急いで、なんとか間に合って本当にほっとしました」
そう言って、古泉は俺に向けて、小さな包みを差し出した。
俺でも知ってる、有名なお菓子屋の包みだ。
「機嫌、直してくれません?」
……最悪だな。
まともに謝りもせず、お菓子なんかで機嫌を取ろうってのか。
むかついてくるのを感じながら、俺はそれを受け取り、びりびりと包装紙を破いて床に捨てた。
古泉はばら撒かれた紙くずをちまちまと拾いながら俺の様子を見ている。
だから俺は、可愛い丸い紙箱に入った四つばかりで四桁もするチョコレートを睨み、口の中に放り込んでやる。
ばりばりと噛み砕くと、口の中に苦味と一緒に甘味が広がる。
酒の風味が鼻に抜け、ほんの少しだけ喉が熱い。
それでも、小さなチョコレートでは俺を酔わせるには足りず、ついでに言うと誠意を示すにも足りやしない。
と言うわけで俺は箱を遠慮なく床に叩き付け、そればかりかしっかり踏みつけて、リビングを離れようとしたのだが、うっかり見ちまった。
もしこいつが犬ならば耳と尻尾を垂らしてたんじゃないかというくらいしょげ返り、途方に暮れる一樹を。
「…そんなに、嫌でした? 僕はただ、あなたと和希と、それから出来れば有希たちも一緒に、みんなで運動会に行って、楽しく過ごしたかったんです。そういう口実でもなければ、あなたは会社を休むことなんて許してくれないし、有希を呼ぶのも遠慮するから、だからって、思ったのに……」
情けないことをぶつぶつ言うのを聞きながら、ほだされそうになるのをぐっと堪える。
「それに、この、チョコレートも。…あなたが食べたがってたからって、思ったんです。なのに、そんなに、気に食わなかったんですか……?」
は? 俺が食べたがってた?
いつのどんな時の話だそれは。
……そう言われてみれば、以前テレビを見ながら、あのチョコレートを食べたがったような気がする。
その時も一樹は、
「今度買ってきましょうか」
なんて軽々しく言うから、俺は呆れて、
「あんな高いもん、なんでもない時に食えるか」
と一蹴したんだった。
そんな話をしたのは、ええと、いつ頃だ?
随分前だぞ。
テレビでチョコレートがどうのってやってたってことはもしかして、2月の話じゃないのか?
ちなみに今は運動会シーズン真っ只中の10月初旬である。
半年以上も前の話を覚えていて、それで、俺のために買ってきてくれたってのか?
……本当に、こいつ、馬鹿だ。
「…あのな、」
それがドスのきいた声だったことは間違いないってのに、俺が口をきいたというだけで、一樹は嬉しそうに顔を輝かせた。
思わず姿勢を正し、床に正座したのは、条件反射ってやつなんだろうか。
俺は居心地の悪さを感じながら、
「そもそも俺は、こういう高い菓子は好きじゃないんだ。覚えとけ、この馬鹿亭主」
ぱかん、と軽い音がする程度に一樹の頭を叩いてやると、一樹は期待とも不安ともつかないものをその顔に過ぎらせる。
「同じだけ金を出すなら、こんなちっぽけであっという間に終っちまう菓子よりも、多少チープでもまともな料理を食べた方がいいと思わんか?」
「それは、ええ、その通りかと……」
「だろ。あれくらいじゃ腹の足しにもならんしな」
だから、と俺は笑ってやる。
「どこかで安い弁当でも買って、外で食べないか? それから、あちこち見てまわって、和希や有希たちを連れて行くのにいいような場所を探して、今度の休みに出かける予定を立てる、と」
「……え…」
嬉しそうに一樹は俺を見つめる。
もう、言わなくても分かってるんだろう。
たったあれだけのことで許してやるなんて、俺は本当にこいつに甘い。
本当は、弁当も要らない。
出かける約束も要らない。
ただ、こいつがぼそりと小さく呟いてくれた、「あなたと一緒に過ごしたいだけなのに」という一言があれば十分なのだ。
だが、こいつの方は十分じゃなかったらしい。
立ち上がって俺を怖々抱き締めたかと思うと、噛み付かれないかと怯えるみたいにしながら、それでも俺にキスを寄越す。
そうして、
「愛してます。…大好きです。あなたが、いてくれないと、僕は……」
「分かってるから泣くなよ。男前が台無しだぞ。というか、いい年してそんな簡単に泣いていいのか?」
「だっ、誰が泣かせたんですかぁ…!」
…もっとも、泣いてる顔だって好きなわけだが。
「お前はもうちょっと自信を持てよ。…お前が思ってるのよりもずっと、俺はお前が好きなんだからな」
と俺から優しくキスしてやると、そのままソファに押し倒された。