いちゃつきたい



大学にちゃんと学生として通い始めてから半年余り。
今では和希をお袋に預けて講義を受けるのにも慣れ、学内で一樹や有希と一緒に弁当を食ったり、履修の相談に乗ってもらったりして過ごすのも楽しいと感じている。
それでも俺はまだ一年で教養課程にかかりきりでいるのだが、一樹と有希は逆に、専門課程に本格的に入り始めた頃からめきめきと頭角を顕し始めたらしく、今ではちょっとした有名人だ。
妻――自分で言うのは恥かしいな――としても、母親としても誇らしい限りではあるのだが、おかげで二人と一緒にいると俺まで優秀な何かじゃないかと見られちまうのは困りもんだな。
それでも俺が二人を突き放せるはずなどなく、目下のところ、ひとりで台風を巻き起こしているハルヒとは別に、ちょっとした騒ぎの原因となったりしているわけだ。
そんな、秋のある日のことだった。
「僕、次の時間が休講になったんです」
と言って一樹が擦り寄ってきたのは。
「そうか。だったら帰って和希の面倒を見てくれ」
「その後はまた講義があるんです。行って帰って、というのは非効率的だと思いませんか?」
「…お前は何が言いたい」
「あなたの講義についていこうかと思いまして」
「はぁ?」
俺が次に受けるのは中国思想とかそっち系だぞ。
力いっぱい文系だ。
それに対してお前は理系のホープだろうが。
何考えてんだ。
「思想を学ぶのに理系も文系もないと思いますけどね。それに、哲学や思想も好きですよ」
ああそうかい。
万能な優等生は文系にしかいけなかった俺とは違うってことか?
というか、本当は講義内容なんてどうでもいいくせによく言うぜ。
「ばれましたか」
「ばればれだ。……一緒にいたいだけなんだろ」
「はい」
そこで花でも飛びそうな満面の笑みを見せるのもどうかと思うが、それに負ける俺も俺だ。
「……邪魔すんなよ」
ため息と共に吐き出せば、
「邪魔なんてしませんよ」
心外そうに言われたが、信用ならん。
俺は一樹を連れて教室に入り、やや後ろの方の席に陣取った。
6席ほどで一連なりをなす席だから、すぐ隣りに座ると膝が触れるほど近い。
堂々とルーズリーフまで広げている一樹に若干呆れながら、俺もプリント類を引っ張り出す。
「今はどの辺りを?」
「まだ最初の方だからな。孔子の生涯とか、その辺」
「ああ、なるほど」
俺のいい加減な質問で相槌を打てる程度には、一樹はやはり詳しいらしい。
回って来た出席カードにふてぶてしく所属学部も名前も記した一樹が、それっぽく真面目に講義を聞いていたのは最初の10分程の間だけだった。
俺の右の太腿に、一樹の手が触れた。
眉を寄せて睨みつけると、ハンサムスマイルを返された。
「お前な…」
小声で唸ると、一樹は広げていたルーズリーフに、
『少しくらい、いいでしょう? あなたと一緒に授業を受けるなんて、これが初めてなんですし』
『誰がそんなことを言ってるんだ。その手を止めろ』
右手で殴り書きしながら左手で抓ってやると、その手を握り締められた。
『せっかくですから、少しくらい、と思いまして』
『アホ!』
そう書いてやりながらも、手を振り解けない辺り、俺も本当にこいつに甘い。
『手を繋ぐだけでいいですから』
俺が黙って睨みつけていると、一樹は更に続けた。
『お願いします』
仕方ない。
俺はため息を吐き、
『変なことはするなよ』
『変なことって何ですか?』
『公序良俗に反したり、公衆の面前でするに相応しくないことだ』
『具体的に伺いたいですね』
『呆け』
ぎゅっと手をつねってやっても、一樹には堪えなかったらしい。
へらりと笑っていた。
…諦めよう。
俺は左手を人質にとられたまま、前を向き、講義に集中することにした。
長時間熱心に聞いていられるほど面白い内容でもないのだが、聞いてないと分からなくなる。
今も配られたプリントを睨みながら聞いているのだが、集中しきれないせいでいまいち頭がついていかない。
印字された漢文を指差しながら、
『これ、どういう意味だ?』
と聞くと、一樹は説明を始めてくれたのだが、それが無駄に長い。
だらだらと書き連ねるんじゃない。
読む気が失せる。
その読む気が失せるような説明を、いつも口頭でされてきたわけか、俺は。
改めて自分の忍耐力を褒め称えたい。
実際には、最後まで聞かずに途中で放棄したことも少なくはないのだが。
『なんとなく分かったからもういい』
と打ち切らせると、一樹は残念そうにペンを引いた。
どうしても分からなかったら帰ってから、一樹に講義をさせてやろう。
その方が多分一樹も喜ぶだろうしな。
そうしてまたしばらくは大人しく講義を受けていたのだが、やっぱり退屈なんだろうな。
またもや、もぞりと一樹の手が動き始めた。
横目に睨みつけてやったのだが効きやしねえ。
ばかりか、ルーズリーフに小汚い字を書き連ねやがった。
『そんな風に見つめられてると照れますね』
『呆け』
と今度は大きく朱書きしてやった。
その間にも一樹の手は俺の左手をやんわりと握りこんでみたり、指先をまさぐってみたりと落ち着きがないことこの上ない。
というか、何か覚えがあるぞ、この動きは。
それが何に似ているのか気がついた俺は顔から火を噴出さないのが不思議なくらい真っ赤になり、一樹の手を振り解いた。
一樹はそれでも不機嫌になどならず、にやりと笑っている。
ということは、俺の勘は間違ってなどいなかったらしい。
どうしてくれようか、と睨む俺の膝に一樹が指を乗せる。
すぐに振り落とそうとした俺を笑顔で制して、一樹がそっと指を動かした。
文字を書くつもりらしい。
一体何をする気だ?
訝しんでいると、ジーンズのがさついた生地の上に、簡潔な一言を書かれた。
『好きです』
と。
「…っ」
怒鳴ってやりたくなるのをぐっと堪え、ルーズリーフに書き殴る。
『お前は本当に何がやりたいんだ馬鹿』
『だめですか?』
『だめも何もあるか。なんでそんな浮かれた頭になってるんだお前は』
頭の中に花畑でも展開してるんじゃなかろうか。
『隠れてとはいえ、こうして周辺に人の目があるような状況であなたと堂々といちゃつけるというのが嬉しいものですから、つい』
あほか。
『そんなもん、今更だろうが。人前で抱きしめてきたりするくせに』
『確かに、そんなこともありましたね』
と古泉はちらりと俺の顔を見て、苦笑した。
『でも、和希や有希が一緒だったでしょう? あなたと二人きりで、というのは初めてじゃありませんか』
さて、そうだったかね。
『そんなもん、どうでもいいだろ』
『どうでもいいですか』
残念そうに書いた一樹に、後でこのルーズリーフを焼却処分することを決意しながら、小さい字で書き加えてやる。
『どこでいちゃつこうがどこでそう出来まいが、今更関係ないと思うのは俺だけか?』
くそ、顔が熱くなる。
一樹はまじまじと俺の書いた文字を見つめた後、嬉しそうに顔を輝かせ、
『愛してます』
と書いた。
落書きだらけのルーズリーフを取り上げてやろうと俺が手を伸ばすより早く、一樹がそれを取り上げ、悠々と折りたたんでポケットに仕舞いやがった。
「大事にしますね」
なんて囁き声と共に。
くそ、不覚だ。
後で何とかして取り上げてやらねば。
そんなことをやっているうちに講義は終了し、俺には何がなんだか分からない状態のノートとプリントが残された。
…まあ、メジャーな部分だし、一樹に聞けば分かるだろうから諦めよう。
そうして立ち上がったところで、
「キョンくん」
と声をかけられた。
振り向くと、同じセミナーの女生徒が二、三人、興味津々といった様子を隠しもせずに俺と一樹を見比べていた。
あと、俺が未だにこの間の抜けたあだ名で呼ばれていることについては何も言ってくれるな。
もはや本名で呼ぶのは家族限定になっちまったのであだ名呼びを認めるほかないんだ。
「キョンくんのお友達?」
ほんのり頬を染めているところ悪いが、俺は正直に答える。
「旦那」
「え!? …あ、じゃあ、噂の…」
彼女らと同じくらい驚いた顔で一樹が俺を見ている。
これはちょっと気分がいいな。
いつも余裕ぶってる一樹が素直に驚いてるんだから。
俺はにやりと笑って、
「ああ、俺の旦那で、俺の息子の親父」
と言って一樹の背中を叩いてやった。
それで我に返った一樹は、まだ戸惑いながら、
「初めまして、古泉一樹です。彼がいつもお世話になっているようですね」
と如才なく言った。
彼女らも一応挨拶をしたところで、
「それじゃ、これで。俺は帰って息子の面倒見なきゃならんし、一樹は講義があるんでな」
とその場を離れた。
若干慌ただしくはあったかもしれないが、いいだろう。
階段を下りながら、一樹が小声で言う。
「よかったんですか?」
「何が」
「あんな風にオープンにしてよかったのかと、思ったんですが…」
「問題でもあるのか?」
けろりとした顔で俺が言ったにもかかわらず、一樹は渋い顔だ。
「あなたにマイナスは…」
「大丈夫だって。ホモだからって単位をもらえないとでも思うのか? それに、セミナーの奴等には特に、俺が男と一緒に暮らしてることも、子供がいるってことも話してあるからな」
「……あなたって人は…」
そう言って一樹は苦笑した。
「…世間体を気にするタイプかと思ったら、時々物凄く大胆なことをしてくださいますね」
「世間体なんて気にしてたら、ハルヒとつるんで何かやったりなんてことが出来るわけないだろう」
そんなもん、高校卒業までにどこかで捨ててきたに決まってる。
「だったら、」
と、一樹は俺の手を握り締めた。
「これくらい、いいですよね?」
「……勝手にしろ。というか、お前、自分の講義に行かなくていいのか?」
「すみません、本当はこの次も休講なんです」
「…はぁ!?」
だったらなんで和希の面倒を見に帰ってやらなかったんだ。
「…あなたと一緒に講義を受けてみたかったんですよ」
悪戯っぽく笑って見せたって効くと思うな。
俺は一樹を思いっきり睨みつけてやると、
「帰ったら和希に謝ること。それから、――これから一週間、お預け」
と宣言してやった。