夜の10時を過ぎた時計を睨みながら、俺は小さくため息を吐いた。 元から、今日は学会の打ち上げで遅くなると言われていたから仕方のないことではあるのだが、それでも、和希も有希も寝ちまったのに、あいつが帰って来ないのは不安な気持ちにさせられる。 もしもあいつに何かあったら、と思ってしまうからだ。 ただ呑んだくれてるとかならいい。 酔っ払った状態で、閉鎖空間が発生し、呼び出されたとか、単純に――という言葉をつけるのも何かおかしいが――事故に遭ったとか、そういうことになったらと思うと怖くなるのだ。 有希もいるし、和希もいる。 だが、それでもやっぱり、あいつを失ったらと思うと怖くてならない。 いつか見た悪夢は、どうしようもなく俺の心にこびりついて落ちない。 余計なことを考えてしまうくらいなら、俺もさっさと寝た方がいいのかもな。 そう思いながらも、風呂に入ることさえ出来ないでいると、不意に俺の携帯がなった。 一樹か? と期待しながらサブウィンドウを見たものの、そこに表示された名前は、一樹のものではなく、一樹と同じゼミに所属している女の子の名前だった。 一樹がゼミに入り、ついでに俺が嫁だと暴露してくれて以来、時々メールなんかをしている俺の友人だが、こんな時間帯に、それも電話をしてくるというのは珍しい。 まさか一樹に何かあったんじゃないだろうな? 訝りながら電話を取った。 「もしもし、」 『あー、キョンさんまだ起きてたー! よかったぁ!』 っておい、完璧に出来上がった声じゃないか! こんな遅くまで女の子が飲んでるんじゃありません!! 『あんもう、キョンさんったら固いなぁ。流石、お母さんですねー』 「一体何なんだ? 用件は?」 長々と話したところで無駄だと判断した俺はそう単刀直入に言った。 『えっとですねぇ、今打ち上げの真っ最中なんですよぉ。それでぇ、キョンさんも来ませんかぁ?』 「は? 俺が?」 何でだよ。 俺は別に関係者じゃないだろ。 『教授が、修羅場中ちょこちょこ差し入れしてもらったんだから、今回の学会の成功はキョンさんの功績だって言い出したんですー。それで、奥さんも呼べって言い出しちゃって…』 そう言った彼女の声の向こうから、 『ちょっと待ってください。なんであなたがうちの奥さんの番号知ってるんですか』 と聞き間違いようのない声がした。 それも、かなり苛立った声だ。 女の子相手に、それも外でそんな声を出すなんて珍しい。 一樹もかなり出来上がってるな。 それじゃ、放っておく方がよっぽど心配だ。 まかり間違って、一樹が彼女に危害を加えるとまずいしな。 俺はため息を吐きながら、 「すぐに行くから場所を教えてくれ」 と言った。 教えられた場所は大学からすぐ近くの店で、俺にも簡単に分かった。 よくある広めの居酒屋だ。 安くて早いのが取柄で、味は二の次、みたいな大学生御用達の店だな。 そこの広い座敷席を借り切って、奴等は飲んでいた。 妙に人数が多いし、知らない顔が多いと思ったら、どうやら学会にきていた他大学の人間も混ざっているようだ。 もう三次会くらいの酔い方だな。 そんなことを思いながらざっと目を走らせていると、一樹が隅の方で女の子たちに囲まれているのが見えた。 「ねーぇー、古泉さぁん、奥さんってまだなんですかぁ?」 なんて声が聞こえる。 なるほど、そういうことか。 あっはっはっはっは。 ……後でぶん殴る。 そう決めながら、俺は古泉に気付かれないようこっそりと、電話をくれた彼女の隣りに腰を下ろした。 「キョンさん早かったですねー」 「まあな」 電車がタイミングよく来てくれたから助かった。 しかし、一樹のあの状態は本気でイラつくな。 自分に非はないとあいつは言うのだろうが、あんな風に囲まれて、本気で文句を言ったりしないのだからそれだけでアウトだ、アウト。 「まあ、駆けつけ一杯ってことで」 と注がれたビールをぐっと飲み干したところで、別のゼミ生に、 「お母さーん、教授が呼んでますよー」 と呼ばれた。 誰がお母さんだ、とお約束のように噛み付いてから、俺は一応の上座に座っていた教授の方へと向かった。 「こんばんは、お久しぶりです。一樹がいつもお世話になっております」 そう軽く頭を下げたところで、教授と呼ばれるにはまだ若い教授はむさくるしい無精ひげだらけの顔に愛嬌のある笑みを浮かべて、 「いや、こっちこそ呼びつけたりしてすいません」 と逆に頭を下げられちまった。 俺としてはどうすりゃいいのか分からん。 困ったまま顔を上げられずにいると、 「本当に奥さんにはお世話になりました。何度も差し入れを持ってきてもらったそうで…」 「ああいや、一樹に着替えなんかを持ってくるついでですから」 「ついででも、してくれたことに違いはないですから。ありがとうございました」 そう頭を下げられても本当に困る。 何せ、この人は学会の野生児だのなんだの言われるくらい好き勝手やってる人で、滅多に研究室にいないし、それどころか先達の学者にも頭を下げないといわれる人なのだ。 そんな人が俺に頭を下げている、というだけで酔っ払った連中も驚いて俺を見ている。 ああ、居心地が悪い。 ――と思ったところで、 「来たなら、真っ先に声を掛けてくださいよ」 という声と共に背中に伸し掛かられた。 「…重いぞ。あと、邪魔するのも悪いかと思ったんだよ」 「皮肉はやめてください。…僕だって困ってたんですから」 ああそうかい。 それなら困ってる顔をしやがれ。 さっきの顔はとてもそうは見えなかったぞ。 小声で毒づいたのは、流石に辺りに聞かせるのもまずいと思ったからだ。 教授にはばっちり聞かれただろうがな。 しかし、この人が偏見の欠片もないことくらいはもうずっと以前から知っている。 「古泉、こんなよく出来た奥さん、大事にしないとバチが当たるぞ」 自分こそよっぽど家庭を顧みない教授にそう言われ、流石の一樹も苦笑しながら、 「ええ、そうですね」 と同意を示した。 それから教授は俺の顔を上げさせた上で俺の背中をばんと叩き、 「お前等も、嫁さんにもらうならこういう人にしろよ」 と満場に向かって言ってくれたのだった。 言われた側の反応はまちまちだった。 目を白黒させている女学生は他大学の生徒だろうか。 教授のゼミ生はすっかり慣れているから、 「はーい、分かりましたぁー」 とか、 「教授ー、キョンさんみたいないい奥さんでいいお母さんなんて、ほかにいるんですかー?」 とか、好き勝手言っている。 教授はとりあえずそれで満足したのか、ほっこり笑うと俺にグラスを持たせ、 「せっかく来たんだから飲みなさい。奥さんの分は私が奢るから」 「はぁ、すみません」 機嫌よく注いでくれた酒を飲まないのも悪いだろうと俺は大人しく酒を飲むことにした。 教授は一樹にも酒を注いでやりつつ、 「お前の分は自分で払えよ」 「ええ、分かってます。それから、奥さんの分も当然僕が払います」 「それは俺が払う」 「結構です。そうされる理由がありません」 「理由ならあるだろうが。散々世話になったんだからな」 「奥さんは僕の世話に来ていたのであって他のゼミ生はついでです」 「それでも実際には世話になっただろうが」 「いいんです」 「じゃあ、お前の分も奢ってやるよ」 「必要ありません」 ……なあ一樹、お前もしかして結構酔ってないか…? それこそ、被っている猫が剥がれ落ちるくらいに。 唖然としていた俺に、俺を呼んでくれた女の子がこっそりと近づいてきて、 「古泉さんと教授は二人で盛り上がってるみたいですからこっちで飲みませんかぁ? 私達もキョンさんにお礼したかったんで」 「…まあ、いいが……酔い潰れないでくれよ?」 「はぁい」 なんて返事も可愛らしく言われては断れるはずもなく、俺は教授のゼミ生を中心とした輪の中に取り込まれた。 「本当にお世話になりました!」 と拝むように頭を下げられ、 「いや、別に大したことは…」 「なに言ってるんですか!」 と怒ったように言ったのは、今年で卒業のはずの奴だ。 「こんな風に面倒見てくれる人なんてこれまでいませんでしたよ。教授の場合は奥さんも諦めて放り出してるくらいですし、既婚者なんて滅多にいないからでもありましたけど、それでも、奥さんくらい嫌な顔をしないで来てくれる人なんていないと思います」 「…そう、か? まあ、ありがとな」 褒められるのは気恥ずかしくて、笑いながらそう言ったところで、 「俺もいつか嫁さんもらうなら奥さんみたいな人がいいなぁ…!」 と本気で言われちまった。 …相手は極力女にしとけよ。 男同士ってのも面倒だからな。 「あたしはキョンさんみたいなお嫁さんにはなれないなぁ。むしろキョンさんをお嫁に欲しい!」 「おいおい…」 可愛い子が勿体無いことを言うんじゃない。 「お前なら、いい奥さんになれるんじゃないか? 手際はいいし、きちんとしてるし。それに、俺みたいってのがいいかどうかは知らんぞ」 「そうかなぁ? ……んー、でもやっぱり古泉さんは羨ましいなって思いますよぅ!」 そうかい。 「そりゃ、ありがとよ」 そう言いながらビールのグラスを空にした俺は、 「まあ悪いが、俺は一樹の奥さんだからな。諦めてくれ」 「えー。…もし古泉さんが早死にとかしてもだめですかぁ?」 こらこら、縁起でもないことを言うんじゃない。 絶対ないとは言い切れないくらいには危険なことをしてるんだからな、あいつは。 「だめだな」 俺は笑って言った。 「早死にじゃなくて、天寿を全うして、80とか90で一樹が死んでもだめだろうな。俺は絶対に一樹を忘れられないだろうし、一樹以外を愛せるとは思わないから」 「わー…、言いますねぇ」 「それくらい愛してるからな」 ふふ、と笑って言ってやったところで、ひょいとグラスを奪い取られた。 振り仰げば赤い顔をした一樹が、 「飲みすぎですよ」 「まだ少ししか飲んでないぞ?」 「どこがですか。…そんな風に惚気ておいて素面だなんて言い張れる人ですか、あなたは」 まあな。 しかし、そう分かるってことはまだ平気だと思うんだが。 「だめです」 「……けち」 膨れながら言うと、 「ほら、帰りますよ。大体あなた、僕を迎えに来てくださったんじゃなかったんですか?」 「俺は飲みに来ただけで、別にお前を迎えに来たんじゃないぞ」 「それでも、もう帰りましょう。あんまりお酒は強くないんですから」 「まだ全然飲み足りないし、話し足りん」 どうしてもって言うならお前だけで帰れ。 「あなたひとりで放っておけるわけないでしょう」 「じゃあ待ってろ。俺はまだ飲むんだ」 そう言ったところで、いきなり女の子に抱きしめられた。 「キョンさんったら可愛いっ!」 「俺は別に可愛くないぞ」 というか、女の子が軽々しく男を抱きしめるんじゃありません。 親が泣くぞ。 有希がこんなことをしたら、俺は簡単に泣くからな。 「そうそう、その有希さんのことも聞きたかったんですよ! キョンさん、今日は朝まで飲みまくって語りまくりましょーねー!」 「おー」 へらりと笑いながら同意したところで、 「そんなこと許すわけないでしょうが!」 と怒った一樹にかっさらわれ、俺たちの目論みは潰えたのであった。 |