嬉しさと寂しさ



男である俺が子供を産むなんてのは、それが切開手術によるものであったにしても、他に例のないような出産だったから、俺も和希もあれやこれやと検査された挙句、やっとのことで退院を許された。
そうして、自分たちの家に帰るのかと思ったらそうはならず、俺は自分の実家に帰った。
理由は簡単だ。
自分達に子育ての経験がない以上、経験者に助けを乞うのが普通だからな。
一樹と暮らし始める前、俺が妊娠していると言うことにあれだけ驚いていた両親だが、やはり孫が生まれるというのは嬉しいことであったようで、和希が生まれる前、俺が入院した頃から見舞いに来てくれていた。
和希が生まれてからは当然、可愛くて仕方がないらしい。
この調子じゃ甘やかされすぎて困ったことになりそうだと警戒心を抱きながらも、明るく迎えられて嬉しくないはずもなく、俺は苦笑しながら久し振りに実家に入った。
使う部屋は、俺が使っていたその部屋だ。
まだ出て行って数ヶ月しか経っていないから、物置にされたりすることもなかったらしい。
何にせよ、久し振りの我が家というものはなかなかいいものだった。
妹ははしゃぎながら、おっかなびっくり和希を抱き上げてみたりしている。
「キョンくんっ、かずくん可愛いね」
嬉しそうに言われれば、悪い気はしない。
俺は、
「落としたりするなよ」
と言いながらも特に心配はせず、妹と和希を眺めていた。
俺と一緒にソファに座っている一樹は、心配なのか、二人から目を離せずにいる。
「そこまで心配すんなって」
「え、ええ、大丈夫だとは思うのですが……」
それでも心配らしい。
元々心配性だとは思っていたが、和希に関しては特にそれが強まってないか?
「すみません。…新生児なんてあまり近くで見たこともなかったくらいなので、あんなに頼りないのに大丈夫なのかと思ってしまうんですよ」
なるほど。
俺も妹も、イトコなんかのおかげで赤ん坊に慣れているからそうは思わないのだが、そう思う気持ちは分からないでもない。
有希は有希でじっと和希を見つめている。
心配で、というよりもむしろ、和希自体が興味深いと感じているような目だ。
「本当に、和希は一樹くんに似て綺麗な顔だちでよかったわね」
と言いながらお袋が俺たちの前に紅茶を出し、自分も座った。
「そんなことは…」
と苦笑する一樹に俺は、
「俺もそう思う。お前そっくりだから、将来外見で苦労することはなさそうだな」
あるいは、そのせいで逆に苦労するかも知れんが。
「皮肉のつもりですか? あまりいじめないでくださいよ」
「別に? 褒めてやってるだけだろ」
それより、と俺は一樹と有希を見つめて言った。
「本当に、お前等だけで大丈夫か?」
というのは、俺はしばらくここで暮らすが、一樹と有希はちゃんと家に帰ると言ったからだ。
確かに、うちは狭いから三人とも――いや、和希もいるから四人か――揃って転がり込むと不自由も多いだろうが、それ以上に、有希と一樹だけにするというのがいささか心配だった。
家事については有希が何とかしてくれるだろうし、一樹だっていくらかは手伝うこともするだろう。
二人の関係だって、いたって良好で、俺が一樹と有希の両方に少しばかり妬いてしまうくらいなのだから、二人にしても問題はないのかも知れない。
それでも心配なのは、二人とも、若干コミュニケーション下手だからだ。
有希はあの通りだし、一樹の方も何のかの言って自分から主張することは少ない。
その二人で放っておくと、うまくコミュニケーションが取れず、何らかの問題が発生してしまうんじゃないだろうか、と思ってしまうのだ。
自分の存在を過信しているわけじゃない。
俺がいてもいなくても、そう大きく変わったりしないとは思う。
それでも、言葉にしがたい不安があったのだ。
俺のその不安を拭うように、一樹は穏やかに微笑むと、
「大丈夫ですよ。心配は要りません」
と断言した。
有希も、和希から目を離し、俺に視線を向けると、
「心配ない。私もお父さんも必要最低限のことは出来る」
最低限じゃまずいんじゃないのか。
「あなたがいない以上、あまり高い水準は保てませんから、最低限でも十分ですよ」
しれっとして言った一樹の額を軽く叩いてやると、お袋に笑われた。

それから一樹と有希は夕食を食べた後、早々に帰って行ったのだが、残された俺が感傷に浸る暇などなかった。
何しろ、生まれたての赤ん坊というのは実に面倒な代物で、何か不平不満があったら訴える術は泣くしかない以上、寝てる時と飲む時以外は泣いてるようなもんだ。
おかげで俺はへとへとにくたびれて数日を過ごした。
「お前、そんなに泣く奴だったか…?」
恨みがましい視線を向けたところで、俺の胸に吸い付いて乳を一生懸命飲んでいる和希が返事をするわけでもない。
病院にいて、一樹と有希のどちらかが必ず側にいた時にはこんな風に泣かなかったくせに、どうしてあいつらがいなくなった途端にこうなんだ。
お前の母親に対する愛情は父親及び姉に対するそれを下回るということか。
それとも、病院の方がよかったとでも言いたいのか?
あるいは、もしかすると、有希が一緒の時は何か宇宙人的能力でもってこの乳飲み子に働きかけでもしてたんだろうか。
いや、そんな風に日常生活で、なんでもない時にそんな能力を使うことを俺や一樹が嫌っていることくらい、有希もよく分かっているはずだからそれは多分ないんだろう。
それにしても、ここしばらくはどうしてこんなにも夜泣きするんだ。
昼間はまだいい。
お袋も親父もおまけに妹まで一緒になって和希に構うからな。
少々泣こうが俺は安心して寝ていられる。
安心して、と言うには眠りが浅いものにしかならないのは、俺も母親だということだろうが、それでも全く眠れないよりはマシだ。
だから、昼間はいいのだが、夜、こうして妹が起きちまうんじゃないかと心配になるほどわんわん泣かれると、こっちが参っちまいそうだ。
赤ん坊の泣き声と言うものは本能的に酷く精神に作用するようで、こっちまで情緒不安定になりそうだ。
おまけに、赤ん坊が泣き続けるのが隣近所に響き渡ると恐ろしく世間体も悪い。
そもそも誰の子供だって噂になってるらしいしな。
聞かれたらストレートに俺の産んだ子供だと返してやるのだが、流石に直截に聞いてくる人はないし。
それにしても、
「…お前も恋しいのか?」
乳を飲みながらでさえぐずつく和希を見つめながら、ため息混じりにそう言えば、こっちの方が泣きたくなってきた。
いっそ一緒に泣いてやろうか。
そうしたら一樹が飛んでくるかもしれん。
そんな風に戯けたことを思うくらいには、俺も一樹が恋しいらしい。
「……散歩でも行くか?」
乳を飲み終え、げっぷをしてもまだふにゃふにゃと弱い泣き声を上げ続ける和希を抱いて、俺はそっと家を出た。
近所をぐるっと歩いて帰ってくる頃には眠ってくれるといいのだが、それでだめならもう一周して、それでもだめならいっそ一度家に帰ってやろう。
俺の実家ではなく、俺の帰るべき家に。
こんな夜中に外を出歩く人間などそうそういやしない。
いたら通報の準備が必要かもしれないだろうというくらい遅い時間帯だからな。
和希の夜泣き癖を一体どうしたものかと考えながら角を曲がったところで、人にぶつかりかけた。
というか、
「……一樹?」
暗かろうがなんだろうが見紛うはずなどない。
ふわりと匂った香りにも、覚えがある。
「あ…」
困った、と言うように絶句した一樹に俺は眉を寄せた。
一体なんでこんな所にいるんだ?
それも、こんな夜中に。
大学はまだ忙しくないのかもしれないがそれでも暇なわけじゃないだろう。
こんなところをほっつき歩いていていいのか?
そんな風に問い詰めてやりたい気持ちと、全く逆の気持ちが俺の中でせめぎ合う。
今すぐ一樹に抱きつきたい。
会えて嬉しいと素直に言ってやりたい。
和希が泣いて困るとか、そんな話をしたい。
いや、どんな話だっていい。
一樹と話したい。
一樹の声が聞きたい。
電話越しじゃなくて、ちゃんと生の声を聞きたい。
抱きしめて欲しい。
キスしたい。
して欲しい。
何をどう言ったらいいのかさえ分からなくなった俺を見つめながら、一樹が口を開いた。
「すみません……。その、こんな夜中にお邪魔したかったわけじゃなくて、ですね、その……ええと…」
いつだって饒舌で、余計なことまですらすらと並べ立てるはずなのに、一樹はらしくもなくどもっていた。
何かやましいことでもあるのか?
いや、やましいのは多分、こんな風にこんな時間こんな場所をほっつき歩いていたことだろう。
それに対して俺が怒るだろうことくらい、分かっているらしい。
俺は眉を寄せたまま唇で笑った。
疲れた、しかも半笑いのみっともない顔が、一樹によく見えなければいいと思った。
「寂しかったのか?」
お前も、と口には出さずに付け加えれば、一樹がこくんと頷いた。
子供みたいな、あるいは有希みたいな頷き方で。
「――あなたと結婚して以来、こんなに離れるのは初めてでしょう? 家に帰ってもあなたがいなくて、それなのにあなたのいてくれた痕跡ばかりが目に付いて、それが……思ったより、堪えたみたいです」
そう苦笑した一樹の肩に、俺は軽く額を預けた。
和希を抱いているから、強く抱きしめたりなんてことは出来ない。
それがもどかしく感じられて、内心で和希に謝った。
「あ、あの…っ?」
うろたえる一樹を、付き合い始めたばかりのことみたいだと思いながら、
「俺も、」
「え……」
「…寂しかった。お前と有希のことが、恋しかった」
「…本当、ですか?」
「当たり前だろ。びっくりさせられはしたが、今晩お前に会えてよかった」
そう言った俺を一樹が優しく抱きしめた。
さっきまで泣いてたはずの和希は泣くのを止めて、大人しく寝息を立て始めている。
結局和希も寂しかったということなのか、それとも俺が無意識的に寂しく感じていたのが和希に伝わってしまっていたということなんだろうか。
俺は苦笑しながら、
「一度戻るか。今晩はお前も泊まっていけよ。今から帰るのも大変だろ?」
というか、帰るなんて言い出したら許さないからな。
「…はい、お邪魔させてもらいますね」
小さく笑って体を離した一樹は、ちょっと体を屈めると、俺の唇と和希の頬に、触れるだけのキスを寄越した。

翌日になって俺はお袋達に、一樹と有希も一緒に寝起きさせてくれるよう頼み込んだ。
お袋は、最初からそうするように言ったのに断ったのはあんたたちでしょと呆れながらも快諾してくれた。
少々手狭ではあるが、和希が夜泣きを繰り返すよりはずっといい。
その和希の夜泣きの原因であるが、どうやら俺の推測は両方とも当たっていたらしい。
何故なら、俺は明らかに安堵している状況であっても有希がいないと少々ぐずついたりするくせに、俺がいなくても有希がいるとご機嫌だったりするからだ。
「…お前、もうすでにシスコンなのか」
しかし、有希を女の子の基準にしてしまうと将来本当に苦労しそうだな。
こう言うと親ばかとかばか親と言われそうだが、有希以上の子はなかなか見つからないと思うぞ。
「そうですね」
と同意した一樹は、さっきまで和希を風呂に入れてくれていたせいで、髪から水が滴っていた。
和希の体を拭き終えたらちゃんと拭いてやらねばならんな。
「しかし、お前、意外とうまいな」
泣きもせず、耳に水が入ったりもせず、ちゃんと体も洗えている。
「あなたがちゃんと横で指導してくださったからですよ」
それにしてもうまい。
経験でもあるのか?
「あるわけないでしょう? そうからかわないでくださいよ」
そう言いながらも一樹は笑顔のままだ。
「僕でもちゃんとお役に立てて嬉しいんですよ」
「ばかだな」
と俺は笑って、
「お前はいてくれるだけでも結構役に立ってんだよ」
四六時中べったりされると鬱陶しいことこの上ないがな。
「頑張りますね。あなたのためにも、和希のためにも」
「ああ、頑張ってくれよ。お父さん?」
「はい」
俺は和希を待っていた有希に渡すと、手のかかる旦那の頭をタオルで拭いてやる。
一樹は嬉しそうに笑って、
「やっぱり、あなたと一緒にいられるだけで、僕は幸せなんです。いつも、ありがとうございます」
「…んな今更過ぎること言ってんじゃねぇよ」
「そうですね。すみません」
「……俺も、お前がいないとだめみたいだから、俺のことほっといたりするなよ」
「ええ、肝に銘じておきます」
忘れるんじゃないぞ、と俺は一樹に念を押し、約束の印のようにキスしてやった。


……とまあ、そんな時期もあったというのに、
「どうしてお前は帰って来ないんだ!」
電話越しにそう唸ると、電話の向こうから苦笑混じりの声が返って来た。
『すみません、忙しくて……。あなたが待ってくださっている家に帰りたいと思うんですよ? 和希にも有希にも会いたいですし、あなたに寂しい思いをさせているかと思うと胸が締め付けられるようです』
誰が寂しがってんだ、誰が。
俺は怒っているのであって寂しがってなどない。
『でも、あなたがそうして待っていて、家を守っていてくださるからこそ、僕も研究に専念できるんです。いつも感謝してますよ』
そんな言葉で誤魔化せると思うなよ。
ぐだぐだ抜かす暇があるんだったらとっととやることを終らせて帰って来やがれ、このバカ亭主!