目には目を



古泉との関係に関して、適切な言葉があるとしたら、良く言えば恋人、悪く言えば不順同性交遊ってところか。
ハルヒに言わせると熟年夫婦。
有希にしてみれば両親。
そんな風に呼ばれることをくすぐったく思いこそすれ、嫌とは思わない程度の関係ではあるだろう。
だから、俺のこの怒りは正当なものであるはずだ。

その日は古泉がバイトだとかで、放課後部室に顔を出さなかった。
緊急出動ではない分、あれやこれやと忙しく、帰りは遅くなるという話だったので、俺は長机の上に雑誌を広げてだらだらと時間を潰した。
雑誌の内容はほとんど頭に入ってこなかった。
古泉がいないというだけでこれだけ退屈して、つまらなく感じているってのもどうなんだろうな。
俺も時には妹の面倒を見るとか他の友人との付き合いだので部室に顔を出さない日もあるが、そんな時は古泉も、こんな風に感じているんだろうか。
それならまだ、俺も我慢出来るだろうか、などと考えながら過ごしていたのだが、義務感だの適当な誤魔化し染みた考えだけで耐えられるほど、それは甘いものではなかった。
それに何故か、妙な予感がしていたのだ。
何か、悪いことが起きているような、起きようとしているような感覚だった。
ハルヒのおかげでそんなものに慣れ親しむ破目になった俺としては、本能だか直感だかによる忠告は無視しない方がいいものとして考えていた。
しかし、いきなり帰るといってハルヒの機嫌を損ねるのも、などと躊躇ったのはほんの数秒だった。
耐えかねた俺は、
「やることないなら帰らせてもらうぞ」
と言って立ち上がった。
ハルヒは意外にも、
「そう、気をつけてね」
と言い、俺を驚かせたが、その後に悪辣な笑みで、
「古泉くんがいないからってそんなに退屈するんだったら、あんたも最初から何か暇つぶしでも用意してきなさいよ」
と付け足された。
「うるさい」
顔を赤らめながらそう吐き捨て、俺は部室を出た。
それでも、違和感は強まるばかりだ。
理由なんか知るもんか。
ただ、どういうわけか胸騒ぎがして、無性に不安を感じていた。
古泉に何かあったんだろうか。
脳裏を過ぎる嫌な夢はいまだに俺の記憶から消えてくれていないらしい。
もし、古泉に何かあったのだとしたら――と考えることすら恐ろしくて、俺はただひたすら、古泉の部屋へ向かった。
古泉の部屋のドアノブに手を掛けたが、それはガチャガチャと回りきらない音を立てるだけだった。
苛立ちながらポケットから鍵を取り出し、開錠する。
いつもと変わらないはずの部屋が、妙にがらんとして見えた。
じっと部屋を見ていたところで仕方がないだろうと、俺は部屋の片付けと夕食の準備をすることにした。
そうでもなければ耐えられないような静けさが、耳に痛かった。
見もしないテレビをつけて、少しでも空間を満たそうと音を立てる。
必要もないほどしょっちゅう携帯を確認する。
ちょっとした物音にも神経を尖らせて、なんでここまで不安になっているんだろうと呆れることすら出来ないほど、俺は参っていた。
早く、古泉が帰ってくればいい。
俺の不安を吹き飛ばしてくれるような、あの笑顔が見たい。
抱きしめて欲しい。
強くそう思えば思うほど、不安も強まった。
しかも古泉は、夜の9時を回っても帰って来なかった。
ソファに座って膝を抱え、ただ古泉を待ち続ける。
空腹を感じることもなかったから、夕食は完成直前で放ってあるままだ。
古泉が帰ってきたら一緒に食べれるだろうと、祈るように思い続けた。
いっそもっと時間や手間のかかる食事にすればよかった。
何かしていればまだ気も紛れただろうに。
待ち焦がれ続けた、
「ただいま帰りました」
という声が聞こえたのは、夜の11時も過ぎてからだった。
遅い、と返すこともできず、玄関に走ると、赤い顔をした古泉がいた。
「……飲んでたのか?」
「ええ、ちょっと…付き合い、とでも言いましょうか」
未成年のくせに飲酒するなよという突っ込みは無用なのだろうか。
困惑する俺を、古泉が抱きしめた。
嬉しいのだが、少し、いやかなり、酒臭い。
「酒臭いぞ」
文句を言ってやりながら、古泉を抱きしめ返すと、
「うつしてあげましょうか」
とキスされた。
抗うような素振りを見せながら、その実、古泉に縋りつくようにして身体を寄せる。
そのままふらふらとふたりしておぼつかない足取りで寝室に向かい、俺はベッドの上に押し倒された。
「古泉…」
期待に震える声でそう呼んだが、返事はなかった。
「……古泉?」
それどころか、動きもしねえ。
「……っ、この、バカヤロー!」
思わず怒鳴った俺を責められるなら責めてみろ。
どう考えても、古泉のが悪い。
人を煽るだけ煽っておいて、いきなり眠りやがったんだからな。
どうしてくれようか、と怒りながらも、表情は緩む。
「…よかった。何もなくて」
何もなくて当然だ。
それでも、そう呟かずにはいられなかった。
古泉に何かあったら、俺はどうにかなってしまう。
それくらい、俺は古泉を愛しちまってるらしいからな。
やれやれ、とため息を吐き、古泉の体の下から脱出すると、着ていたスーツを脱がせた。
機関への報告ってだけでここまでめかしこまなきゃならんとは、こいつも大変だな。
しかし、この年でスーツが似合うってのもどうなんだ?
呆れながら、
「お疲れさん」
と古泉の頬にキスをしてやり、ズボンのベルトを外し、スラックスを脱がせてやる。
ネクタイも取り、シャツも、と脱がそうとしたところで、俺は硬直した。
なんだこれは。
いや、何かは分かっている。
分かってはいるが、認めたくない。
何でこんなもんがこんなところにあるんだ。
シャツの下、爽やかな顔に似合わずがっちりとした胸板に、赤い口紅がべったりと付いていた。
ずきずきと頭が痛む。
酒を飲んできたのは古泉であって俺ではないはずなのだが、いつだったかの二日酔いを彷彿とさせるような頭痛に、俺はその場にへたり込んだ。
なんでこんなものがこんなところについてるんだ。
偶然付くような位置じゃないだろう。
歪みもせずブレもしないで、綺麗についてるってことは古泉が抵抗しなかったってことじゃないのか?
つまりは合意の上で、それは要するに、もしかして、いや、もしかしなくても、
「……浮気…とか……?」
あり得ないだろう、と笑い飛ばすことは出来なかった。
三年目の浮気?
いや、そもそも古泉とは出会ってからですら三年も経過していないし、そうでなくても浮気と決まったわけじゃないはずだ。
自分を誤魔化しながら無理矢理笑みの形を作ろうとして失敗する。
今頃俺の顔は人に見せられないほど醜悪に歪んでいることだろう。
俺は古泉のスーツのポケットを探ると、見慣れた携帯を取り出した。
着信履歴や送信履歴、メールボックスなんかを手当たり次第に見たが、特に浮気を匂わせるようなやりとりは見つからない。
ほっとすると共に、自分の醜さに嫌気がさした。
「…何やってんだ、俺……」
しかし、そうなるとなんでこいつが口紅なんて付けて帰ってきたのかが問題だ。
機関のバイトってのは実はホスト業だったりしたのか?
――なんてな。
俺はため息を吐いて古泉の寝顔を見た。
無防備な寝姿を見ていると、叩き起こすのも忍びなく思える。
それに、今、叩き起こしたところで俺にまともな質問が出来ると思えなかった。
狼狽して、訳の分からないことを口走るのがオチだろう。
古泉がこんな風に幸せそうに寝てるのは、俺じゃない誰かと居たからなんだろうか。
胸にキスマークを付けられるような、親しい人間と、いたから、なのか?
……古泉も、やっぱり、女の方がいいんだろうな。
俺は女みたいに柔らかくもないし、それどころか変なもんは付いてるし、それなのに、妊娠なんてしてて、本当は、嫌だったんじゃないだろうか。
ハルヒの機嫌を取るために、その鍵と言われてる俺の機嫌を取ってるだけなのかも、しれない。
そうじゃないと思う部分も確かにあるのに、そうかもしれないという不安ばかりが膨らんでいく。
古泉を信じたいのに、信じ切れなくなる。
信じ切れない自分の弱さが嫌で、込み上げてくるものを涙にして零した。
裏切らないって、言ったくせに。
…ああだが、俺も嘘を言ったことになるのか。
信じる、もう揺らがないと、約束したのに、たったあれだけのことで、こんなにも揺らいでる。
古泉が帰ってくるまでとは別の意味で、不安で不安でたまらなくて、気が狂いそうだ。
しゃくり上げながら泣いていると、寝ていたはずの古泉がこちらを向いて言った。
「……どうして…泣いてるんですか…?」
その手が俺の肩へ伸ばされる。
触れられたくない、と思った。
たとえその手がどんなに暖かくても、いや、だからこそ、嫌だと思った。
「お、前の、せいだろ…っ、触るな!」
そう喚きながら古泉の手を振り払い、俺は古泉の部屋から逃げ出した。
恥も外聞もなく、ぼろ泣きしながら家へと逃げ帰った後は、自分の部屋で、布団に包まって泣き続けた。
それでも耐え切れず、俺は堪りかねてハルヒに電話を掛けた。
夜中だというのにハルヒは数回のコールで電話を取った。
『何よ、こんな夜中に珍しいわね…って、あんた、泣いてるの?』
しゃくり上げる声でばれたらしい。
「ああ……」
『どうしたの? 古泉くんに何かあったの?』
「…っ、こい、ずみが……浮気、してる、かも、しれなくて…」
俺はただ、話したかったんだと思う。
それこそ相手は誰でもよかったんだろう。
最後まで話を聞いてくれるなら。
それでどうしてハルヒを選んだのかと問われれば、有希には心配を掛けたくなかったから、ハルヒ以外に事情を知っていて、こんなことを相談できるような相手が居なかったからだ。
話していくうちに、俺も少しずつ落ち着き、涙も収まってきた。
『古泉くんが浮気なんてするわけないって、分かってるんでしょう?』
「断言は…できないだろ……」
あいつだって、女の子の方がいいのかもしれないじゃないか。
『断言していいわよ。古泉くんはあんたしか見えてないんだから』
どうだか。
俺は、ぐしぐしと涙を拭いながら、呟いた。
「なんで、俺は男に生まれちまったんだろう…。女だったら、もっと堂々と、古泉と付き合うことも出来て、こんな風に劣等感に悩まされることもなかっただろうに。古泉をこんなに好きになるんだったら、何で俺は、女に生まれてこなかったんだろ……」
『……今だけでしょ、そんなこと思うの。あんたたちは男同士でも十分満足してて、幸せそうだもん。少なくともあたしにはそう見えてるわよ』
ハルヒは優しく、
『ほら、もうそろそろ寝なさい。話してすっきりしたんでしょ? 足りないんだったら明日また聞いてあげるわ』
「…ああ、すまん、こんな時間まで……」
『いいわよ、別に。今度菓子折りでも持ってきなさい』
「ああ、そうする。……おやすみ」
『おやすみ』
電話を切った後、携帯をマナーモードにして放り出した。
電源を切らなかったのは、前にそれで後悔したからだ。
だが、古泉からのメールは見ず、電話も取らずに俺は目を閉じた。
携帯のバイブ音だけがむなしく響き続けた。

翌日、俺はろくに眠れないまま登校した。
当然、授業は上の空で頭にも入らなかった。
それでも部室に行ったのは、教室では愚痴れなかった分ハルヒに愚痴ってやろうと思ったからに過ぎない。
だから俺は、古泉を思い切りシカトしてやった。
目も合わせず、口も聞かずに、団長席に座ったハルヒの側に椅子を持って行き、腰を下ろす。
そうして小声でぶつぶつと文句を言い、ハルヒは聞いているのかいないのか、時々頷きながらパソコンから大音量で電波ソングを流していた。
古泉に聞かれないようにという配慮なんだろうか。
それにしては選曲が物凄い気がしたが、それでもいいと俺はぐちぐち鬱陶しくも文句を垂らし続けていたのだが、不意に古泉が、困りきった表情で、
「…すみません、僕、何かしましたか?」
と言ったことで、ぶち切れた。
がたん、とパイプ椅子が倒れそうになるような勢いで立ち上がると、
「お前、ふざけんなよ…!」
「ふざけてなど…」
「うるさいっ、お前があくまでも惚けたりするつもりなら俺にも考えはある」
そう唸った俺に、
「そうね」
と同意したのは、ハルヒだった。
「キョン、覚えてる? 何かあったらあたしのところに帰ってきなさいって、あたし、言ったわよね?」
それがどうした、と言いかけて、ハルヒの言葉の意味を悟った俺は、小さく笑みを浮かべた。
さぞかし残忍な笑みになっていたことだろう。
「ああ、そうだったな」
「いいわよ、キョンなら。仕返しの浮気にくらい、いくらでも付き合ってあげるわ」
「それも悪くないな」
と、俺が頷いたところで、最前まで呆然としていた古泉が再起動した。
「い、一体何の話ですか、仕返しの浮気とかなんとかって…」
「やかましい。キスマークつけて帰ってきやがった馬鹿はどこのどいつだ」
俺がそう言って睨みつけると、古泉が驚きの表情を見せた。
「あれは、そういうのじゃありません」
「何がそういうのじゃないだ。キスマークなんてつけてきた時点で明らかにお前は有罪だ」
ハルヒも頷き、
「全くだわ。大体、キョンのこの対応だって甘いと思うわよ。浮気し返すくらいで許してあげるつもりなんでしょ」
でもまあ、とハルヒは椅子から立ち上がると、
「そういう甘いところも、あたしは嫌いじゃないわよ?」
と俺に抱きついた。
実は最初からいた朝比奈さんが視界の隅で、わはわと慌ててらっしゃるが、ハルヒにはそれも見えていないらしい。
いよいよ青褪めた古泉は、
「浮気なんてしていません! 僕は常にあなた一筋です! あれは、バイト先の付き合いで逃げられないまま飲み会に連れて行かれて、酔っ払った上司に悪戯されただけであって、とにかく、浮気なんかじゃありません!」
早口すぎて聞き取り辛いようなそれに、有希が頷いた。
「嘘は言っていない」
有希が言うなら確かなんだろう。
俺は憤然と、
「本当に浮気じゃないんだろうな?」
「当然です。僕があなた以外の誰に目を奪われたりしましたか? そうでなくても、あなたのことばかり考えているような状態なのに、浮気なんてとんでもないこと、絶対にしませんよ」
その目は真剣だ。
ハルヒの前だというのに、演技すら忘れているように見えた。
だから俺は、
「なら、許して…」
やる、と言うより早く、ハルヒが言う。
「どこまでされたの? キスだけ?」
古泉は戸惑いながら、
「そうですけど……」
それが何か、とでも言おうとしたのだろう。
だがそれは言葉にならなかった。
何故なら、古泉の目の前で、ハルヒが俺にキスしたのだから。
俺も言葉を失い、朝比奈さんと有希もぽかんとして俺たちを見ている。
一応触れ合わせただけだったのだが、それでも接触時間が長いそれに、一同が衝撃を受けている間に、ハルヒは俺を解放すると、古泉を睨みつけ、
「次はないと思いなさい」
と女王か何かのように言い放った。
古泉は大人しく、
「はい…」
と頷くしかない。
「あたしは、幸せそうにしてるキョンを見てるのが好きなんだから、今度泣かせたりしたら古泉くんでも承知しないわよ」
そう言い切ったハルヒに、俺はやっと思考を回復させ、
「お、女の子が軽々しくキスなんてするんじゃありません!」
と怒鳴ったが、ハルヒはぺろっと舌を出し、
「はぁい」
悪戯っぽくそう答えただけで、少しも反省の色は見せなかった。

「……やっぱり一番のライバルは彼女ですね」
とは、下校時、有希と三人になってからの古泉の言である。
「これに懲りたらもうこんな馬鹿な失敗はするなよ。…浮気するなら、隠し通してくれ。知らずにいられれば、俺は平気だから」
「冗談でしょう? 浮気なんて絶対にあり得ませんよ。僕はあなたのことだけをこんなにも強く愛しているんですから」
恥ずかしげもなくよく言えるもんだと思いつつも、真っ直ぐな眼差しと言葉が嬉しく、俺は軽く古泉の手を握り、
「…分かった」
と頷いた。