「なにぃ? また今日も帰れんだと?」 電話の向こうにいる奴には見えないと分かっていながらも、眉を顰めずにはいられなかった。 「今日で何日目だと思ってるんだ。八日目だぞ、八日目。一週間以上も何やってんだお前は」 『何と言われましても…』 苦笑しているんだろうなと分かる声が腹立たしい。 『今度の学会で使う原稿の作成に手間取ってるんですよ』 ああそうかい。 「俺の記憶が間違っていなければ、お前はまだ3回生だったと思ったんだが?」 『それで合ってますよ?』 「それならなんで、まだ研究室に入ったばかりの下っ端がそんなに忙しくしてんだよ」 『下っ端だからこそ、忙しいんですよ。原稿の手直しや翻訳くらいなら、僕にも出来ますからね』 それにしたって丸々一週間も帰ってこられないなんて、尋常じゃない。 「どうせ教授はまたお前等に任せて出払ってるんだろ。一度くらい縄で繋いどいたらどうだ?」 『そう出来るならしてやりたい気分ではありますよ。僕もいいかげん、家で寝たいですからね』 「寝るだけか」 『だってあなたは授業がある日、毎日僕に会いに来てくれるじゃありませんか』 「にやけるな」 『おや、ばれましたか?』 当たり前だ。 声を聞けばお前がアホ面さらしてることくらい分かるに決まってる。 「俺がお前のいる研究室に毎日顔を出すのは、授業の空き時間が暇で暇でしょうがないからだ」 お前らが無駄に部屋を汚すせいでもあるが。 『ええ、感謝してますよ。おかげでこの部屋も随分使いやすくなりました』 ありがとうございます、なんて言った後、一樹は、 『そういうわけですので、今日も帰れません。明日には流石に帰らせてもらいますから、もう一晩我慢してください。帰ったら、その分頑張ります』 「……念のために聞くが、何を頑張るつもりだ?」 『それは勿論セ――』 がつんと音がするような勢いで、俺は受話器を戻した。 これで電話が壊れたら、誰がなんと言おうと馬鹿な旦那のせいにしてやろう。 ムカムカしながら、俺は準備万端整った夕食に目を向けた。 チキンソテーにグリーンサラダとポテトサラダ、それからスープ。 ……サンドイッチ用の薄切り食パンも、冷蔵庫にあったな。 「よし」 俺が呟くと、ソファに座っていた有希が俺を見た。 「行くの?」 「ああ。有希はどうする? 和希と留守番してるか?」 返事をしたのは有希ではなく、その膝に座って絵本を読んでもらっていた和希だった。 「いくっ!」 「いい返事だ」 俺は小さく笑いながらそう言い、 「じゃあ和希はお出かけ用のコートを取ってこい。有希はちょっと手を貸してくれ。サンドイッチに作り変えるから」 「うん!」 「…分かった」 チキンソテーを薄く切り、サラダと一緒にパンに挟んでやる。 パンに塗っておくからしバターに、からしを多めに混ぜるのは御愛嬌だろ。 ポテトサラダや刻み卵を挟んだサンドイッチも作り、大きめの容器にみっちりと詰めてやった。 なかなかの重さだが、有希は少しも重さを感じさせない動作でそれを持った。 「おれもー」 と主張する和希には、りんごをひとつだけ入れた小さなリュックを背負わせてやった。 それだけで御満悦なんだから可愛いもんだ。 俺はというと自分と子供たちの分のお茶を入れた水筒を抱え上げるだけだ。 「それじゃ、行くか」 火と電気の始末を確認し、三人で家を出た。 大学までは電車を使えばすぐだ。 日が暮れてからのお出かけが珍しく、どうやら楽しんでいるらしい和希に目を細めながら、俺たちは大学に向かった。 「お邪魔します」 と言いながら、勝手知ったるなんとやらで遠慮の欠片もなくドアを開けると、病院にも似た研究室の白い部屋の中には屍がいくつも並んでいた。 ぐったりと椅子に座ったまま、あるいは机に突っ伏してぶっ倒れていやがる。 また飯も食ってなかったのか? と呆れながら、室内を見回すが、一樹の姿はなかった。 どうやら出払っているらしい。 それなら仕方ないな。 まずはここのゾンビ共に飯を食わせてやろう。 「ほら、飯だぞー」 と呼ばわりながら、空いている机に抱えてきた弁当を広げてやると、ゾンビの一体が反応した。 「お、」 「お?」 顔を上げたそいつ――確か4回生だが、名前は何だったかな――は、 「お母さんっ!」 と言いながら俺に飛びついてきやがった。 「誰がお母さんだ!」 お前みたいなでかい奴の母親になった覚えはないっ! そう怒鳴った辺りで、他の連中ものろのろと頭を上げた。 「学会はまだ先だろうに、大変だな」 呆れながらサンドイッチを渡してやると、男女も関係なく貪りながら、 「もう、すぐそこですよ」 と反論された。 よっぽど切羽詰っているらしい。 それなら一樹が帰れないのも仕方ないか、と諦めのため息を吐きながら、和希と有希も座らせて、サンドイッチを食べさせる。 俺もひとつ、とチキンサンドを口に放り込んだところでドアが開き、一樹が戻ってきた。 「お帰り」 と言ってやると、一瞬唖然とした後、嬉しそうな、だが素直には喜べないとでも言いたげな笑みを返された。 「どうしたんです?」 「陣中見舞いだ」 「それはそれは」 と苦笑する一樹に気がついた和希が、 「とーしゃんっ」 と言いながら抱きついた。 一樹も目を細めながら和希を抱え上げる。 「久し振りですね」 全くだ。 「お前が和希に顔を忘れられたら可哀相だと思って来てやったんだ。ありがたく思えよ」 そう言ってやると、一樹は笑いながら、 「本当に嬉しいですよ。ありがとうございます」 よし、ここで来なくてよかったとか何とか言わなかっただけ褒めてやろう。 和希はぺたぺたと父親の顔を触りながら、 「とーしゃん、おひげざらざらー」 と言っている。 「髭を剃る暇もないのか?」 俺が呆れながら指摘すると、 「面倒になってただけですよ」 と返された。 和希が床に下ろされたのを確認してから、一樹に近づき、その頬に触ると、かすかにざらついていた。 「まあ、これくらいならいいんじゃないのか? お前、元々髭が薄い方だし」 「この機会に伸ばしてみましょうか」 「やめろ」 「お嫌いですか?」 嫌いも何も、 「お前じゃないみたいで気色悪いだろう」 「それはともかくとして、」 困ったように笑った一樹は、 「明日には帰れると言ったじゃないですか。それなのに、本当にどうして来てくださったんです?」 くだらないことにこだわる奴だな。 俺は一樹にだけ聞こえるよう、極力小さな声で言ってやった。 「…お前に会いたかったんだよ。悪いか?」 何しろ昨日は土曜、今日は日曜で休みだったからな。 金曜以来会っていないことになる。 いれば鬱陶しいやつでも、いなけりゃ寂しくなるもんなんだ。 「あなたってひとは、もう…」 照れたように顔を赤らめながら、一樹が俺を抱きしめた。 やめんか、人目があるってのに。 「今更でしょう?」 くすくすと一樹が耳元で笑う。 「愛してますよ。何があっても、明日はちゃんと帰ります」 「……約束しろよ」 「はい」 「…よし」 一樹は約束を破ったりはしない奴だ。 信じてやることにしよう。 「お前もサンドイッチ食えよ。せっかく作ってきたんだからな」 「あなたは食べたんですか?」 「まだこれからだ」 「それなら一緒に」 「そんな悠長なことを言ってられればいいがな」 何しろ、ただでさえ健啖家の有希と、飢えたゾンビの群れが一緒なんだ。 食べ損ねても知らんぞ。 弱肉強食とか生存競争とかそういう言葉が似合うような、しかしながらそれはそれで楽しい夕食の後、俺は有希と和希と共に部屋を出た。 一樹は見送ると言って、研究棟の玄関までついてきたが、 「とーしゃん、きょうもかえんないの?」 と今にも泣きそうな顔をする和希に、 「すみません」 と謝っている姿を見ると、研究室で分かれておくべきだったかもしれないと思った。 「明日には帰りますから」 言いながら、一樹は和希をぎゅっと抱きしめてやった。 「…うん」 いくらかほっとした様子の和希を放し、一樹が立ち上がると、有希が一樹を抱きしめた。 「早く帰ってきて」 と言ったところを見ると、有希も寂しかったのだろう。 「…ええ、出来るだけ早く帰りますね」 そう笑った一樹を、最後は俺か、と思いながら軽く抱きしめる。 「本当に、早く帰れるよう頑張れよ」 それだけ言って、一樹に軽くキスすると、一樹の頬を軽く擦った。 「…やっぱり、髭はない方がいいな」 「そうですね」 破顔一笑した一樹に、 「じゃあな」 と手を振り、その場を離れる。 帰りは荷物も軽いから、ほとんど手ぶらみたいなもんだ。 空いた手を和希と繋ぎ、有希も和希と手を繋ぐ。 「和希、お父さんにりんご剥いてもらえてよかったな?」 「うん」 嬉しそうに言った和希の笑顔に、この寒空の下でも暖かくなったように感じられた。 |